3-9 ひとまずの勝敗
~
まさか、もう一度あの塔を拝むことになるとは。
天へと続く、あの回転を続ける塔を。
マイエルは初め、レギウスの言っていることを信じようとはしなかった。
「そんな馬鹿な話があるか! あいつは溺れ死んだと、そう報告されただろう。だから私達はこんなことになっているんじゃないか! 今更、生きて復讐をしに戻って来たなどと――」
「そう思うなら、マイエル、今からでもあの姉妹のところに行くといい。ありゃしばらく立ち直れんぜ。なにせ精鋭ファイアボール中隊が消滅したんだからな。いいか、全滅じゃなくて消滅だぞ。彼女達は最初から最後までそれを見届けたんだ……奴はあの力を保ったまま戻って来た。いや、増してさえいるかもしれない」
「……その割には冷静じゃないか、レギウス」
「ああ、かなり落ち着いたさ。だが脚が震えっぱなしだ。わからないのか?」
撤退の準備は遅れに遅れていた。司令部はまず第一報を住民に信じさせることから始めなければならなかった。マーレタリアはいっそ常勝と言っていいほど久しく敗北を経験しておらず――しかも、セーラムを追い詰め、今回の出撃で滅亡も秒読み段階に入ったはずだった。
そんな状況下で、いきなりメイヘムを放棄するから避難の準備を始めろと住民に触れ回ったところで、土台無理な話であった。昨日今日住み始めたならまだしも、メイヘムはもうマーレタリアの一都市と呼んでいいほど引っ越しが完了していて、元の住人であったヒューマン達までもが、奴隷であることにある種の慣れを見せていた。それだけ根を下ろしていたのだ。これが何日も何週間もかけて状況が悪くなっていたのならまた違っていたのかもしれないが、実際にはいつもと同じだと思っていたはずの今日が、夕方から突然ひっくり返ってしまったことになる。
詳しい情報公開を求められた司令部は、仕方なく火球中隊という魔法戦力を完全に失ったことを話した。苦渋の決断だった。ショッキングな事実としてパニック防止のためにそれまで伏せられていたわけだが――やはりパニックになった。
しかし、その説得力をもってしても、全員に事実を信じ込ませることはできなかった。半数以上の明確な残留派が発生し、家賃の未払いから便乗強盗まで大小様々なトラブルが噴出、あるいは表面化し、それらの収拾に大部分の手間が割かれ、当初の予定時刻までに荷造りを切り上げた世帯数は司令部の予想を遥かに下回った。これでは何のために情報を公開したのかわからない、かといってまさか国力の源である民草を見捨てて予定通り出発するわけにもいかない。兵士達には住民を説き伏せ、尻を叩いて急かす任務が下されたわけだが、当然そんな事態を想定した訓練など行われていない。
戦闘が始まる前から、惨状が目の前に広がった。
そこへ至ってマイエルもとうとう観念し、レギウスと共に身の振り方を考える必要に迫られた。
まず、普通に撤退する集団へ加わっても無駄だろう、という共通認識があった。94番が本当に天災級の実力を保ったまま戻ってきたのなら、さらに火球中隊の航空戦力も無力化したというのなら、当然高速で飛行する術は心得ているはずである。つまり、ちんたらしているとすぐに追いつかれる。自分達に巻き込まれて無辜の民が大勢死ぬのは忍びない。
なので、アテにするべきは要職避難誘導員である。これは運搬魔法家の別名であり、例えば今回のような非常事態においては首都と前線を結べる強力なポーターが派遣されてくる。トラブルの性質を考えれば、情報源を優先的に確保するであろう上層部の判断は十分に期待できた。
しかし――、
「何度も言わせるな。君達の優先度は一番下だ」
防衛司令はご丁寧に下を指しながらそう言った。
「ですが94番を召喚したのは我々であって、奴の管理をしていたのもまた我々です、」
「そして失敗し、重大な損害をもたらした。……君達から聞き出したいことは全て聞いた。私には報告の義務がある。君達にはない。よって君達は誘導員の仕事の中では優先されない。それだけのことが何故わからない? 私の独断で決めたことではないぞ、むしろ市長が先に決定したくらいだ」
マイエルは信じられないといった様子で言った。
「一次の情報源を捨てる、と!? それに、奴の目当てはきっと私達だ! 私達が共に逃げたら、一般市民が巻き添えになりますよ!」
「ふーん、そう思うなら是非別の方向へ行ってもらいたいものだな。その94番とやらは、退却しようとした火球隊を磨り潰したぞ。治癒魔法員を捕虜に取ることすらせずな。私が思うに、彼は君たちがいようがいまいが、手にかける余裕があるなら市民を殺すのではないかな」
マイエルは司令室の壁に即席で描かれた魔法陣を補足する誘導員を眺めやった。彼女の場合、通信の口頭でも伝えられる簡易な式を現地の者へ書かせ、まずはそれによってやってくる。そして自分で残りの式を書き足して、双方向の通り道にしてしまうらしい。
「――彼女は二十名も運べるのでしょう?」
「貴重な魔力供給員を五名空にして、さらに自身も回復に時間がかかる。無理の上に無理を言って作った枠だ。これ以上増やせないと言ってきたのをさらに増やした。正直言って私はこの借りをどう返そうか考えるのに忙しい。用件がそれだけなら、呼ばれるまで出ていってくれないか」
「我々とて魔法家です。私はともかく、ステラングレ卿を見捨てれば魔導院が黙ってはいませんよ」
「ふん……あの福祉施設が君達のような若者を守ろうとするかね?」
レギウスは彼を睨みつけたが、露程にも効果はないようだった。
代わりに、防衛司令は指折り数えた。
「私、私の妻、私の息子、私の娘、市長、市長の妻、市長の息子、市長の息子、市長の息子、市長の長男の妻、これで十名。半分も埋まってしまった。そして、まだまだ埋まる。――何も君達を運搬できる可能性が全く残っていないわけではない。魔法使いであることには変わりないのだからな。ただ、現実として、席には限りがある。それだけだ」
まだ何か言おうとするマイエルの肩を掴み、レギウスは首を振った。
「行こう、マイエル。おとなしくキャンセル待ちだ」
そして、一名分の空きが出たのが三分前である。
口笛はもうとっくに止んでいる。外が騒がしいのはヒューマン共が街の中へ入り込んできたせいだ。一応出撃したはずの騎兵も弓兵も、二本の竜巻が相手では戦うどころではない。あれに対抗できる魔法家をこの街へ残していなかった時点で、詰んでいたのだ。
「それで、結局どちらに……」
と、誘導員が困ったように言った。腰を折り曲げ、身体の下半分は魔法陣の先だ。憎き権力者達はすでに運搬され、司令室には三対の長い耳を除けば誰も残っていない。住民たちは結局かなりの数が残り、逃亡組も戦闘が開始される前にようやっと出発する有様であった。
喧騒が近づいている。
そろそろこの論争にも決着をつけねばなるまい、とレギウスは思った。
「駄目だ、マイエル。お前が行くんだ。傷を治せる奴は減らない方がいい」
「馬鹿を言うな! お前をここに残して、私は学長へ何と詫びればいい!? まだ研究し足りないだろう!? やっと芽が出たところじゃないか――」
「その芽は腐ったんだよ。夢ならもう見たさ。お前が助けてくれなきゃ、あのヒューマンを喚び出すこともなかっただろう。感謝感謝だ」
「――らしくねえことを言うなよ、レギウス! お前ならもっとでっかいことが、」
「どのみちしばらくは無理だ。材料が手に入らないんじゃしょうが」
喧騒を掻き消すほどの轟音があり、そこにあったどれとも違う光が差し込んだ。
振り返ると、司令室の天井が半分崩れていた。光は太陽がもたらすものだ。
濛々と立ち込める土埃の中、それは咽せもせずにこちらを見た。
レギウスの記憶の中ではほとんど死んでいたようなその面が、今は喜色満面といった様子で、
「――会いたかったぜェエ!?」
覚悟は決まった。突然の出来事から立ち直るのが遅かったマイエルを、誘導員の方へやや強めに突き飛ばした。彼女もこういう状況には慣れていたのか、はっしとマイエルを絡め取ると、何かを言わせる前に魔法陣の向こうへと引き込んでしまった。
「ん? あ、あっおいちょ、と、待ってよ……」
最後に淡く光を発し、環状に綴られた魔法の式は薄れ、消えた。
目を丸くしている94番と二次崩壊を始めた天井へ顔を向け、レギウスは言い放った。
「ぶち破ってきたのか……大したもんだ。だが、いっぺんにやられるのはこちらとしても癪なんでな」
それで理解したのか、94番は見るからに不機嫌そうな表情を見せ、
「クソが。泣かせる友情じゃねーかよ」
随分と変わった格好をしていた。頭巾を被っていないせいですぐには気が付かなかったが、落ち着いて眺めてみると、それはおそらく道化師の服だった。丁寧に顔へ刺青さえ入れている。
逆に言えばそれだけで、武器も何も手にしていなかった。
レギウスは呟いた。
「随分と……暴れてくれたもんだ」
94番は一転、恍惚とした表情で言った。
「ああ、お前らのことをずっと想ってたら、あんな竜巻が生まれちまったよ」
「おかげで俺達ゃ……。今更、何をしにきたっていうんだ……」
「確かに今更だ――こちらでも色々あってね。本当はもっと早く来たかったんだが、ここまで手間取っちまった。とりあえずあんたには感謝の言葉を贈らないとな、レギウス。本当にありがたいと思っているよ。言葉が通じるようにしてくれたし、俺にあんたらを害せるだけの力も与えてくれた。だから今ここにこうしていられる。お礼をしなきゃな」
94番から魔力が立ち昇るのが見える。
瞬時に悟った――マイエルを首都へ帰して本当によかった。
レギウスは腰に帯びていた剣を鞘から両方とも抜いた。前髪が激しく揺れ始める。
ある意味で、研究は実を結んでいたのだろう。まだ待機状態であるはずなのにこれだけの強風を吹かせる94番は、まさに最初の目標だった風の化身と合致している。
ただ、想定していたより何倍も強力だっただけだ。
まあ、だからといっておとなしくしていられるほど、こちらも弱くはないのだが。
「俺達がどうしてわざわざ闘技会を開いていたか教えてやるよ。――自分で出たら圧倒的すぎて面白くねえからさ!」
レギウスはそう言い放ち、
~
言うだけあって初動は速い。
一瞬で視界から消えやがった。
なるほど、これだけやれるなら、確かに大抵の奴隷には物理的な枷だけ付けとけば対応できるだろう――と思いながら、俺は自分の身体を真横へスライドさせた。奴が左に回り込んできたこと自体はわかっていたから、もちろん右へ。向き直った時には既に剣が届くところまで詰め寄られていた。壁を作って対処。鼻先で押し止める。
レギウスを吹き飛ばし、自分の背も風に追わせた。両手に刀。不気味な身のこなしで早くも立ち直りかけている長耳めがけて、右腕を振り下ろす。まだ体勢が崩れているはずなのに、レギウスはしっかりとそれを受け止めた。弾き返しさえする。左腕の処理も同様だった。俺は小刻みに自分の位置を調整しながら、二刀流対決を拒否。二挺拳銃作戦へ変更。
しかし、架空のマガジンへ魔力を装填する前に、クソエルフは歩幅の広い一歩を踏み出し、二歩目で跳躍――俺の頭上を行こうとする。狙いはつけずに奴が描くであろう軌跡を予測して発砲、発砲、発砲。完全に回り込まれる前に風のブースターを吹かして距離を離し、滑るようにターン、引き撃ちを続ける。レギウスはマメに動く方向を変えて的を散らしつつ、どうしても避けられない分は剣で切るなどして防いでいる。
背中がかたいものにぶつかった。行き止まりか。――ここは風の機動力で動き回るには狭すぎる。まあいい、あと何発あったかな? まだ一発くらいは残っていたと思うからそれで――弾切れ! これどっちも六連装リボルバーなんだよ。ああくそ、もっと魔力が残ってりゃこんなに手間かけないで済むものを、
レギウスが弾丸のようにこちらへ飛び込んでくる。今度は受け止めきれるかわからない。横っ飛びに躱して転がる、これも風のサポートがなければ上手くいかない。
野郎は追撃はしてこなかった。代わりに、瓦礫の山を器用に――駆け上がって、部屋の外へ出ていってしまった。
「あ、くそ!」
小競り合いに溶け込まれたらまた探すところから始めなきゃならなくなる。俺もすぐに後を追って天井の穴めがけて飛び、
視界が、一気に刃で塗り潰される。
――なんだ、ただの待ち伏せか。
俺は風を吹かせた。今日一番の風だ。
レギウスは――かわいそうに、周りの建物ごと巨大な拳でぶっ叩かれて、一直線に飛んでいった。途中で身をよじることもできないまま、真っ直ぐに真っ直ぐに――半壊した闘技場の外壁まで。
喧騒が一瞬止み、そして再び勢いを取り戻した。
俺が着弾地点まで辿り着いても、レギウスはへこんだ壁に浅く埋まったままだった。
下のクソ狭い部屋でこれをやったらさらに崩れて危険だっただろうが、外なら、問題ない。現に大丈夫だった。特に狙ったわけではないが、直線上にヒューマンもいなかったようでなにより。
長耳は剣を両方ともどこかへやってしまったらしい。片方は吹き飛ばした時に手放したのを見たが、もう片方の行方は俺にはわからない。
「よいっしょ」
眼球が微かに動いたのが確認できたので、俺は血塗れのエルフをなんとか掘り起こし、自分よりさらに高く空中へ放り投げた。追いかけて、今度はレギウスの身体が速度を失うより先に捕まえる。
例えるなら、一人で三次元庭球を成立させるような感覚だ。
飛んでいるレギウスを強かに風で打ち、本当は対戦相手が返さなければならないところを、自分で先回りしてさらに打つ。
「まだまだァ……」
それから数十回はラリーを続けたと思う。インパクトの瞬間が訪れる度にレギウスは薄くて低い呻き声を漏らしていた。
可哀相に思うかもしれないが、エルフはヒューマンよりも頑丈に育つ傾向があると姫様から聞いている。レギウスがそれなりの実力者であることはわかったので、念には念を入れて叩かねばなるまい。中途半端にやって、後から暴れてもらっては困る。
そのうち唸りもほとんど出なくなったので、頃合いと判断した俺は最後に一際大きく打ってから、ブレーキをかけて空中に保持した。
大きく伸びをする。
「うーんん……ま、少しはすっきりしたな」
用件は済んだ。俺は自前のスピーカーを使って、街の端っこにいても聞こえるくらい大きく声を届けた。
『こちらの目標は達成、優先対象を確保した。合流する』
もうあんたにはわかっているかもしれないが、これは俺なりの意趣返し――であると共に、新戦略に向けての一手だ。姫様の魔法は本当に素晴らしいと俺は思う。これだけ痛めつけても、死んでなきゃ綺麗サッパリ戻してくれるだろうから。
すぐに殺すのは勿体ねえよ。
~
戦況を補足しておく必要がある。
道化師フブキがゼニア姫を攫って逐電した後、首都中枢は一時、混乱に陥った。
偶々ゼニア姫訪問のために城を訪れていた、アデナ・グラフィス女史による賊侵入の知らせは元より、軍部の方からも、ある小隊が無断外出に加えて私闘を行ったという報告が上がってきていた。調べを進めた結果、死者は確認されなかったものの、その分だけ誘拐は華麗とも言えるほど円滑に完了していた。内部からの手引きも複数件疑われたが、どれも確信させるまでには至らず、現状への速やかな対処が慌ただしく人々の尻を叩いていくうちに、半分ほど忘れ去られていった。
ガルデ王の心痛は極限点に到達した。
一応の専制君主制であることが、この場合上手く働いた――と言えるかもしれない。弱ってもヒューマン一の大国である。ガルデ王はセーラムにおける権力を最大限に駆使して、国軍は元より、控えていた――いわば後詰めのはずであったルーシア・ディーン両軍までも首都から動かしてしまった。国軍はゼニア姫救出、残りはマーレタリア前線軍迎撃の任を受けて、二分されたのである。傍目には無謀と思われたこの作戦だが、実際にはいいところを突いていた。本当ならガルデ王は全軍をメイヘムへ差し向けたかったのかもしれない。しかし、ゼニア姫の残した伝言が、今回の挟撃を実現させたのである――。
果たしてそれは成功した。首都進攻軍はまるで情報が筒抜けであったかの如く、そのまま進軍すれば慣れぬ土地で挟撃を受ける形となってしまった。しかしさすがに敵の将も慎重であった。その間に(一体どのようなヘマによってか)雷撃の如くメイヘムを奪われたことも合わせて知ると、数で勝っていても戦術上の利はヒューマンにあると悟るが早いか、セーラム最後の急所に固執はせず、早々にエルフ圏へと舞い戻っていったのである――。蛮族領の拠点が戦場となった場合の感情悪化も考慮に入れると、ヒューマン側としても、とても追撃戦などできる有様ではなかった。何より、ゼニア姫の確保が優先されていた。
最終的に、ガルデ王率いる一万がメイヘムへ到着し、解放された元住民と共に占領下へ置いた。とんでもない混乱から始まった今回の出兵だが、結果オーライのごり押しが成立してしまったのである。
但し、今回の動員に際し、セーラムが各方面へ決して少なくない借りを作ったことは、書き残しておかねばなるまい。




