6-14 Now Reading...
そう、それこそが、今回の作戦における究極の目的である。
それがために、わざわざヒューマン圏の奥深くまで侵入しているのである。
ここまでのことをやったからには、もちろん、ディーン皇国首都を占領するのも主目的の一つ――しかし、最悪、それは放棄しても構わない。
そして、今が最悪の時だった。
土甲隊の指揮官であるクレージュ・エメルシュは、騙されたと思っていることだろう。話が違う――と。ありえない、と。
帰りの便が無いというのではない。メランド姉妹とシンがいる限り、本国への帰還は保証されている。帰りの分の魔力を賄うために、五つの中継点さえ設けているのだ。蛮族領を無断で通ってきたのだ。仮にディーンの防備がこちらの予想を超えて堅かったとしても、着地点であるあの遺跡まで撤退すればいい。
問題は、その撤退すら許されずに大半の兵を失ったというこの現実だ。
戦闘開始時に、こちらが有利であったこと――それが却って、状況を見誤らせたのかもしれない。いや、実際に血が流れ始めてからも、それこそ、つい先程までは――相手を押し潰せるところまでこちらの戦力は展開されていたのだ。そうはさせまいといくら立て直したところで、それを崩せるまでずっと展開し続けられる余裕が、こちらにはあったはずなのだ。
魔力には、限りがある。
事ここへ至っては、向こうにこちらよりも突出した使い手がいることは、認めざるをえないだろう。ディーンの土甲兵――さむらいの頭は、確かに雑兵をものともせず、火球を真正面から受け止め、一時的に獅子の足を切り落とすことさえやってのける。年若い端女の格好をした水魔法使いも同様に、砲から身を守りつつ接近し、獅子の臓腑を喰い破る。
そして――あれが噂に聞いたセーラムのゼニア・ルミノア。94番によって空から放り出されたかと思うと、獅子を、消してしまった。
だが、魔力には限りがある。
彼等がいくら優れていようとも――こちらの戦力全てと戦い続けることはできない。
94番は、突如として暴れ狂った。
力を温存しておく理由は何もない。出来るなら、最初から亀を叩き潰しているはずだ。それは裏を返せば――途中まで、それが出来なかったということだ。
ディーダ元帥の推論を証明してしまったのだろうか、とマイエルは思った。
その男の魔法が、心のどこから来ているのか。
シンは恐怖によって――おそらく自分が嫌われるということに対する恐怖によって――あの強力な魔法を呼び起こしている。94番は、何によって?
――魔力には、限りがあるはずだ。
奴は底なしなのか?
それとも――底が抜けてしまったのか?
自分達が、それを助けてしまったのか?
――それでもなお、これほどまでに、隊員を失うものなのだろうか?
ほんの短い間に、マイエルはそれらを目撃していた。口笛の音色が鳴り響いた時から、一つ、また一つ――と、しかし苦もなく獅子を破壊していく物体が、そこにはいた。マーレタリアにいるどの音楽隊からも聞いたことのない音の並びが途切れ途切れで近付くにつれ、前方の視界を埋め尽くしていた巨大な土の獣が足を止めていく。右翼の二体が内部からの血に染まって動かなくなったかと思えば、左翼の二体が幾重にも刻まれて崩れ去る。味方さえも、空気の動きで突き動かしていく。
「……ホルスト?」
風で増幅された不気味な音色を聴いているうち、シンが何かに気付き、そう呟いていた。だが、説明されても、何のことだかマイエルにはわからなかった。
「音は一つしか出てないけど、『火星』ですよ! 音楽の授業で聞いたからわかるんです!」
そんな些細なことより、差し迫った脅威へ本当に対応できるのかという不安の方に頭が占められていたというのもある……。
そして、今だ。
目が潰れるのではないかと思う程強烈な魔力の閃光を、94番は絶え間なく放出している。
ディーダ元帥が、正しいとすれば。
94番は、エルフに対してのみ、あれほどの魔法を使うのではないか。
その根源は何か。レギウスと、マイエルだ。
メイヘムに自分達がいるということを知っていたから、94番は竜巻を起こした。
今、マイエルを見つけたから、94番は土甲大隊を壊滅させた。
エルフ民族というものに対しての憎しみと怒りが、原動力であるなら。
同じヒューマンであるシンは、その隙を突けるのではないか。
あの憐れな協力者によれば、少年はディーンの現地民と、雰囲気も似ているらしい。
要は、シンがこちら側ではないと、94番が誤解してくれればいい。
「渡すわけないでしょう! このまま首都まで案内してもらうわ! その先へもね!」
ギルダが剣を抜いた。両方ともだ。
「死ねっ!」
師であるレギウスを思い出させる、素晴らしい踏み込みだった。土甲隊の歩兵にも見劣りはしない。魔法を伴わぬ、生身での到達域としては、かなりの部分まで仕上がっている。
ここに火の一撃を組み合わせても、94番には届くまい。師を倒した相手だ、それはギルダ自身もよくわかっているだろう。だが、彼女はそうした。それが少しでも演技に説得力を持たせることになるのなら――。
94番は棒立ちでそれを待ち構えた。
五つの方向から己を焼かんとする熱の塊を、何ともなしに眺める。
そしておもむろに、吊るように手を持ち上げたかと思うと、撫でるように下げた。
かなり離れていたマイエルの前髪を、くしゃくしゃに造り変えてしまうほどの突風。
それで炎の悉くは、地面と一体化して消え去った。磨り潰されたかのように。
ギルダはそれを見ても怯まなかった。むしろ、その一瞬のために炎を捨て駒にしていた。意外なほどあっさりと94番を間合いに入れ、
「吹くだけが風じゃねえさ」
振り切ったように見えた刃が、ある位置から全く動かない。
熟達した使い手は、風を操るだけでなく、空気そのものに干渉できるという。
マイエル達は、その事象を見せられていた。
「なるほど? 炎は別だが、剣は、奴に似ていなくもない……」
局地的暴風である。
ギルダの足が地から引き剥がされ、身体が宙を進み始める。
だが、一方向にではない。そのまま引き千切られてしまうのではないかと思わせるほど、彼女は空中で嬲られ始めた。獅子が最初にされたのとそう変わらない、無軌道な動きの繰り返しである。髪は乱れ、手から離れた剣すら地に落ちることも叶わず、一緒くたに混ぜ合わされている。そのせいで、細かい切り傷が肌に刻まれ始めた。おそらく反射的に、ギルダは自分のもう一つの魔法である治癒を発動させた。
それを見た94番は首を傾げ、
「んん?」
やがて納得したように、
「ああ――見るのは初めてだな……」
ギルダを弄び続けながら悠々とマイエル達の前まで歩み寄り、ほぼ逆さ吊りの状態で静止させた。
「まだやるかね」
欲を言えば、あと一歩。
しかし、ここまで死なずに接近できただけでも、ほとんど奇跡のようなものである。
あとは気取られぬようシンに合図を送るだけだ。
――マイエルが動くより先に、シンは、魔力を走らせている。
肉体を強化する魔法は、魔導院で既に会得していた。
それによる瞬発力は決して無駄ではない――逆に、全てを風に頼っている94番が数瞬でも躊躇った時点で、その差は明確に現れた。
殴り倒すところまで、いった。
それまでの振る舞いからは考えられないほど、94番の抵抗は鈍いものだった。まるで、魔法を使うという発想そのものがすっぽりと頭から、抜け落ちてしまったかのように――。いくら手足をばたつかせても、それは何らシンの動きを妨げない。
そのまま、何にも守られていない頭部が、しっかりと両手で掴まれた。
魔力が道化を貫き、仕事に取りかかり始めた。
~
これも、油断というのだろうか?
その少年は、言っちゃ悪いが、ちっぽけな存在にしか思えなかった。
線は細いし、知的な面構えでもない、目の中もぼんやりと曇っていて、内にある強さというものを欠片も感じさせない――俺と同じ。
それが一体どうして、ああ今やっと気付いた、牙を剥いてきていたなんて?
しかも魔法を使った。常人とは思えない動きで懐に入ってきたかと思うと、もう世界を揺らされていた。殴られたことがわかって、その時には起き上がれないようになっていて、これからどんなひどいことをされるのか、何でこんなひどいことをするのか――エルフでもないのに!
次の瞬間には頭をガッシリと掴まれて、急に、感覚の何もかもが現実感を失った。だがそれは感覚が鈍くなったっていうんじゃなくて……その逆、ありえないくらい鋭敏なものに変わっていた。変えられていた? 何が起こっているのかわからないのはいいとしても、胃の中に直接手を突っ込まれたようなこれは、まずい。今までのどの苦痛よりもグレードが高い。両膝を内側から骨ごとひっくり返されたようにも思えるし、眼球を蒸発させてできた窪みに中指と薬指を移植したようなちぐはぐさもある。
何より、脳味噌をわし掴みにしてかき混ぜた後、脊髄を輪にしてそこに入れ直したようなのが一番困る。
これで死んでない分、あの闘技場で過ぎ去った出来事さえも、軽く上回っている。
本能は幻覚だと叫ぶ。理性もそりゃあそうだろうと同意している。何しろ、繰り返して言うが現実感がない。現実に起こらないことでもある。
それはそれとして、耐え難い。
ただただ、耐え難いものがある。
宇宙の中で自分がどのあたりの位置にいるのかもわからないまま、最早どれほどの時間が経ったのかもわからない。短いのか長いのかという差に、あまり意味があるとは思えない。入ってくる情報の量も、それに対して出力される(俺の)反応の量も、いつもとあまりに違うので(多すぎるので)、相対的に、何がどれだけ進んだかということが非常に測定しづらくなっている。
代わりに、この何かが、途切れ途切れではなく、続いているものだということ、加えて、ただ悪戯に俺をいじっているのではなく――目的があって、ああもちろんいじること自体が目的だというのではなくてね、どうやらその目的が……俺の中身を調べることと、俺の中身を造り変えることに集約されているらしいのが、わかった。つまり、俺の細胞一つ一つにこびりついているもの――それをいちいち確かめたいらしかった。あるいは、そこにないものすらも、細胞を通して確かめようとしている。
であれば、この幻覚群も理解はできる。むしろ意外なほど直接的な表現だ。
そこまでだった。何もかもが、そこまでだった。
――戻ってきた時、天地が逆さまになっていて安堵した。
苦しみすぎて仰け反った結果だということが瞬時にわかった、この喜びたるや!
首が疲れていて、力が抜けるに任せると、ごろりと転がるしかなかった。まだ時間の流れを上手く掴みかねているのか、即刻起き上がるように身体に命令したところ、どう考えても三秒以上はあるラグを確認した。それも、背筋を伸ばしてシャッキリというわけにはいかない。腰の曲がったジジイとそう変わらない生き物の真似をするのが精一杯というところだ。
口の周りが唾液に汚れていて、袖で拭った途端、少しも堪え切れず嘔吐した。
地に手を突き、全部戻して胃液も足して、なお腹の内側が渦を巻いている。
胃痙攣だとこういった具合に死ぬのか、と、どこか冷静な部分が俯瞰するように眺めていた。次の世界(もしそれがあるとすればだが)へ移動する前に、少しでもこの世界のことを憶えておこうと、口は開いたままでももう何も出ず汚しようがないので顔を上げ、死ぬのにはまだ早いと、やっと本来の俺が舵を切り始めた。
姫様がいた。
後ろ姿だったが、見間違えようもない。
さっきまでの現実が今の現実へとどう繋がったのか、俗世から離れていた俺にはわからない。謎のヒューマンの少年が姫様の先に見えた。そして、それがわかった途端、少年の名前が、ナルミシン、であると俺は知っていた。
混乱した。
俺はあの少年が自己紹介をした場面どころか、発した声すら知らない。どうしてそんなことがわかったのか。当て推量だとか、勝手にそう呼ぶことにした、とかではなく、わかって、いる。
それだけではなかった。彼が十六歳であることも、俺と同じ世界から来たことも、同じ世界の、2027年人であることも、当然のこととして、知っていた。
この戦争を、終わらせようとしていることさえも。
エルフの、味方であることさえも。
「な、あ……」
俺は、見たのだろうか。あの少年を、あの間に。全てでは、ないだろうが。
という、こと、は、だ。
この、居心地の悪さは……。
逆は、
――空っぽになった胃袋の底に、見られた、という確信が、ぽとりと落ちてきた。
お前は何もかも知られてしまったんだよ、と、声が頭蓋骨の内側で反響している。それは太陽の光ように、落ちてきた種へと降り注いだ。発芽し、成長した。
俺は、あの少年のことをどう思うか、決めた。
一歩踏み出した。
今なら空だって落とせそうな気分だった。
いくらでも魔法の素が湧いてくる、
はずなのに。
少しも、俺は光ろうとしない。
踏み出したまま、脚から力が抜けていった。
大したことない、尻もちの痛み。立ち上がれない。
こうなる前にあれほどあった魔力は、どこへ消えたのか?
「少し休んでなさい」
こちらを振り向かずに、姫様はそう言った。
俺の代わりに、あの少年――シンと、対峙しているのだということがわかった。
シンの方も、マイエルとその助手を自分の後ろに控えさせ、手で前へ出ないように示していた。姫様から守らなければならない、という判断なのだろうか。
いずれにしても、
「――そいつはっ、危険だ! 姫様、触ったら、」
シンが魔力を鞭のようにしならせた。それは確実に姫様の頭を狙っていた。決して速くはなかったが、しかし残酷なほど幅が広かった。オーケストラの指揮者のように、両手を使って魔力の動きに命令している。
さすがの姫様も直立不動で受け止めるというわけにはいかなかった。同じく、両手から膜のように魔力を発生させた――受け止めるために。
こういう形での魔力の激突を見るのは初めてだった。だが、これも妙な話だが、構図としてはわかりやすかった。現象としては、シンが全開でぶつけてくる魔法の先端を姫様が押し戻しているのだろうが、それは純粋な力比べに見えた。押し合いだ。より強く放出した方が、魔法を相手に到達させる。
二人の魔力は様々に形を変え始めた。進んだり戻ったりしているところを見ると細かな攻防があるのだろうが、俺には知りようもない。どちらが有利なのかさえも。だた、姫様が獅子を消し飛ばしたのに使った魔力と、シンが俺に使った魔力では、どちらが多いか――前者のように、思えてならない。
それでも、効率で勝っていたのか、最後には姫様がシンを追い詰めた。その魔力を到達させたところでシンをどうにかできるわけではないだろうが、ともかく完全に押し返し、シンはその勢いを覆すことができず追い詰められ――両者の魔力が切れた。
姫様は長く息を吐き、剣に手をかけた。
「剣をくれ!」
シンも、マイエルの助手から――ギルダから、剣を片方受け取った。
まさか剣の腕で姫様に敵うはずがないと俺は思ったが、どこで覚えてきたのか、構えは堂に入っている。二対一の状況で、ギルダは魔力を残している。
苦戦するのかもしれなかった。
「姫様ぁ!」
ジュンの声だった。駆けつけた――もう決着がついたのか。
声のした方を振り返ると、彼女が片手に二匹分の長い髪を掴んでいるのがわかった。
その先には、きちんと首も付いている。
それを見たシンが、この世の終わりのような声を上げる。




