4-6 失われた16年
――狙い通りにいった、と思う。
ジュンから一瞬表情が消え、それから、大変困りました、という顔になった。
そうだろう。後ろめたい死に方だ。
本能が正常に機能していれば、絶対に選択しない死に方だ。
はっきり言って、恥ずかしいことなのだ。
他人からどう思われていようが、自分の中身が羞恥で満たされる。
いかにも下手を打ちましたという感じがするし、いかにも社会に適合できませんでしたという感じがするし、いかにも生存競争に敗北しましたという感じがする。
思い出したくもない、意識していたくもない。
その原因まで記憶を遡るだけで、なりたくもないのに精神がささくれ立つ。
話題に上らないのなら、それに越したことはない――。
が、俺は自分以外にそんな状態へ至った例を知らない。
無論、彼女が若い身空で結論を導いてしまったことに対して興味がある。
同じ結論を出した身として、非常に後ろ向きな共感を覚えていることも、否定はできない。俺も彼女も、既に一生分のしくじりを経験しているというわけだ。
「……まあ、デリケートな話題だから、話したくないなら話さなくていい……というか、話したくないよな」
彼女は無言で頷いた。
「だから、条件をつけよう。昔の自分を話したくないのは俺も同じだ。一方的に君の過去を訊き出そうとするのはフェアじゃない。君が自分のことを話した分、俺も自分のことを話そうじゃないか。逆に、君がどこかを話さないなら、俺も同じ部分を話さない。ちょっとしたゲームだよ。どうだろうか?」
「――秘密を明かした量が釣り合えば、順番が逆になってもいいですか?」
「もちろん構わない」
「フブキさんって何歳なんですか?」
「……見てわからない?」
「……わからないです」
こちらへ来てから色々あったし、目元に刺青も入ってるし、自分で思うほどには年相応の顔じゃなくなってきているのかもしれない。
「そうか……。えーと、二十二。あ、いや……もう二十三になってるかもしれない」
「わたしは十七歳です」
明らかに十七歳の体格じゃない。
サバを読んでいるんじゃないかとか、そういう問題ではなくて、一般的にイメージされる十七歳からは、彼女は結構、かなり、大分、離れていた。そしておそらく、何歳になっても離れ続けるだろう。
意識して見上げないようにしながら、俺は話を続けた。
「じゃあ、高校二年生?」
ためらいがあった。
「そうです」
「俺は大学四年生だったよ」
「そうなんですか」
そこで一旦、途切れた。
あまり人のことは言えないが、彼女も負けず劣らず会話が得意ではないようだった。
探るような視線を受けた後、次の質問が飛んできた。
「姫様は何歳なんですか?」
「――おっと、そうきたか。確かに俺と君のことじゃないから、これは気軽に話せるな……といっても、俺も姫様が何歳なのかは知らない。でも、そうだな、俺よりは年上だろうし、彼女もそのつもりで俺に接してるんじゃないかな」
「……わたしと同じか、少し下だと思ってました」
「まあ確かに、見た目で言えば君よりは、――あ、失言だな」
「いえ、そんな……言われてみれば、声は低いですよね」
「そうなんだよ」
だが、正確な年齢を訊ねるほどの勇気は俺は持ち合わせていない。
幸い、これは知らない方がいいし、知らなくてもいい種類の項目だ。
「俺と君の話に戻ろうか。どこに住んでた?」
「北海道です」
「それはそれは、随分遠くから……」
と言ったはいいが、遠い所からここまで来たのは俺もあまり変わらない。
とりあえず、場所に対応して召喚しているわけではないことは、これでわかった。
「……にしちゃあ、訛りがないな」
「あ、はい。札幌でしたし……元からそんなに方言のあるところじゃないんですよ。おじいちゃんやおばあちゃんくらいですね、ちょっぴり残ってるのは」
「へえ……。ちなみに俺は実家は東京で、大学通うのに一人暮らししてた。じゃあ、三年前の震災の時は、そこまで混乱はしなかった?」
自分でもこの話題を出すのは少しどうかとは思ったが、これは間違いなく共有している体験だった。どんな阿呆でもあの時ばかりはニュースを見ていただろう。
「そうですね。テレビでニュース見て、本当にびっくりしましたけど……でも、こっちは揺れませんでしたから」
「あれだけ距離があるとそんなもんか。関東は、俺が住んでたところでもかなり揺れたよ……春休みでさ、朝までゲームしてたせいで、揺れが始まった時目は覚ましたんだけどすげえ眠くってさ。地震なんて多少強いのでも珍しくないし、無視して二度寝しようとしたんだ。そしたら、えーと、部屋の壁一面を本棚にしてたんだけど、それが全部ガッタンガッタン揺れ出してさあ、狭いもんだから倒れてきたらベッドの上で死ぬなって思って、飛び起きて一生懸命押さえたよ。押さえてる間、別の棚に飾ってた小物とか倒れるし、キッチンの上の収納も勝手に開いて皿が落ちてきたりさ、」
「東京でもそんなに揺れたんですか!?」
「おう、揺れた揺れた。北海道だって、札幌はそりゃ内陸だからそこまでだったかもしれないけど、沿岸部には津波来たんじゃないか?」
津波情報で出てくる図の一部は点滅していた気がする。
「わかんないですけど、でも、多分……うーん、来てなかったんじゃないかなあ。さすがに遠いですよ」
「そう、か――」
何か、違和感があった。
熱が違う。
それは、確かに当たり前のことかもしれない。彼女は俺とは別の人間だし、そうなれば感じ方なんて全然違うに決まっている。ましてや当時の大学生と中学生だ、ものの見方など広さからして変わってくるだろう。住んだ土地や性別まで違うというのに。
ただ、それが説明になっているとは思えなかった。
何かが違った。確実に違っていた。距離だけでは測れないある種の隔たりが、目の前の少女との間に立っているように思えた。重大な見落としをしているような気がしてならなかった。どう違うのかということを説明する必要があった。自分にも、彼女にも――もちろん、あんたにも。
必死に頭を回して、そして、俺はあっさりとある可能性に思い至った。
「……ちょっと待った」
あっさり出てきて当たり前だった。それはもっと前の段階で確認しておいても、いや、むしろ彼女を召喚してから最初に確認しておくべきことだった。多分、あんたはこれをいつ説明してもらえるのかと、ずっと待っていたんじゃないか?
「これは新しい質問だ。君がいたのは西暦何年?」
そう言われて、彼女も違和感の正体に気付いた。
同じ時間を共有していない――それが熱の違いだ。
「1998年……」
話が急にSFじみてきた。
彼女にとって震災とは、阪神淡路大震災なのだ。
決して、東日本のそれではない――。
「なんてこった。俺は2014年人だよ」
そして、俺は本当の意味でこの世界の未来人だった。
隔たりは、約十六年分の隔たりだったのだ。
本当なら、彼女は俺のいた時間では三十三歳だ!
「俺が言ってるのは阪神大震災じゃないよ。俺が言ってるのは福島だ……」
彼女は激しくまばたきを繰り返していた。
東日本大震災は2011年に起こった。2014年の三年前だ。
阪神大震災は1995年だから、確かに1998年の三年前だ。
タチの悪い偶然じゃないか――。
「福島って、福島県ですか? 地震があったんですか?」
頷くしかなかった。頷き止まりだった。
あれを知りえない人物に対して、どこまで話していいものか、迷う。
一度沈没したと言ってもいい。それほどの災いだった。
知らないのなら、体験していないのなら、そのままでいた方がいいのではないか?
「じゃあ、じゃあ――恐怖の大王が嘘っぱちだったのも、世界貿易センタービルも、もちろんイラク戦争も、君は、知らないんだ……。マイケル・ジャクソンが捕まったのも、死んだのも、郵政民営化も、黒人大統領も、政権交代も、GDPが中国に抜かれたのも、アナログテレビ放送が終わったのも、君は、君は、全部知らないまま、ここへ来てしまったんだ……」
愕然とする。
きっと、彼女はインターネットの世界もほとんど知らないに違いない。
一体、どれほどの断絶があるのだろうか。
こうしてキーワードを並べただけで、彼女は信じられないようなものを見るような目で俺を眺め始めた。俺は予言者になっていた。彼女にとってのノストラダムスだった。ジョン・タイターだった。最早、お互いに今までとは別の意味で心の平穏を失いつつあった。それでも、俺はまだいい。彼女は、ジュンは、完全に自分が切り取られてしまったように感じているのではないのか。
さらなる可能性が待ち構えていることに、俺は気付いた。
「いや、待て、ズレてるのは時間だけか……?」
よく似た別の場所から、彼女は来たんじゃないのか?
だとしたら、
「だとしたら、君が知る歴史と俺の知る歴史は違うんじゃないのか……?」
おそるべき可能性だった。
彼女が元いた世界の匂いに飢えているように、俺もまた、元の世界の片鱗に飢えていた。それらが跡形もなく吹き飛ばされてしまうのかもしれないのだ。よく似ているだけで、本当に全然別の日本人である可能性――。
気付かぬふりはできなかった。
俺達は思いつく限りの歴史と事件を照らし合わせる作業に入った。
検証の結果、俺がいた日本とジュンのいた日本はほぼ同じであることが判明した。
問題の性質上、残念ながら確信を持つまでに至ることができなかった。
明らかな差異は認められなかったが、だからといって見落としが残っていないとは言い切れない。疑い続けてもキリがないので、一時的に自分達を納得させただけだ。
人の記憶というのは儚いもので、今まで自分が生きてきた中で触れた事件を全て掘り起こせはしないし、また、学校で教えられたこともいつの間にか虫食いになっていた。あくまでも、互いに憶えていることを突き合わせた結果、一応の合致をみた、というだけにすぎない。それで満足するしかなかった。
異様な疲労感に襲われたので、一旦休憩を挟んでから、俺達はお喋りを再開した。
「……話を元に戻そうか。これだけ時間が経てば、心の準備も少しはできたんじゃないか? お互いに興味はあるはずだ。今目の前に座っている人物が何者なのか――」
「――確かに、気になります。わたし、フブキさんが普通の大学生だったなんて、想像できません。一体何があったらこっちの世界に来て、そういう刺青を入れて、ああいう服を着るようになるんですか?」
微妙に馬鹿にされたような気もするが、まあいい。
「じゃあ、先に俺のことから話そうか」
まだ少し躊躇いはあったが、彼女はゆっくりと頷いた。
「もしかしたら想像がついていたかもしれないな。俺も自殺だよ。就職活動が上手くいかなくてな、今考えるとそれだけのことで何を、とも思うんだが、まあ、その時は嫌んなって部屋で首吊ったんだ。吊ったつもりだった。気が付いたら、君と同じく召喚されていた。違うのは、召喚した奴が、あー、レギウスっていうエルフなんだが、まだ向こうの国でのほほんとしてたってことだ。闘技場の中でな、見世物として喚ばれたってわけさ。俺はそこで散々こき使われて、ある日魔法が使えるようになったんで逃げ出した。その先で姫様に拾われて、道化師になって、ちょっと戦争に参加してレギウスを捕まえた。色々やって言うことを聞かせるようにして、君を召喚した。おわり」
かなり複雑そうな表情を作ってから、ジュンは言った。
「なんか軽くないですか……?」
「確かに端折ったけど、でも、これで全部説明できてる。君の番だよ」
どうぞ、と俺は手で示した。だが、彼女は渋った。
「うーん……」
「釈然としないか。でも、そんなもんだろう? 確かに俺はひどく嫌な気持ちで死のうとしたし、エルフのことをとても憎んでいるけど、どれだけ言葉を尽くしたとしても、君がそれを完全に体験することはできないよ。言葉や文字にすると、今のように簡単に片づけられてしまうものなんだ。本当に腹が立つけど、そういう決まりになってる。俺がこんなに不愉快なのに、そうなってる。同じように、俺は君のことを全て理解するのは無理だと考えている。君の置かれていた境遇に興味はあるが、それだけだ。だから君も、もう少し軽く捉えてみたらどうだろう。多分それだけでもう辛いだろうけど、少しは痛みが和らぐかもしれない」
「そういうものでしょうか……」
「さてね」
まあ、話してくれなくても、それはそれで彼女がそういう奴であるという情報は得られる。先に話させた時点で、どちらに転ぼうが俺は損はしない。
ジュンは最初こそたっぷり悩むような素振りを見せたが、唐突に、
「でも、約束なので、話します」
と言った。
「知ってると思うんですが、わたしも自殺です」
「うん」
「わたしは……さっきは高校生と言いましたが、もう、半年は学校に行っていません。学校に行くのが嫌になったんです。――いじめ、って言うんでしょうね、あれも。確かに原因は思い当たります。わたしはどんくさいです。でも、誰かに迷惑をかけたわけじゃない。身体が大きなことも、犯罪じゃないと思います。悪いことだったとしても、いつまでも償うようなものなんですか? 言葉なら耐えられます。血が流れるのも、ある程度なら我慢できました。でも、お母さんが作ってくれたものを壊されるなら、それを黙って見ているしかないのなら、わたしはいてもいなくても変わらないんじゃないですか? どうして、どうしてずっと友達だと思っていた人が、わたしのことを指差して笑うんですか? ずっと計画通りだったなんて言われたら、わたしどうすればいいんですか? どうすればよかったんですか? どこかに逃げればよかったんですか? でも、そんな場所ありません。あるはずないじゃないですか。学校以外に、どこへ行ったらよかったんですか? どこへ行ったら許されていたんですか? 死ぬ以外の、どこへ」
彼女は泣きはしなかった。淡々としていた。
それが余計に苦悩を察する助けとなった。
ありふれた苦悩だ。
あまりにもありふれていて、絶対に顧みられることはない――そういう類の問題だった。その状態は確実に間違っているのだが、結局、そこまで多くの人が間違っているとは捉えていない、そういう問題。決まりきっているから、対抗することはおろか、同じ土俵へ上がることさえできない。何が起ころうとも慈悲の届かない領域。
俺は彼女の問いに対して有効な回答を持たない。
取り返しのつかないことを取り返せるほどの力も持たない。
誰にもそんなことはできない。
そういった環境に曝された時点で、台無しになってしまったのだ。例え彼女がこの先何らかの成功を勝ち取ったとしても、精神の大事な部分は破壊されたままなのだ。例え彼女がこの先信じられないような幸福に包まれたとしても、精神の大事な部分は破壊されたままなのだ。
修復は不可能だ。姫様でさえ戻せない。
絶対に治らない。それは残る。
そして、この事実もまた、笑い飛ばされてしまうのだ。
「参考になった」
と俺は言った。
「なりましたか」
と彼女は言った。
俺の思うろくでなしとは少し違うが、あの場所からはじかれたという意味では、確かにその通りの逸材だった。この条件付けを指定したのは、ルサンチマンやコンプレックスが魔法の大きな原動力になることを期待したからだ。経験から思うに、負の感情は明らかに正の感情より手軽であることに加え、重ねて言うようにありふれており、派手で、激しく、潤沢である。ろくでなしであればあるほど、蓄えているはずなのだ。
意図的に魔法の素質を与える、あるいは引き出すことができるなら、どこかが壊れている方がいい。それがそのままパワーとなりうる。
あとは、それが証明されるだけだ。
「そういった背景がありながら、あの時、君はアデナ先生に正面から対抗しようとした。その気骨は俺にはないものだ。姫様もきっと期待している」
最終的にどれほどの腕前になるかはわからない。
だが、勘は吉兆を告げている。
「――魔法は気に入ったか?」
ジュンは掌の上に水球を作り出してから、それを八つに分け、自分を周りでぐるぐると回してから、再び一つにまとめ、机の上に置かれていた杯の中へ投げ込んだ。
少しだけ、零れた。
「……わかりません。でも、今はこれを伸ばさなきゃ、って思います」
「その意気だ」
彼女が部屋を去ってから、俺はその水を飲んでみることにした。
味はあった。
しかし、どう説明したら伝わるかわからない。
あんたも飲めたらよかったんだが。




