6-4 剥奪
――のだが、不思議なことに、肉が焼ける時特有のあの臭気は、瞬時に発生するはずのあの、一嗅ぎした時だけはまだ香りだと認識できるあの臭気は……いつまで経っても、マイエルの鼻腔には絡みついてこない。
シンが焼けていないからだ、ということに気付くのが遅れていた。
マイエルも最初から、「あれはもう助からん」と信じていたせいだった。
どっこい――服の端すら、焦がしていないのである。
代わりに、転がったせいで付いた土埃を、落ち着きなく払い続けている。
不可解だった。
あの少年が、どうして今生きているのかマイエルにはわかりかねた。
ギルダも困惑の表情を見せている。
シンは、見た目通りの一般的なヒューマンの少年に備わっている程度の身体能力しか持たぬはずである。だからギルダにすら(尤も、あれで彼女はやる方ではあるが)簡単に組み伏せられるし、今だって、転がるのでもう精一杯というところから逸脱しているようには思えない。
それでは、間に合わないのである。
若者が有望株であることは、炎技の程を見ればマイエルにもよくわかった。
今だって、無駄を省いた一塊を投げて寄越したのだ。シンを焼くためだけの、実に控えめな、それでいて青まで引き上げた炎。その一発で焼けると考えていただろうから、当然二の矢、三の矢は用意していない。
とにもかくにも、その一投を凌がれた、ということに対して、ソルティスはしかし冷静だった。マイエルやギルダとは違って、もう少し思案のために頭の働きを割いているようであった。
「……思ったよりもよくないことを考えてるらしいな、ええ? ギルダ……」
あの若者が油断をしていたわけではないと思うが――それでも、見誤っていたことについては認めたらしい。
マイエル達にも、シンの体から発せられる魔力の光が見えていた。
――何か、魔法を使った可能性がある。
ソルティスもそのことに思い至ったのだろう。明らかに警戒の度合いを強めていた。
具体的にシンが何をしたのかはわからない。少なくとも目に見える形では魔法の効果を知ることはできなかった。だが、事実として避けている――魔法の助けがなければ実現しない。偶然はありえない。
「どこから拾ってきたのかは知らねえが――そいつを手懐ける気ならやめておけ。ヒューマンはそういうふうにはできてねえ。魔法が使えるから役に立つとでも思ったのか? 逆だ。放っておけばそいつは必ず調子に乗るぜ。本当に何を考えているんだよ――おまえもおまえなら、学長も学長だ! こんな危険なことを考えているなんて」
危険、確かにそうかもしれない。
魔法が使えて、紐の付けられていないヒューマン。それがシンだ。まして、ソルティスにとっては、まだ一度だけとはいえ、自分の魔法に対応した存在でもある。まさか魔法戦における本気ではなかっただろうが、無力なヒューマンを焼くのには十分すぎるほどの振る舞いをし、それが通用しなかったとなると……話は変わってくる。
「見過ごせない。そいつはここで殺す」
「駄目!」
「駄目なもんか――」
再び炎を起こし、そしてそれは急激に膨れ上がる。
先程まではマイエル達を巻き込まないよう気を遣う余裕もあったのだろうが、今度からはその限りではないようだ。周囲がまるで昼間のごとく照らされている。
「落ち着け! こいつは魔力を感じ取ることはできるが、魔法そのものはまだ使えないんだぞ! 君が思うほどのものじゃない!」
「それをあんたらが決めるなよ。誰に見せたって、野放しにするなって言うぜ」
「く……」
「文句があるなら、明日以降にどうぞ。出るとこ出たって構わない」
それでは困るのだった。仮に若者の横暴を、彼の長いその先を全て惨めにするほど咎められたとしても、手元にシンが残らないのでは、御破算になったのと同じである。
「存在が許されないんだ……」
「わからないのか!? そういう考え方がヒューマン達を諦めさせないんだ!」
出鱈目を並べ立ててでも、この場を収めなければならない。
「私達は勝っているが、だからこそ、その先を考えねばならない。戦争が終わったとしても、ヒューマン達が引き下がるとは限らないんだぞ。私達が模索しようとしているのは一つの可能性だ……彼らを狂わせてしまうことを、怖れなければならないんだ。彼らの狂気が、我々の敗北を一度や二度では済ませなくするかもしれないんだ。それを防ぐための研究なんだよ! 我々は、もう少しだけでいい、ヒューマンを知るべきなんだ。今だからこそ、知る価値がある」
追い詰められたとはいえ、このようなことを口走っている自分にマイエルは驚いていた。検討しようとしたこともなければ、暇に飽かした思考遊びの題材としてすら使ったことのない問題だった。
「高貴なお方の言葉とも思えませんな!」
若者の指摘はもっともであった。
しかし、実際に言葉にしてみると、それはどこか生々しいものを孕んでマイエルの中で響いた。94番のせいとしか思えなかった。少し虐げただけで、簡単にあれほどの力を持つ存在が成立する――そんな馬鹿なことが、現実に起こっているせいだ。
ふざけた話だ。あの程度のことで、復讐をしようなどと。
それが認められるならば、この世は分不相応な力を持った狂気で溢れてしまう。そうならないために、この世は強い者が弱い者を押さえつけられるようにできている。善悪ではない。そのような構造になっているのだ。それが自然というものだ。だから保たれているのだ。あれが特殊なケースであることはわかっている。わかっているが――無視できない例外というものも、また存在する。
もしも、竜巻が増えるようであれば――。
「奴らはもう狂ってる。そうでなきゃ戦争なんか起こるもんか。あんたがやろうとしている研究とやらは無益だ」
炎の一部が、腕のように動いて、シンを指した。
「こいつも! 理解できないに決まっているんだ」
今、シンが何を考えているか、表情からは読み取れない。若者の言うことには説得力があった。怯えて逃げ出してもいい局面だった。
「ギルダまで巻き込むな……消えろ!」
それは、マイエルとシンの両方に向けられていた。
「やめてよ!」
ギルダは自分まで焼かれないことがわかっていたから、シンに向かって駆けた。
マイエルの方へ飛んできた炎も、本当に届くほど殺意の込められたものではなかった――しかし、脅しとしては十分すぎた。そのまま炎は、巨大な一つの輪となってマイエルを取り囲んだ。完全に分断された形になる。手出しはするなということだ。実際の脅威よりも、そのメッセージ性が強かった。治癒魔法には一家言あるマイエルだから、多少火傷を負ったところで即座に回復は可能であるが、この包囲を抜けた時、ソルティスはもう脅しをしなくなるだろう。一線を越える覚悟は、まだマイエルにはなかった。シンを守り通したとしても、その先の面倒を片付ける自信がないのだ。
逆に、この規模で魔法を使ってくれるなら、異変に気付いた誰かがここへやってくるかもしれない。第三者の介入で有耶無耶になってくれるという目も出てくる。それをマイエルは願った。
ギルダはシンを庇う形で前へ出ていた。ソルティスは器用に炎を操り、彼女を巻き込むのを防いだ――同時に、シンを狙いから外した。
こちらまで聞こえる舌打ちを一つ。
「あくまでも、か?」
「……あなたがどう思おうが、邪魔はさせないから」
ソルティスは目を閉じ、悩ましげな表情を作った。
理解のし難さから来る苦悩であることがよくわかった。
ソルティスは、魔法の威力を少し落とすことに決めたようだった。二者が近づいてしまった今、シンだけを上手く焼き殺すには、相当精密な魔法の制御が必要になるはずだ。それでもここにマイエルがいるし、ギルダ自身も一応は治癒魔法を使えるのだから、命を脅かすほどのことにはならないだろうが、燃焼という現象の恐さをよく知っている故と、やはり同族は傷つけたくないという思いが交錯しているのだろう。
若者は再度炎に襲撃を命じた。
今度は巧妙に、立ちはだかるギルダを避けていこうとする。
彼女はこちらも炎を生み出して対応しようとしたが、それは悪手だった。炎で炎を防ぐというのは至難の業である。形のないもの同士の干渉は複雑を極め、そして、当然のように、炎の扱いに長けたソルティスが、ギルダの炎を組み伏せるような形で制した。
そして、シンは迫りくる炎からまた逃れた。
ギルダの炎とステップを踏んでいた分、その先への注意が薄れていたのだろうか? しかしその割には、躱された炎は地面で態勢を整えると、再びシンへと襲いかかっていく。ギルダが全速力で少年に突っ込み、押し倒すような形で軌跡から逸らした。絡み合ったまま転がっていく。ようやく止まると、彼女は足の間にシンを挟むようにして立ち上がった。手を広げて、抵抗の意思を示している。それが精一杯のようだった。
密着しているせいか、若者もそれ以上炎を動かそうとはしなかったが、ある意味、この状態は決定的だった。まだしも、無抵抗のままシンが焼かれていた方がよかったのかもしれない。ギルダがここまでして彼を守ろうとするのは、マイエルの予想の範疇からもややはみ出てしまっている。
ギルダにしてみれば――マイエルにとってもそうであるはずなのだが――今のところ、シンこそがレギウスへ繋がる唯一の糸なのだ。守ろうとすることは、彼女にとって(マイエルにとっても)当然の行動だろう。しかし、それを見る周囲の目はどうか……、身を挺するほどなのかと、疑問視されることは避けられないのではないか。あの少年がマイエル達にだけ価値のあるものだと、見破られれば終わりなのだ。学長もそこまでは庇ってくれない。
もういい、とマイエルが叫ぼうとしたその時、シンがギルダの服の裾を引っ張った。
彼女はその手をぴしゃりと打って、なおも少年を自分の保護下に置こうとする。シンは反撥するようにそこから立ち上がり、今度はギルダを押し退けるようにして前へ立とうとした。二者は揉み合いになったが、すぐにシンがギルダに何かを耳打ちする。
ギルダは躊躇う様子を見せた――が、頷いた。
即座に行動は開始された。彼らは離れた。
ギルダは今度は一直線に、ソルティスを目指して走っていった。しかも、火を操りながら、である。彼を倒そうとしているのは明白であった。どうせ守れないのなら、脅威を直接排除しようということなのだろうか? しかし、その前にシンを焼かれてしまっては元も子もない……それでも行ったということは、よほどの自信があるのか。
――偶然では、ないのか?
ギルダは振り返りもせず、ソルティスを目指している。若者は突然方針が変更されたことに対して、驚きを隠せずにいる。ひとまずシンを狙うが、
「させない!」
直後にギルダの火がそれを妨害するべく投射された。それでもシンに向かって形を持った炎が二筋、頼りないながらも躍りかかって――やはり、触れることができない。
そこからは、さすがのソルティスも二つの目標へ同時に狙いをつけようとはしなかった。シンに集中するよりも、ギルダが到達する方が早かった。元から大した距離ではない――詰めることはそう難しくない。
さらに火を生み出したギルダは、次々とそれをソルティスにけしかけた。修練を積んでいなくとも、それを無抵抗に受け入れるというわけにはいかない。若者は丁寧に炎で火をかき消して、その頃には、懐に踏み込まれていた。
肉弾戦が始まった。
――ものの、ギルダが有利なわけではない。むしろ普段から相当鍛えているはずのソルティスが、その気になれば彼女を無力化してしまえるはずだ。
だが、迫力の面で言えば、ギルダの必死さから来るそれは助けになっていた。彼女を傷つけまいとしていたソルティスである。なりふり構わず暴れられてしまえば、むしろ危害を加えずに止めることは困難になる。二度、三度と殴られはするが、効いていないのだろう、馬乗りになられた状態から軽々とギルダを持ち上げて、投げ飛ばした。
そこへ、シンが飛び込んできた。
――目を疑うほどの魔力を、伴って。
ソルティスはそれに完全に呑み込まれた。不思議なことに、若者は抵抗することができないようだった――というより、抵抗しようとするのに精一杯で、他のことに気が回っていないのではないかと、マイエルは思った。手足はそれらしく動いているのだが、何の成果も挙げてはいなかった。シンに押さえつけられるわけがなかった――シンが押さえつけられるわけがなかった。通常ならば。既に、彼が魔法をものにしているのは明らかだった。一体、どういう作用のものなのか、やはり見ているだけではわからない。
ただ――マイエルを取り囲んでいた炎の輪は、消えた。
急に、ソルティスが痙攣を起こし始めた。危険な頻度の痙攣だった。
「やめ、や、やめろ、ぅあぁやめろ!」
シンは、両手でソルティスの頭を挟み込んでいた。決して力を強く加えているようには見えないのだが、それがソルティスには耐え難い苦痛であるらしかった。
「いらない……」
と、うわ言のようにシンが呟くのが聞こえた。
「見、る、な……見る、な、あぁ、ああ!」
ほとんど懇願するかのように若者は叫ぶが、シンから滲み出てくる魔力はその量を増やし続けている。
「……オマエには、必要ない」
ソルティスは抵抗をやめたが、今少し、シンは魔法の行使を続けた。
やがてそれも終わりを告げると、彼は立ち上がり、若者から離れた。
次に目に飛び込んできた光景で、マイエルはようやく、一つの納得に辿り着いた。
シンが、炎を発生させた。
「――そんな……」
恐る恐るではあるが、しかし確実に、少年は炎を自身の制御化に置いていた。
「これが、魔法」
腕の動きに合わせて、熱源が緩やかなアーチを描いていく。
起き上がったギルダが駆け寄ってきた。
「何をしたの……?」
シンは炎を消し、両手に目を落とした。
「自分でもあまり自信がない……。何をやったのか、何ができたのか」
それから、マイエルにこう問いかけた。
「あいつ……今は気絶してるけど、起きたら、多分また騒ぐと思うんですけど」
「あ、ああ……そうだと思う」
「――忘れてもらった方が、いいでしょうか?」
その言葉が、全てを物語っていた。
「――どこまで、できるんだ?」
「わからないです。でも、寝ている今ならそんなに抵抗されないから、もしかすると……魔法を使えた、ことさえも……」
ギルダも事の重大さを理解したのか、息を呑んだ。
マイエルは素早く頭を回転させようとしたが、無駄だった。考えたところで、絶対にこの少年から支配されずに済む方法は思いつかないだろう。
「もう一つ訊きたい。君は、彼の魔法を真似ているのか? それとも――」
シンは、非常に申し訳なさそうに、この質問に答えた。
「……取って、しまったみたいです……」
「戻せるかい?」
力なく首が振られた。
精神そのものに作用する魔法は、珍しいがそれなりの数が確認されている。これを極めた使い手は、相手の心を壊すことによって――つまり、その元を断つことによって――魔法の使用不能にまで追い込む。そういった戦術も聞いたことがある。
だが、対象者の魔法そのものを奪い取るなどといった話は、初耳だった。
あの若者の心を隅々まで閲覧し、そして修復不可能なほど歪めた、ということなのだろうか?
「――シン、よく聞いてくれ。今夜のことは忘れさせるんだ、それしかない。彼には気の毒だが……、君のその魔法が知れれば、大変なことになる。いいか、今夜のことだけでいい。彼が朝起きたら、何故か魔法が使えなくなっていた――ということにするんだ。それだけで、いいよ」
ソルティスは、もうこの学び舎にはいられないだろう。
そしておそらくは、自分を見失い続けるだろう。
マイエルは、忘れようとしていた種類の恐怖が臓腑から喉元までこみ上げてくるのを感じた。シンは、94番よりも喚び出してはいけない種類の生物なのかもしれなかった。




