6-5 掌握
そこからの展開は、マイエル達の予想を遥かに超えて加速したと言っていい。
数度の実験を経て、シンは自分の魔法が心を操り、記憶さえも読み取ることを知った。最初の実験台は言うまでもなくソルティスであり、後から話を聞いてみると、彼はその時点でほぼ完全に掴んでいたのだった。
「では、既にあの時、君は魔法を使っていたのか……」
「そう。最初は、ただカンがよくなったと思ったんだ。でも違った」
「ソルティスの心を読んだから、炎を避けられたの?」
「そう考えるしかないんじゃないかな……。絞り込んでやっとだったけど」
ある程度の範囲内にあれば……見えていれば、というのが本人の談だが、他者の考えていることが頭の中に流れ込んでくるという。それがどれほどの精度なのかマイエル達には感じようがないが、結果としては、先読みして最初から炎の来ない安全な場所に避けた、のであろう。ヒューマンの少年の身体能力でそれを可能にした、ということを加味すると、相当にわかってしまうものだと想像できる。
とはいえ、ソルティスが複数の対象に注意を割かなければならなかったのは追い風だった。マイエルを閉じこめつつギルダを焼かないようにする、という条件が付いてなければ、いくらシンがソルティスの思考を読んだとしても、あっさり消し炭になっていたのではないか――自由な状態なら、逃れようのない規模の炎を操ることは、あの若者なら可能だったはずである。
「その後、わざわざ触れたのは?」
「んー……触らないで出来るのは、読むところまでみたいなんです。そこから……何て言うのかな、どうこうしよう、と思ったら、やっぱり直接……」
「魔力を介さなければ、いじることはできないのか」
「みたいですね」
魔法は心の在り様でもある。魔法家の心を読むことは、その魔法をも読むことに繋がる。シンが言うには、読み取った魔法の記憶を自分のもののように扱うことで、再現しているらしい。
「君は簡単にそう言うが、かなり難しいことのように思えるんだがね」
少なくともマイエルは、その練度の魔法家に出会ったことはなかった。噂も聞いたことがない。尤も、精神に関連する魔法の使い手がそう多いわけではないから、何をもって優れているとするかの指標がよくわからないということもある。
「簡単にって……簡単じゃなかったですよ! こっちはそうしなきゃ殺されると思って必死だったんですからね!? 今同じことやれって言われても、多分無理ですよ」
「ああ、いや、悪かった。結構驚かされたものだから……。では逆に、どうしたら同じことができるようになると思うかね?」
シンは少し考え、
「――同じように無我夢中になれたら、ってことですか?」
「そうだ。前に少し話したと思うが、魔法の源は心、感情から来ている――と言われている。君があれほどのことをやってのけたのは、そこに激しい感情の動きがあったからだよ。あの時、君が最も強く感じていたものは何だ? それがわかれば、再現も難しくないはずだ。君がどう思い、どう感じれば、魔法を奪うまでに至るのか――」
「それなんですけど、多分、正確には、奪ったんじゃなくて、真似させてもらって、ついでに使えなくしたんだと思います」
「魔法に関する記憶を喪失させることで?」
「いや、あの人……」
「人じゃない。エルフだ」
「あのエルフの人……」
それ以上訂正するのが今は面倒になり、マイエルは顔を顰めた。
「魔法を使えたっていうことまでは憶えているはず。でも、どうやって使っていたかは絶対に思い出せないようになった……んじゃないかと思います。自転車の乗り方を忘れるような感じなんですかね」
「前から気になっていたんだが、その自転車というのは何なんだ?」
「あ、いや、じゃあ……泳ぎ方を忘れる、とかそういう感じなんじゃないかと」
「しかし、その論法でいくと、適切な方法さえ取れれば、そのうち魔法の使い方を思い出すんじゃないかね?」
「……そうかもしれないんですよね……。ただ、」
「ただ?」
「オレ、魔法のことあんまりよくわかってないですけど、もし、それが息の仕方を忘れるのと同じくらい大変なことだったら、そのまま、死んじゃうかも」
呼吸。
改めてそう言われてみると、確かに魔力を放出するところまでは、呼吸をするのとそう変わらないかもしれない、とマイエルは思った。それを変換なり成形なりすることが難しいのであって――。
魔力を懐から取り出すあの感覚そのものが失われたとしたら、確かに、魔法の才能はそのまま死ぬかもしれない。
ソルティスが魔法を忘却したことによって、学院内は一時騒然となった。あの若者は何が何やらわからぬまま、一夜にして魔法分野においては無能となってしまったのだった。その不気味さが、原因不明が、もしかすると次は自分の身に同じ災いが降りかかるのではないか……という不安を数多くの学生達にもたらしていた。指導者も例外ではなかった。事情聴取の場にはギルダも立ち会ったが、ソルティスは、本当に、何も憶えていなかった。わからないことだけがわかる状況であった。
彼が自主鍛錬のために夜間外出していたことは寮の面々が把握しており、演習場の焦げ跡の増え方から、その通りであることは一応裏付けられた。何者かによる仕業ではないかというところまでは推測が立てられたが、結局、あの夜のいざこざを目撃した者はおらず、今のところ、マイエル達の匿っているヒューマンにまで疑いの目は向けられていない。時間の問題ではあるだろうが――。
ソルティスは、失意のうちに自ら魔導院を去った。
「君は、彼のことをどう思った?」
マイエルがそう訊ねると、シンは、何かに耐えるように目を閉じ、
「――こわかったです」
そう告白することによって、むしろ安堵したような表情を見せた。
「何も悪いことしてないのに、あんなふうに敵意を向けられる。それがこわかったんだと思います。あなた達もオレに怪我をさせようとした……というか実際に刺されましたけど、最初から治すつもりだったわけだし……敵意とは違う。意地悪っていうのでもない。あれから特にひどいことはされてないし……。だから、ああやって本気で殺そうとしてくるのが、全然わからない。オレがあなた達とは違う生き物だからってことが、理屈ではわかっていても、それで納得なんてできませんよ。戦争してるからなんですか?」
真面目な問い方だったので、つい、
「まあ、それが原因の一端ではあるだろうが……」
と受け止めてみたものの、実際には生理的な嫌悪の方が勝っていることをマイエルは知っている。
ヒューマンは、単純に美しくなく、劣っていて、害虫のような振る舞いと増え方をする。それだけのことなのである。嫌うには十分すぎる。もちろん互いの損益が起こした激しい摩擦が戦争を今も続けさせているのだろうが、ヒューマンさえこの世から消えてくれさえすれば、エルフは格段に住みよい暮らしを手に入れ、本当の平和を享受することができる――と本気で思い込んでいるエルフは少なくない。マイエルのように、そう簡単にはいくまいと考える者でも、理想がそうであることに異を唱える気にはならない。
ヒューマンがいないに越したことはない。奴隷ですら、ヒューマンは必要ない。
「とにかくだ、その、こわいという感覚を大事にしてほしい。それがきっと、最終的には君を助けるだろう」
シンには決して、言えないことだが。
「今後は、君がもっと上手に魔法を使えるよう、私達も手助けしていくから……」
結果から言うと、その必要はなかった。
というのも、そうと決まった次の日から、シンは自主的かつ精力的に魔法を開発し始めたのである。マイエルとギルダは専ら、その様子に立ち会うだけであった。
基本的な活動内容は、魔導院のあちこちを徘徊し、これと決めた相手にその場で魔法をかける、というシンプルなものである。それこそまさに手あたり次第、といった印象をマイエルは受けたが、実は彼なりの判断基準が存在していた。
「オレを見て、理由なく、反射的に嫌おうとするなら、味方になってもらう。こわいからね。逆に、オレも納得できるような根拠を持ってオレを嫌おうとするなら、そのまま」
そして、魔導院を構成するほとんどの者が、次に会う時にはシンへ好意を示す破目になっていた。どこかで食い止められそうなものだが、マイエル達の考えていた以上に、シンの魔法は凶悪であった。
シンは最初の段階では、問答無用で危害を加えてきそうな相手や、どうやっても歯が立ちそうにない相手は、さすがに避けていた。魔法をかけようとする時は、距離を保って心を読み、それで確実に触れる段階までいける相手を選んで、試したのである。触りさえすれば、肉体的な抵抗をほとんど封じてしまえるのだった。
彼が言うには、寝ていたり等、よっぽど無抵抗の相手以外なら、心を弄ばれまいとする反発が当然あるのだという。だが、除かれている側はそこに全意識を傾けなければならないため、結果的に、肉体的な抵抗は意味をなさなくなり、ソルティスもそのために魔法を失ったということらしい。
あとは精神面での反発だけだが、そこはシンにとっては圧倒的に有利な戦場で、さらに完全武装の状態で丸腰を追い込むようなものなので、負けることはありえないそうである。おそらく同系統の魔法家同士がぶつかり合った時にだけ、そこでの攻防が問題となるのだろう、とマイエルは思った。
だが、それは彼の魔法が持つおそろしさの、ほんの片鱗に過ぎなかった。
シンは、心を覗いた相手の、運動能力や戦闘技術まで、悉く再現して見せたのである。
これこそまさに驚嘆するべき作用だった。ソルティスから魔法を奪った時点で、シンは彼と同じ身体の動きを会得していたのだった。残念ながら基礎的な肉体の強靭さが欠けていたため完全な模倣とまではいかなかったが、簡単な組手程度なら、ギルダにもそう易々と組み敷かれないほどには、人が変わっていたのである。
そうして、シンは瞬く間に四大魔法を憶えた。一通りの武器を使った戦闘方法も身に着き、早々に頭を切り替えたギルダ監督の下、肉体改造にも励み始めた。というよりも、この魔導院にある全ての魔法を呑み込もうとする勢いが確立された今、課題といえば、その貧弱さしか残っていなかったのである。
意外なことに、シンはヒューマンとしては膨大な魔力を秘めているようだった。標準的なエルフの魔法家と比べても遜色がないか、それ以上のものを感じさせるほどである。ソルティスの例から反省して、魔法を奪うのではなく、模倣させてもらうだけ(本人曰く「できる限り表面をなぞるだけ」)のやり方もすぐに会得したため、制御に関しても並々ならぬ才気が窺えた。
ただ、憶えたといっても、読み取った相手以上に熟達することができないのは悩みの種であった。しかし、あくまでシンにできることが真似である以上はどうすることもできず、如何にしてより熟練したエルフを探すかということが、マイエルに課された試練のように思われた。むしろ、それくらいしかやることが残っていないのではないか、という現実に眩暈を覚えるほど、シンの成長は目覚ましいものがあった。
ギルダはそれほどの疑問も持たず、あのヒューマンのさせるがままにしている。それどころか、学友をけしかけてまでシンの糧にしようとしている節さえあった。レギウスを取り戻すための戦力が着実に育っているのだから、彼女としては万々歳ということなのだろうが、このペースでは、そのうちマイエル達では制御できないほどの怪物が出来上がる可能性は、決して低くない。
「奴はそれらしい師もつけずに、勝手に一人で発達している。その危険性がわからない君じゃあるまい?」
「……そんなこと、ないです。だって、シンはもう、逃げようと思えば逃げられますよ。
そうしないのは、まだわたし達を頼っているからじゃないですか……仕方なく、かもしれませんけれど。大事なのは、いくら強くなっても、彼はまだこちらのことを何も知らないということです。召喚したばかりの時、シンはどうでしたか? 自分から迷子になろうとは、しないと思いますけど」
いつの間にか、ギルダはシンのことを名前で呼ぶようになっていた。
もしやギルダは既にシンの魔法によって、心を操作されているのではないかとマイエルは考えた――そして、危惧していた通り、それは考えても仕方のないことだった。
もう、確かめようがないのだ。
一応、憶えている範囲では、シンはマイエルとギルダの内側だけは、頑なに覗こうとはしなかった。魔法開発の一環として読まれる感覚を知るため、敢えて読心を頼んだのだが、シンはこれを拒否した。
「……ごめんなさい。あなた達の心を読みたくないんだ。嫌いだからじゃない。むしろ、感謝しているから、そういうことはしたくないんだ。その……心を読まれるのって、すごく不快になるみたいだし、想像するだけでもそうだろうと思うし、だからさ。全く恨みがないわけじゃないけど、こんな環境でオレを保護しようとしてくれているだけで、結構嬉しいんだ。打算でそうしたんであってもね。そういうわけで、やめておこうよ」
シンの言葉を、もちろんマイエルは信用していない。
だが、この信用していない心が既に作られたものであるという可能性は、ある。
そんなことをしてシンの得になるのかとも思うが、敢えて反抗的な感情を残しておくくらいのことは、簡単に思いつくだろう。
――既に手遅れなのかもしれなかった。
そして、この、手遅れなのかもしれないという考えもまた――。
やがて、シンは魔導院を掌握した。
もう、ヒューマンだからといって彼を邪険に扱おうとするエルフは、この機関にはほとんどいない。誰もが挨拶を返すし、機嫌が良ければ菓子などを分け与えることすらある。とうとう、(こっそりとだが)恋文をしたためる女学生までが出始めた。
魔の手にかかっていないのは、マイエル、ギルダ、バーフェイズ学長の三名のみ。それもシンの言うことを鵜呑みにすればであり、あとは僅かに、それなりの根拠を持ってシンを嫌っている層がいるのみである(偶然発生した口論の結果頭がよくないと感じたり、自分よりも恵まれた境遇に嫉妬したり、等々)。
ある日、彼は宣言した。
「おかげさまで、ある程度、魔法も使えるようになりました。実は、ずっと迷っていたんですが……やっぱり、おふたりに協力しようと思います」
この頃にはもう、なるようにしかならないと諦めていたマイエルだったので、存外素直な申し出に、少々面食らった部分はある。
「思い、ます、が! 一つだけ、条件があります」
シンは着ている服の襟を正し、
「もちろん、ギルダさんが望むように、レギウスさんは取り戻します。それと並行して、もう一つ目的を持ちましょう」
「……まあ、とりあえず聞くだけなら」
と言うギルダに対して、シンは言い放った。
「戦争を終わらせたいんです」




