6-3 彼女の魔法を見つけたために
確かに、魔導院の敷地はそこまで広大なものではない。その気になれば一日かけて、シンの言う通り隅々まで見て回ることができるだろう。
しかし、実際には、シンが絶対に立ち入ってはいけないような場所があるし、案内したところで二度と足を踏み入れることのないような場所もある。
マイエルはギルダと相談して、ひとまず、この機関に所属する一般的な学生と指導員が出入りするような場所を優先的に見せようということに決めた。
その大部分は学舎の中に限定されていた。つまり、ほとんどの学生は朝起きて自宅から、あるいは敷地内の寮から出かけると、まっすぐ教室や研究室までやってきて、必要があれば昼休憩の時間に食堂で空腹を満たし、また教室や研究室に戻っていく。日が暮れれば熱心でない学生は帰り、夜も更ければ熱心な学生も帰るかその場で眠りにつく。
その営みは、客観的に見ると、何も面白いことはない。行って、帰る……毎日が同じことの繰り返しである。主観の中にこそ、いや、主観の中にしか――営みの面白さはない。目的を持って出入りしている者達自身でなければ、この国立魔法開発学院の素晴らしさを理解することはできない。自分達が何をしているか知る者でなければ、魔法の面白さを体感することはできないのである。
だから、漫然とシンを連れ回したところで、何の助けにもならないだろうということは、マイエルにもギルダにもわかっていた。あの物置以外の景色を見せることで、少しでも彼の精神に変化を与えようとする以上の試みには、ならないだろう。
おそらく、どこかの段階でこのヒューマンを、交わらせる必要が出てくる。マイエルとギルダ以外の、エルフに。具体的には学内の魔法家達に。そしてゆくゆくは――社会そのものに。だが、いかに折り合いをつけながらそれをやるか、というところが問題だった。
受け入れられるということは、まずないだろう。だが、まったく身動きが取れないのでは、金剛石を犠牲にしてこのヒューマンを仕入れた甲斐がない。ある程度――このヒューマンを運用することに難色を示されない程度の溶け込み方が理想的だった。対等の立場まで引き上げる必要は決してない。むしろこの少年が持つ(であろう)魔法が強力であればあるほど、マイエルかギルダの管理下に置かれなければならない。そうした上で、最大限に利用する。利用できるようにする。
だから――今回はなんといっても最初だから仕方ないが――、
「月は同じなんだよな……」
夜、こっそりと連れ出しているようではお話にならないのである。
「あなたのいた世界にも月はあるのね」
「そりゃあ……あるさ、月ぐらい」
窓のそばで、ぼんやりと空を見上げながら、シンは答えている。
「それじゃあ、教室も、あなたの知っている教室と一緒?」
「……ちょっと違うかな。少なくとも、机と椅子の大きさは統一されてるよ。形も」
次は昼だな、とマイエルは思った。
どんな目で見られるかわかったものではないが、敢えて食堂でものを食べさせるくらいの冒険はこなさなければ、いつまで経ってもこの少年は忌むべきヒューマンのままだ。それはいないのと同じだ。いないものとして振る舞わなければならないのと、同じだ。それでは意味がない。好かれる必要はないが、最低限、存在を無視できないものとして扱われるようにならなければ、駒としての意味はない――。
「どうだろう、外の空気も吸ってみないか。久しぶりに」
いいんですか、とシンとギルダが同時に言って、シンの方はくすくす笑った。
「いいとも。月明かりもある。危ないということはないよ」
マイエルは座っていた机から立ち上がった。
「まあ、ただの散歩にしかならないと思うが……」
学舎も相当な大きさではあるが、それ以上に、庭園が広さを誇っているのが魔導院である。一定以上の技量を持つ魔法使いは、どうしてもやること、やりたいことが屋内に収まりきらないことがある。実践のための広大な空間は、魔法開発には必要不可欠。特に、土魔法の一部の系統は、その行使が小規模なものであっても、土そのものに働きかける必要があるため、技量に関係なく外での修練を積む場合がある。
「すごいな、大学のグラウンドより広いんじゃないの……。でも、どうしてこんなに整備されてないんですか。掘り返されてるわ、ぬかるんでるわ、あっちなんか、焦げてるわで……」
それら全て、魔法の爪跡であった。
庭園などといっても、豪奢な邸宅に添えられる草木の生い茂ったそれとは隔たりがある。そういう環境ではないから、植えるだけ無駄なのである。時たま、土魔法の効果で美しい花が咲き誇ることもあるが、次の日には塵も残らない。
「皆が魔法を気兼ねなく使うための場所だから、どうしても、な……」
要は演習場であった。もちろん軍の施設にも同様の空間が設けられている。救国魔法軍団への足掛かりとしての側面が魔導院にある以上、魔法の危険な行使を受け入れるための場が歓迎されなかったとしても(そういう議論がなされたことはあった)、確保しないわけにはいかない設備である。実際、この長い長い(ヒューマンが一方的にそう形容しているものとするエルフも多いが事実として長い)戦時下においては、そういった実戦派、実戦志向と呼ばれる、未来の魔法戦士候補生達がこの庭園の大部分を優先的に使う、あるいは使えるようにする風潮が、最早伝統的なものとして根付いていた。当然、この魔導院の本来の主流派であるはずの学究肌達は肩身の狭い思いをするわけであるが、彼らは往々にして実力行使のぶつけ合いには不利であるため、恫喝に対して非常に抵抗力がない。泣き寝入りするか、明らかに不平等な割り当てで妥協せざるをえない。魔法の発展が妨げられるとしてこの現状を嘆く指導者も多いが、何をもって魔法の発展と定義するかがそもそも難しく、開戦以後の集団戦術には目覚ましい進化が見られるのでこれも正統な魔法の発展である――故に、対抗しうる成果を提示できない座学専門(よく用いられる実情を無視した軽蔑的な表現)の魔法家が単に無能(公式な場でこの語句が用いられたことはないが近い意味の単語は何度か登場した)である、とする論調は、中々に強いものがある。
マイエルは詭弁だと思うが、バーフェイズ学長がこの問題に対し批判的な態度を取ったことはない。戦闘的な成果以上のものを見せられない探究心に価値は見出せないのだ、と暗に示しているのではないかと、レギウスとはよく話したものだった。だからこそ、召喚魔法にかけた期待は大きく、それが打ち砕かれた時の衝撃はより一層大きかった。
「運がよければ、オレもあのぐらいはできるようになるんですかね?」
「それはわからないが、ああいう単純な魔法よりは、もう少し複雑で珍しい要素を君には期待したいところだな」
「ふうん……。お役に立てりゃいいですが……」
もちろん、魔法を扱えるというだけで、本来ならば万々歳である。
しかも、むしろ四大元素の魔法家は有利であると考える者も多い。その理由の一つに、横のつながりの強さが挙げられる。四大魔法は使用者が多いため、畢竟、群れやすいのである。これは必ず同士を見つけられるということとほぼ同義であり、それこそ多少手荒かろうが、実戦派の集団に揉まれることで面倒だけは見てもらえるし、それは仕事を得ることにも繋がる。軍への入隊が叶わなくとも、別口で何らかの立ち位置にありつける可能性は高い。近い年代に限らず、幅広い層に同業者が散っている。既に何らかのポストについているエルフへ私的な弟子入りをすることは珍しくなく、気長に待てるなら、そのまま後釜になることさえできる。能力が低く、枠がなかったとしても、どこかに魔法家の足りていない地域は必ず存在する。辺境での暮らしを死ぬほどの苦痛と感じなければ、生きていくのに苦労することはありえない。仮に火の魔法使いがどれだけ落ちぶれたとしても――公衆浴場や食堂の厨房で絶大な権力を握ることができるのである。そういう構造になっている。これは水魔法使いにおいても同様である。
だが、マイエルとギルダの目的は、そこにはない。
両者の願いは、レギウスを取り戻す――その一点のみである。
世間など関係ない。
「どうも、オレにはこの魔力ってやつが、よくわからないんですよ」
言いながら、シンは光を放出した。
これまでと同じく、それは放出されるだけだった。
形を変えることはできる。初心者にしては長く伸ばすこともできる。
しかし、それが何かに変換されるということはなく、したがって効果を及ぼすこともなかった。
「君は、」
マイエルの視界の端で、シンとは別の光が辺りを照らし始めた。
ギルダではなかった。
それは魔力ですらなかった。
正確には魔力も含まれていたが、事実上、炎だった。
「おい、こんな夜中に、何やってる。……誰だ?」
若いエルフだった。
多くのエルフは細いものだが、その若者には鋭利な印象があった。
魔導院に在籍している実戦派特有の(つまり若い時分にはありがちな)、動きの妨げにならないような短髪と、鍛え、絞った体型が、彼を尖って見せるのである。
「何だ? ヒューマン……?」
呟きながら、腕の先――肩にかけて、火を、なぞるように、何度も走らせる。
若者の体躯が、橙に照らされては、また黒く塗り潰される。
一種の威嚇である。
ああいう手合いは、魔法を使わない時も、出来る限り自分を大きく見せるために揺れるような歩き方をするので、鬱陶しい。
あの行為自体は魔力の無駄遣いだが――即応できるのだということを示すのは、効果がある。
ひとまず、マイエルは避けるための糸口を探ろうとした。
「ああ、すまない――邪魔をするつもりはなかったんだ。あっちの、遠くの方へ行くよ。それとも、消えた方がいいかな?」
おそらく、彼はマイエル達がここに来る前から自主的なトレーニングをしていて、小休憩を取っていたのだろう。誰とも出くわさないつもりではなかったが、これは間が悪かった。相手が相手なら、眉をひそめはするが、すぐに忘れてしまうだろう。しかし、この世には、少し気に障っただけで、かなり気に障るような性格があるものだ。
若者はしばらく三者を順番に睨んだ――点火を挟みながら。
そして、気付いた。
「なんだ――ギルダか」
彼女は実に都合が悪いような声で、
「こんばんは、ソルティス」
と挨拶をした。マイエルとしては若者の神経を逆撫でするのはよしてもらいたいところだが、まさか今口に出して注意するわけにもいかない。
「知り合いかね?」
「ええ、まあ……というか、まあ」
歯切れが悪い。
「知り合いだろうがよ」
ギルダは肯定しなかった。
「女子寮は外出を許可してくれたのか?」
「そうね」
「――本当か?」
「嘘をつく理由がない」
「どうかな」
「ちょっと、確認するなんて言い出すつもり?」
「何かおかしいか? 風紀の乱れを防止するのは、学生としては真っ当な態度のはずなんだがな。まあいい、どうせあのジジイが何か言って、簡単に夜間外出できるようになってるんだろうから――わざわざ行ったところで」
あのジジイ、はバーフェイズ学長を指しているのだろう。
「それで、何をやってたんだ、その糞を連れて」
まずい方向へ、
「いや、謝るよ。悪いのは私達だ。すまなかった。どうか、自分の鍛錬に戻って欲しい。君のような志のあるエルフを妨げるのは本意じゃない。忘れてもらえるだろうか」
「アーデベス卿」
――知ってはいたのか、とマイエルは思った。
「自分は、ギルダに訊いております」
その態度は敬意に欠けたが、この場においては、一つの方法だった。
現に、マイエルはそれ以上口を挟むことができなくなった。この若者を恐れたわけではなく――むしろ一段ほど軽く見始めている――ややこしさを防ぐために。
やってもいい。重ねて(この若者にとって)口うるさく言うことはできる。しかし、瞬時に沸騰させるだろう。それでどうということはないが、騒ぎになることはありえる。気に入らない展開の一つだ。
ギルダが切り抜けてくれることを願うしかない。
「何を、やって、いたんだ?」
区切りながら、若者――ソルティスは言った。ギルダは答えた。
「別に。……見たまま。このヒューマンを連れて、散歩」
「なるほど? それで、何故、そんなことをしている?」
そんなことをする必要がどこにあるのか、一体どうしてそのように不毛であるどころか不利益をもたらすような行為へ積極的に取り組んでいるのか、といった意味が含まれていた。生理的な嫌悪と不快感も散りばめられている。
逆に、これでギルダが機嫌を悪くした。
「研究の一環で、ヒューマンを用いることは事前に告知している。あなたのお嫌いな学長の許可も頂いているわ。無論、正式な手続きを踏んで、ね。確かに、このやり方自体が、褒められたものではないでしょうけど、だからこそ、この数日間で耳に入っていなかったということはないでしょう? 何の権利があって、ここに引き留めて、あなたはわたしたちの貴重な時間を浪費させているの? 少なくともあなたに――あなたなんかに、とやかく言われるような筋合いはない。消えて」
あーあ、とマイエルは思った。
ソルティスは、ゆっくりとギルダの言葉を受け止め、頷いたものだ。
「そうだろうとも」
そして彼自身を全て包み込んでしまうかと思われるほどの炎を発生させた。
「――まさか本気だったとはな」
マイエルにとっては、彼の怒気も、それを表現している顔も、特に印象に残るようなものではなかったが、シンは別なようだった。こちらはこちらで、怒りの大部分が自分に向けられているのをきちんと察知しているのだろう。
しかし、ギルダがこんな厄介な学友と付き合っていたとは、マイエルも知らなかった。
大方、あの若者はギルダが自分の派閥に入らないのが面白くないのだろう。おそらく、普段から何やかやとちょっかいをかけられていたのではあるまいか。
「おまえはいつもそうだな、ギルダ。何故だ? 疑問しかねえ。それほどの才能を持っていながら、どうしてそんなゴミみてえな研究にばかり血道を上げようとするんだ?」
やはり。
わかってしまうのだ。悲しいほどに。
マイエルの時代にも同じことが起こっていたからだろうが――もっと単純に、男だからかもしれない。
そして、このことに関しては、彼女にまったく非がないというわけでもない。
ソルティスの言う通り、ギルダには才能がある。火の魔法を操る才能が。
さらに、治癒魔法を扱う才能さえも。
希少な種類の魔法よりもある意味遥かに希少な――二種をさらに凌駕する、三種。
ギルダは世にも珍しき、召喚、治癒、火の魔法家である。
最初に判明したのは召喚魔法――といっても初の行使はつい最近――レギウスとの出会いが、彼女に己の魔法を自覚させた。不思議なことだが、その後相次いで、治癒と火の才に目覚めたのである。これは大事件だった。確認されている中では、三種類を扱える個体はギルダが初だった。それらがどれほどのものであるかは別として、この数を扱えるというのが、驚愕に値する事実だったのである。
ただ、召喚魔法の存在そのものが疑問視されていたために、本気で受け止めていたのは、つまり、レギウス周りだけだった。加えて、ギルダ自身が複数種の魔法が使えることを重要視していなかった。火と治癒の二種というだけでも、その能力には大いに期待がかけられたのだが、ギルダはレギウスの研究室に入り浸って、他の二種を磨こうとはしなかった。実際、マイエルが治癒の方だけでも伸ばすべきではないかという話も出たのだが、肝心のギルダがやはり熱心ではなかったし――マイエルに指導したいと思わせるような素質も、持ち合わせていなかった。
そういうわけで、いまいち盛り上がりに欠けたのであった。
「素直に炎を使えば――それがおまえのためにもなるってことが、何故わからねえ?」
「だから、その独善的な態度が気持ち悪いって、何度言えばわかってもらえるの?」
ソルティスの炎が、生物のようにうねる。
「それが消し炭になれば、トチ狂ったことも言わなくなるか? ああ?」
マイエルは叫んだ。
「よせ! こいつは何というか……違うんだ、他の」
とは違うんだよ――そう言い終わる前に、炎がシンへ到達しようとする。




