5-9 当人のいないところで
だが、予想に反して、その後数分経っても俺とジュンが引き離されるようなことはなかった。
一体、何が起こっているのか――まったくわからない。
この時点で精神的にはかなり打ちのめされていたが、途方に暮れていても事態が好転しないのはよくわかっていた。
「とにかく、進むしかないのか?」
だからといって、何か行動を起こして良い状況まで辿り着ける可能性も未知数。
一瞬にして、判断に自信の持てない環境へ叩き込まれた。
――姫様がいないからだ。
メイヘムを攻める前も姫様と離れたことはあったが、あの時は救出という明確な目標が存在していたから、まだなんとかそれを頼りに動くことができた。誰がそれをやったのかわかっていたし、どこに姫様がいるのかも調べればわかったし、誰に助力を求めればいいのかヒントも舞い込んできた。
今回はそれらがない。
姫様と合流しなければならないという目標はあるが、どうしたらそれが成されるのか、見通しを立てることは非常に困難だ。
どうやって彼女が消えたのかもわからなければ、どうやって助けを求めればいいのかもわからない。
それはジュンも同じだろう。
この世界へ来てからこっち、俺達はおんぶにだっこで、頼りきりだった。
何をするにも姫様姫様、彼女の言うことをそれなりに聞き、付き従ってきた。
結局はそれが楽だったし、それでうまくやっていた。
そんな俺達が二人揃って、姫様を取り上げられたのだ。
そう考えると、一番最悪な手を(あるいは一番最高な手を)このダンジョンは打ってきた。俺達は北極星を失った。
「とりあえず、退路は確保しておいた方がいいような気がします」
「ああ、うん、まあ……」
根拠があるわけではなかったが、その案はあまり有効ではない気がした。
ここまでの展開を振り返って考えるに、この不思議な構造物がそう易々と俺達を逃がしてくれるとは思えない。
乗り気にはなれなかったが完全に反対することもできず、俺は先導するジュンの後をついていった。
果たして、出入り口の扉を開いた先はまた通路だった。
ジュンは固まり、俺は頭を掻いた。
「こいつは手厳しい」
今引き返してきたのとまったく同じように見える細長い空洞が、先の見通せない距離まで同じように続いている。
外はどこへ行ったのか?
「どうあれ、進むしかないのか?」
「……そうなのかもしれません」
せっかくなので俺はそのまま扉の先へ進むことを提案し、ジュンはもうどっちでも同じだと言わんばかりに同意した。
とぼとぼと歩き出す。
「しかしこれは参った……やはり入るべきじゃなかったんだ」
「でも、もう入っちゃいましたよ」
「危険だとは思ったが、ここまで理不尽なものだったなんて……。もっと強く言っておけばこんなことには」
「でも、やっぱり姫様がそうお決めになりましたから。フブキさんの言っていたことも結構もっともだと思うんですけど、説得されて、うーん……言いくるめられてしまったわけですし、そこが姫様のすごいところっていうか……。それに、真意は別にありますけど、人助けであることは変わりないですよ」
「まあ、それは確かに……。しかしこのままだと俺達まで要救助者だ。しかも、下手すりゃ助けを求めることさえできないかもしれないぞ……。流石の姫様も、今は後悔してるんじゃないのかな」
「うーん、どうでしょう……」
一旦会話を途切れさせ、俺達は歩くことに集中した。
目に入ってくるものは変わり映えなく、照らされている割には遠くを見通すことができない。身動きするのに支障はないし、その気になれば二人並んでも何ら問題ないほどの広さだが、非常に閉塞感がある。
そういうトンネルの中を、歩いていく。
お互い黙々と行進を続けていたが――あまりに続くので、俺は奇妙に思えてきた。
地下へと潜っていくような感覚はなかった。もしかすると俺では気付けないような傾斜があって、徐々に誘導されているのかもしれないが、それにしたってあまりにゆるやかすぎる。とっくに山の反対側へ出ていても不思議ではない――そういう気になってきた。入口自体は地上よりも高い場所にあったのだから、やはり通常の理屈で考えていてはいけないのではないか……。時間の感覚が剥奪されているから実際に何時間経ったのかまではわからないが、入ってから三度目の喉の渇きを覚える程度には、時間を浪費していることは確かだった。
とっくに、何か新しさが見えてきてもいい頃だった。
堪りかねて、俺は足を止めた。
「申し訳ありません、お嬢様……水を、ください」
ハギワラ邸で用意してもらった水筒を取り出し、傾ける。
セーラムから持ち込んだ皮革製のものもあるが、そちらは予備として取ってある。シアマブゼ製の水筒は、大きく分けて二種類。そのまんま竹に似たものと、瓢箪に似たものである。つまり、シアマブゼの形がその二種類なのだ。竹に似たシアマブゼと瓢箪に似たシアマブゼが別々に生えているのではなく、一本のシアマブゼの、ある部分は竹に似ており、またある部分では瓢箪に似ているのである。といっても、その材質はほとんど竹であると言ってよい。ただ、形が瓢箪に似ている。竹のあの節が刻まれた姿を想像してもらいたい。あの区切られた途中途中が、瓢箪のように膨らんでいる、といった具合だ。竹に似た部分、区切り、瓢箪に似た部分、区切り、竹に似た部分、区切り――といった具合に、並んでいる。したがって、瓢箪に似た部分は、瓢箪ほど先端が細くない。瓢箪のように膨らんだシルエットを持つ部分を含んだ、竹のような性質の何か。それがシアマブゼである。竹を知っている身としては、その不規則な佇まいはひどく不気味に映る。群生している様子をあまり近くでは見たくない。
不思議なことに、竹に似た部分と瓢箪に似た部分の並びは、完全にランダムだという。だから、俺はシアマブゼは二進法なのではないかと、密かに妄想している。
オカルトに傾きすぎだってあんたは思うかな? いつか検証できるといいが。
話を戻そう。
ジュンは嫌な顔ひとつせず、素早く水筒を魔法で満たした。
俺が持たせてもらったのは瓢箪型の方だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……」
礼を言ってから、入れてもらった半分ほどを飲み干す。
「――くそ、もしかして無限に続いてるんじゃないのか?」
「だったら困りますね」
この構造物へ入る前の水場で補給した半分をもう空にしてしまったのだから、相当歩いてきたことになる。
とにかくこの人間第一の燃料について深刻に考え過ぎず済むだけでも大いに頼りになるが、彼女の魔力ももちろん限りあるエネルギーだ。
いつまでもこの状況が続くなら、厳しくなるだろう。
座り込み、靴を脱いで足を乾かそうとする。
ジュンも同じように、荷物の上に足を置いて血流をよくしようと努めていた。
しばらくじっと、お互いに足を見つめて時間を過ごした。
「魔法だと考えた方がいいんだろうな」
「はい、多分……」
「古代人がかけたのか、それとも今を生きる誰かがやったのか……」
どちらだろうと、俺達が困ってることには変わりない。
「とにかく場所の繋がり方が滅茶苦茶だ。かと思えばこんな出鱈目な長さの通路がずっと続いてる。いや……というより、空間が安定していないのか?」
歩き続けていた時からそうだったが、考えれば考えるほど、考えてもしょうがないという気になってくる。
突然叫び出したくなって、俺は本能のままに立ち上がった。
「ああああああ――姫様の、バカオンナーッ!」
木霊することもなかった。
頭を振って、靴を履き、今度は俺が先頭に立った。
歩き始めてすぐ、ジュンがこんなことを言い出した。
「さっきの――もしかしたら、姫様に聞こえてたりして」
俺は立ち止まって振り返り――馬鹿馬鹿しいと思って、何も言わずにまた歩き始めた。
「いや、わからないですけど、わからない方法で、聞こえてるのかも」
ジュンはジュンで、この状況に退屈しているらしかった。
それで、少し付き合ってやろうと俺も考えた。いくらか気が紛れるかもしれない。
「だったらどうだっていうんです。もう一度会えるかもあやしいというのに……」
「そんなこと言って、後でひどい目に遭っても知りませんよ。でも、姫様はそんなことじゃ怒らないか……。まあまあ、きっと大丈夫ですよ。今はちょっと離れ離れですけど、そのうちひょっこり合流してくれますって。姫様はそういう人だって、わたし思います」
「姫様が超人的だということは認めます。しかし、超人的なのは何も姫様だけに限ったことではないし、この世界では取り立てて珍しいわけでもありません。例えば私は姫様がアデナ先生に殺されかけた姿を見たことがありますし、そもそも、あの方は一度打ちのめされたからこそ――剣を握り、策謀を巡らすようになったと、やはりアデナ先生から聞いています。姫様とて挫折を経験して、壁や天井があればぶつかってしまう……。今のように、足元を掬われることだってある。貴女ほど楽観的には、私はなれません」
「それでいいじゃないですか。その分、わたしが楽観的に考えればいいんですよね?」
「……、それは違うと思いますけど……」
「そうですか? ……大体、フブキさんは心配しすぎなんです。結局ハギワラさんが何か企んでたわけでもないですし――仮に奇襲されていたとしても、問題なかったんじゃないかと思うんですけどねえ……私、色々なやり方で十回以上は姫様の寝込みを襲いましたけど、全部完璧に対応されましたよ」
「――お前よくクビにならなかったね」
「それだけ姫様の懐が広いということですよ」
「つーか初めて聞いたそんな話……」
「それは、言ってないですから。他にも色々ありますよ。なんとなく話す機会がなかったですけど。ふふ、姫様とわたしが普段何を話してるか、気にならないですか?」
「いや、別にそこまでは。……嘘言った、興味ある」
「うーん、でもなあー、何かの魔法で聞こえてるかもしれないしなあ。まーあ? フブキさんの言う通り、ここがどことも繋がってなければ? 地味に絶好の機会ではありますが?」
「……話したくないのなら結構」
「じょ~うだん(本当にこう聞こえたんだ)ですって! 姫様がいるとできない話ってありますからね。貴重な時間ですよ、楽しみましょうよ」
俺は長めの鼻息で応えた。
「ええと、じゃあ、本題へ入る前に訊いておきたいんですけど」
「はい」
「フブキさんって、姫様のことどう思ってるんですか?」
――何言ってんだこいつ。
意図を汲み取った上で、俺はそう思った。
「……主人としては最高だと思いますよ。まだ短い付き合いですが、あれ以上の人に会ったことはない」
「そうじゃなくて……」
「この話続けんのか?」
「……続けましょうよ」
――いいか。
「そうだな、まあ、そりゃ……、姫様はとんでもない美人だし……スタイルだってバツグンだ」
比較的凹凸がなだらかであることに目を瞑れば。
「性格も……少しキツいと感じるヤツもいるかもしれないが、あれで案外可愛らしいところがあるのは君も知っての通り」
彼女は無言でこくこくと頷く。
「ところで――お嬢様は、犬を飼ったことはおありですか?」
ジュンは、答えるのを少し躊躇った。
「……一度だけ」
「貴女にとっての恋愛感情と私の思う恋愛感情は必ずしも一致しないかもしれませんが、概ね同じようなものとして話を進めます。それで、お嬢様は、その犬と、一度でも、そういう関係に発展するかもしれないと考えたことはありますか?」
「……ないです」
「つまりはそういうことです」
期待を砕くようで悪いが、そうとしか言いようがない。
喩えが喩えだから、実際には俺と姫様の関係はもう少しマイルドなものなのかもしれないが――そこから逸脱するようなものでもない。
俺も男だから、性的に姫様を考えることがないわけではない。
だが、お上品には、考えたことがない。
意外に思われるかもしれないが、ない。
どうやっても起こりえない事柄を考えるほど、柔軟な脳は持ち合わせていない。
「まだしも、貴女と姫様が恋に落ちる方が可能性はあると思いますね」
「いやー、さすがにそれは……」
苦笑い。
「そう思うのなら、私と姫様の組み合わせでは、もっとありえないということがわかるでしょう?」
「う、うーん……そういうものなんでしょうか……」
「そうです。だから、もう続けないで別の話にしてください」
「う、ぐっ……せっかく姫様に婚約者がいたって話をしようと思ったのに……」
俺は歩調を速めた。
ジュンはそれを追い越し、
「どうですか、ちょっとショックですか?」
「――なんで」
「いや、なんとなく……」
「俺より年上なのに一個も浮いた話がないって方がおかしいと思うけどね。この世界なら、なおさらそうなんじゃないか。しかもお姫様だぞ、見た目のことも合わせて考えれば、引く手数多でおかしくないんだ」
しかし、恋バナとは……殺しに興味がなければ、やっぱり普通の十七歳か。
俺がその歳の頃は、ほとんどこんな話もしなかったが。
「当たり前のことに衝撃を受けることはできない」
「それは……! そうかもしれないですけど……!」
不満げにジュンが言ったその時だった。
ようやく、俺はトンネルの終わりを見た。
思わず駆け出してしまう。そこが出口ではないことはわかっていたが、もうこのただの通路には飽き飽きしていた。新しい光景を見たかった。
「ちょっと待ってくださーい……」
待たず、空間が開けた。
最初に目に入った階段が、上がるためのものなのか下がるためのものなのか、わからなかった。両方に決まってるだろ、と理性は言うのだが、まず、重力を無視してあそこに足をかけられるのか? という点で感情は反論している。
俺は呟いた。
「……いや、嘘でしょこれ……」
「こういう絵、見たことあります」
隣に立ったジュンがそう言った。
それは天井にくっついていた。さらに言えば、壁にも。
支離滅裂な部屋だった。
多分、部屋だ。
例によって奥までは見通せない。そういう広さ。そして、底がどこまで深いのか、測ることができない。天井もまた、数多の通路によって幾重にも隠されていた。
ジュンはああ言ったが、エッシャーお得意の騙し絵でも、もうちょっと簡単な構造をしていたように思う。できるだけ法則性を持たせないように気を付けて線を引き続けた――そんな構造だった。
今来た道からさらに通路は続いていたが、すぐ三方に分かれ、その先で四方に分かれ、一つが上り坂になったかと思うと、途中から鼠返しのように折れている。
「どうしたもんかな……」
「引き返します?」
そんな気力はなかった。
しかし、この複雑怪奇な迷宮を踏破する気力が残っているかと問われると……それもまたあやしい。
「引き返せないなら、進みましょう」
「……それしかないか」
しかし、実際には取れるルートは限られているように思えた。
正しい重力に則って考えれば、いくらかのルートは途中で滑り落ちるか、垂直な壁を相手にするか、ある分岐点へ戻るようになっていた。見える範囲でそうしたハズレを除外していくと、常に択は二つ以上とならなかった。
だが、正しい考えによって望んだ答えを得られるかどうかはまた別問題である。二択の先の二択の先の二択……というふうにやっていくと、結局は、膨大なそれが正解かもわからないルートのうち一つを選んでいるにすぎないわけで、今のところの俺達は、決め打ちを強いられているのとそう変わらない。
こんな調子で正しい道を見つけられるのか――いや、問題は、この巨大な部屋から出られるのか、というところから始まっている。
それでも、先程までの一本道よりは、取り組み甲斐はあった。
さて、そのように迷路を進んでいくうち、俺達は唐突に人影を発見した。
姫様ではなかった。
デニーでもなかった。
そして多分――ジェレミー君でもないだろう。
人じゃないかもしれない。もちろん、エルフでもない。




