4-4 その女は濡れている
そして、出てきた。
あまりにも突然そこにあったので、姫様も俺もちょっと反応が遅れた。
ボフン、と由来不明の煙でも出てくるのかという予想は跡形もなく吹き飛んで、俺達は召喚された対象を目の当たりにした。
全身が濡れていた。
短い髪も、閉じられた瞼も、薄く開かれた唇も、細く長い首筋、影の落ちた鎖骨、見間違えようもなく膨らんだ乳房、捻られた腰とそれによって歪んだ臍。
しかし、どこよりも濡れていたのは、切り裂かれた手首から、血が、
「――早く戻せ!」
俺が叫んだのを聞いて、姫様も我に返った。
駆け寄って触れようとするが、魔法陣から垂直に立つ光が行く手を阻む。
レギウスが慌てて指パッチンを一つ、壁は消え、姫様が放出した魔力を腕の動きで天鵞絨のように引き伸ばして覆い被せた。
それで、その肉体は元に戻った。濡れる前まで。
「一刻、戻したけれど――」
女だ。
おっぱいでかいな、と俺は思った。
全体を見るに、年の頃は二十歳前後といったところか。
いや――姫様の例を考えると、その逆でもう少し若いこともありえる。どちらにせよ、身構えていたよりはまともな人が召喚されて、少々拍子抜けした感はある。
それより、ちゃんと生きているのだろうか?
一刻戻した、と姫様は言ったが、既に死んでいた可能性はかなりあるのではないか?
見ただけで生気があるかどうかなんてわからん。
胸から下の部分を濡らしていた水が若干朱に染まっていたことを考えると、さらに縦に裂かれていたことを考えると――ほぼ確実に自殺だろう。リストカットだ。
何も全裸でやることないだろうに、と思ったが、自分で思い返してみると確かに漫画などでは大体全裸でやっている印象がある。真に受けるとこうなるわけだ。
俺は首を括ろうとしたときに喚び出されたが、絞まったところまではきちんと覚えている。そして彼女は手首を裂いたときに喚び出された。おそらく自分が浴槽に浸かっていた記憶も残っているだろう。
これは偶然の一致なのだろうか?
そういう条件付けをしたわけではないが、もしかするとあの世界から無くなろうとしているものから選ばれて、
もぞり、と動く。
それを見て振り向いた姫様がこう言った。
「いつまで呆けているの。あなた達、早く部屋を出ていって誰か呼んで――とりあえず何か被せるものと、あと、できれば服も持ってくるのよ。一番大きなものを」
俺達はその通りにした。
レギウスは座敷牢に帰した。
意識が戻った新たな漂流者の命に別状がないことを確認すると、俺と姫様はまた元の部屋に戻ってきて、服を着せた彼女を今度は椅子に座らせ、自分達も机越しに座った。
無理もないが、女性は今自分がどういう状況に置かれているのか全く把握できていないようだった。ここまでは一言も発しておらず、素早い瞬きを繰り返しながらあちこちへ視線を向けている。
「こんにちは」
と俺は日本語で声をかけた。
「あっ、こ、こんにちは……」
驚きと安堵の混ざった声が女性から漏れた。
でかいのはおっぱいだけじゃない。俺と姫様は同じくらいの身長だが、目の前の女性は座高からして俺達の目線を少し上げさせる。ファッションモデルよりバレーの選手に見える。俺の時より魔法陣が小さく思えたのは目の錯覚だった。この女性が魔法陣に対して大きかったのだ。
「こうして日本語で話しているのは、あなたに無用の混乱を与えないためです。私も日本出身ですが、隣にいる方はそうではないので、こちらの言語に切り替えます。はい、このように話せますか?」
すぐには口を開かなかったが、ためらいがちに、
「――、話せ、ます」
「どうやら上手くいったようですね。はじめまして」
「は、はじめまして」
「私はこちらにおわしますゼニア姫様の道化師を務めております、フブキと申します。唐突ですみませんが、あなたのお名前もお聞かせ願えますか?」
「えっ、あ、は、はい。コミナトです」
「コミナト。名字ですか?」
「あ、はいそうです」
「下のお名前の方もお聞かせください」
「……ジュン」
「コミナト、ジュンさん。こちらだとジュン・コミナトさんになりますね」
普通の名前だし、普通の(顔はいい)日本人女性に見える。言語こそ違えど、受け答えにはどこか懐かしさを感じる。コミナトさんと呼びたい衝動をぐっと抑え、
「では、ジュンさん。色々と聞きたいこともあるとは思いますが、まずはこちらから説明します。――薄々感づいているかもしれませんね、ここは日本ではありません」
「はい、それは……なんとなく」
「先回りして話をしますが、おそらく地球でもありません」
彼女は黙り込んだ。
「確認する手段はありませんが、大雑把に言うと、日本の存在している世界とは別の場所に来ています。まだあまり実感がないかもしれませんが、そのうちわかります」
「あの……ここって三途の川の事務所か何かですか?」
思わず笑いそうになったが、堪える。
「違います。あなたは死んでいません。あー、少し日本語に切り替えます。天国や地獄といった、あの世に属する世界へ来たわけではないんですよ。戻します。そうですね、まあ……隣の世界、ってところでしょうね。正直に言うと私もこちらへ来てまだ日が浅いので、そのあたりの詳しいことはまだわかっていないんです。こういう設定の漫画を読んだりアニメを観たりしたことはありませんか?」
「あります、けど」
「それが現実に起こったと考えてください」
彼女は目を伏せた。
「――わたし、死ねなかったんですね」
「ご心中、お察しします。かく言う私も首を括ってここへ来ました。こうなってはおそらく、これからのことなど何も思いつかない状態でしょう。それで、こちらから提案があるのですが」
なんだか自分が拉致と詐欺を働いているような気がしてきたが、いや事実そうなのだと思うが、向こうはどう思っているのだろう。
やはり、こいつらうさんくせえ~、と思っているのだろうか。それともそんなことを考える余裕もないだろうか。
「正直に言うと、あなたがここへ来たというよりは、我々が喚び寄せたのです。いわゆる、魔法を使って。明確にあなたを選んだわけではありませんが、いくつかの条件をつけて人を探した結果、あなたが該当したのです。あなたはもしかするとまだ死にたいと考えているかもしれませんが、少し落ち着いて考えてもらって、それで、こちらとしてはある仕事を引き受けて欲しいのです。いきなりこんなことを言われても混乱の種を増やすだけかもしれませんが――どうでしょうか?」
「……すみません、その、やっぱり、急に言われても、わたし、よくわからなくて」
それから、思い出したように、
「もしかして、帰れないん……ですか?」
大事なことにはさすがにすぐ気付くか。
「残念ながら」
彼女は少し考え、さらにこう訊ねてきた。
「え、と、フブキさん、は、帰りたいと思いますか?」
不意打ちだった。
「――あ、す、すみません! わたし、いきなり何聞いてるんだろ……」
「……いえ、いいんですよ。現状では、私やあなたのようにやってきた人が、元いた場所へ戻る方法はわかっていません。それで、質問にお答えしますと、私は帰ろうとするより先にやらなければならないことがあるので、帰りませんし、帰りたくありません。もし帰る方法を模索するとしたら、おそらく全てが片付いた後になりますが、それがどのくらいかかるのかわかりませんし、成功の保証もまだありません。仮にすぐ片付いたとしても、それから帰る方法が見つかるかどうかは、私自身、望み薄だと考えています。申し訳ありませんが、受け入れてください、と言うことしか私にはできません」
「そうですか……」
まあ、自殺をするくらいだから、元いた世界に未練はあまりないだろう。
自分で手を下すほどそこで生きるのが嫌になった、ということなのだから。
そういう意味では、俺は質問の意図を捻じ曲げて答えた。
おそらく彼女は、あの掃き溜めに帰りたいと思いますか? と聞いたのだ。
その答えを聞いて、共感か、あるいは何かのヒントを得ようとしたに違いない。
フェアなやり方ではないが、そういうことを聞くのだったら、この場ですぐというわけにはいかない。話が本決まりにならないうちは、俺は答えたくなかった。
「話を戻します。我々は今、深刻な人手不足に陥っています。猫の手も借りたいという状況ですが、ただの猫では困ります。適性がある猫の手をお借りしたいのです。あなたはその適性を持つ可能性が非常に高い。話を進める前に、まずはそれを確かめておきたいのです」
「待ってください」
と彼女は言った。
「その……フブキさん達は、一体、何をする人なんですか? それがわからないと、協力とかそういうのは、ちょっと……」
「戦争です」
と簡潔に答える。
彼女の瞳の中に不思議な輝きが宿ったのを、俺は見逃さなかった。
「戦争って、あの戦争ですか!? 銃とか使って……」
「この世界に銃器は無いので、想像されているものとは違うかもしれませんが、そうですね、剣や槍を振り回したり、馬に乗って弓を使うくらいには戦争です」
「わたし、どれも使ったことないんですけど」
「私も初陣を迎えるまでは全くの未経験でした。それに、場合によっては、どれも使う必要がないかもしれません。それは試してみないとわかりません」
「わたし、戦わなきゃならないんですか」
「まだどの程度ジュンさんに適性があるか判明していないので、なんとも言えないですが、もしも我々が予想していた通りの方であれば、最終的にそれを視野に入れる可能性はあります」
「適正って、何なんですか」
「それが、魔法です」
「魔法って何なんですかっ!」
心です、と言いそうになったが、それでは話が観念的になりすぎる。
彼女もまた、魔法のない世界から来た未開人なのだ。彼女にとってこの世界はまだ、いくつかの部屋と廊下によってでしか構成されていない。具体例もないのにそう易々と話を飲み込めるはずもなかった。
「そうですね、例えば、あなたの手首にあった傷を跡も残さず元に戻してしまったのは、こちらにいらっしゃる、姫様なのです。あなたが自分で自分を殺そうとしたのは夢でもなんでもありません。完全に死んでしまう前に、姫様が原因を取り除いた。それだけのことですが、それだけのことをできるのが魔法です」
あんまり俺がすらすらと言うものだから、彼女は噛み砕くのに少し時間がかかった。
「難しいですか? では、もっとわかりやすい例を……。そう、実は私も、魔法使いなのです。何でもできるというわけではありませんが、風を起こすことができます。この部屋には窓が無いですし、他に空気をかき混ぜる要因となりそうなものもありません。では、今あなたの前髪を激しく乱しているのは、私がこうして喋っていることによって発生する吐息でしょうか?」
もちろん俺が魔法で起こしている風が悪戯をしているのだ。
「どう思いますか? 私もこの世界に来るまで、魔法など嘘っぱちだと考えていました。あったらいいな、とは思っていましたが――」
急激に風を強くする。着ている服が波打つほどに――彼女の着ている服だけが。
そして、ぴたりと無風になる。
「どう思いますか?」
コミナトジュンは、亡霊か何かを見るような目つきで俺達を見ている。
彼女は日本語で言った。
「――あやしい宗教はこういう手口を使うって、色んな人が言ってました」
「その通り。簡単なトリックで、一般に頭がいいと言われているような人物でもあっさり騙してしまえるものです。頭がよくないのならなおさら。しかし、この世界には大真面目に宗教と呼べるような代物はありませんし、私はあまり宗教が好きではなく、この世界に住む生き物にはその生き物なりの考え方がそれぞれあって、生半なものを押し付けたところで上手くいくとは思わない。疑うのはあなたの自由ですし、希望するなら、気の済むまでどこをどれだけ調べても構いません」
俺も日本語で返し、共通語へ戻す。
「でも、最初から無いものは見つからない」
最近、歯止めがきかなくなっているような気がする。
召喚されてからこっち、俺はますます自分が芝居がかっていくように思う。
「あなたを騙すメリット――確かにたくさん思いつきます。デメリットは? 私はメリットよりもたくさん思いつけるような気がします」
実際、この大きな娘を騙して何になるというのだろう? 俺と同程度か、下手をすれば凌ぐようなポテンシャルを秘めているかもしれないこの娘に。
王様やこの国を構成する重鎮達が俺の暴走を恐れているように、俺達もまた、この新たなる漂流者を潜在的には恐れている。
そうとも、騙くらかすのはデメリットの方が大きいに決まっている。
「あなたは既に気付いているはずだ。あなたは見慣れぬものを見た」
そう、彼女は気付いたはずだ。
俺から立ち昇る魔力の揺らめきが、決して目の錯覚ではないことを。
「それが俗に魔力と呼ばれているものであり――目に見える心です」
見えていなかったはずはないのだ。
盲人はそんな顔をしない。
「見えていたなら、あなたは魔女だ」
ジュンは言った。
「見え、ました」
「よろしい! まずはめでたいと言っておきましょう。少なくともあなたはこの世界で食いっぱぐれることはもうなくなった! 誰もが羨み嫉妬する、才能というくだらぬ幻影を手に入れたのです! 私はかつて風の化身と呼ばれましたが、あなたはさしずめ、水の化身といったところですな!」
俺はなんとなく立ち上がり、開いた手を前に出して言い放った。
「さあ! この部屋を完全に満たしてしまうのです! 水で!」
「は、はいっ!」
彼女は両手の拳を握ると、力んだ。
魔力の放出を確認する。
この時点で俺よりすごい。スイッチを入れてもらう必要がなかったということだ。
最初、握りこぶしの間に現れたそれを、俺はレンズの曇りだと思った。だがすぐにひとかたまりの水滴になった。水滴はまたすぐに水滴ではなくなり、そう、丁度、宇宙飛行士が飲むときのようなサイズの水球に膨れ上がって、そこで、形を崩した。
ジュンは慌てて手で器を作り、机の上へ落ちそうになったそれを受け止めた。当然、指の隙間から零れていくが、今度はそれを上回る勢いで増え始めた。まだ増量と制御のバランス感覚を掴めていないということだろうか。
彼女は口を開けて、手の中が満たされていく様を眺めていた。
やがて水は溢れ出でて、真下に広がった。
そこまでだった。
彼女は突然器を作るのをやめて、全てをぶちまけた後、俯いてしまった。
どうしたのかと聞く前に、答えが返ってきた。
「すみません、もう……出ないみたいです、水」
「……そうですか」
とだけ、言葉をかけた。
それ以上何を言えばいいというのだ。どう見たって生活級だ。
気分の盛り上がりに見合う成果じゃなかったことは、彼女自身がよくわかっている。
「わたし、しょぼいんでしょうか」
「ん、まあ、そこは、気の持ちようですかね……これからですよ、これから」
初めてでこれだけできれば大したもんだと思うが、それを正直に言っても慰めにはなるまい。
困った俺は助けを求めた。
「姫様、いかがいたしましょう」
非難めいた視線を向けられたがそこはなんとか受け流し、お言葉を待つ。
姫様は長く息を吐いてから、言った。
「いきなりで多くは望まない。フブキが言ったように、魔法は複雑なの。今日、一杯分の水しか生み出すことができなくても、明日も同じ結果とは限らない。幸いにも、あなたの魔法を育て、生かすことのできる環境を私達は整えられる。死ぬつもりだったところ悪いけれど、多くの選択肢を提示するほど私はお人好しじゃないわ。私の下で働くことを強くお勧めします。代わりに、生きる理由を与えましょう。もちろん、戦えなくても、魔法を使える者が貴重であることに変わりはないし――」
そこで、姫様は意味深な笑みを浮かべた。
「そろそろ、また侍女を持ってもいい頃だと思っていたのよ」




