3-8 竜巻
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「姫様ー! こっち!」
フブキが荷車の上で元気に手を振っている。怪我どころか返り血の一滴すら浴びていないように見える。辺りにはエルフの死骸が中隊規模で散乱していた。相当派手にやったことは、地面の掘り返され具合からもよくわかった。
ゼニアは手を振り返しながら、賭けた時特有の、舞い込んできた幸運に対する恍惚を味わっていた。最後の一枚が手の中に入り、相手よりも強い役が完成し、そして、公開されてそれが明らかになった時の――あの、安堵と怯えがないまぜになったような危険な快感を。
横でデニー・シュートが、
「ぶったまげたな!」
と叫んだ。口調ほどには表情の筋肉を動かしていなかったが、おそらく彼の性格と立場がそうさせているだけのことで、内心では存分に驚いているのだろうとゼニアは思った。彼の部下達も概ね似たようなものだった。懲罰的な十八人に至っては、あの女分隊長を除けばあんぐりと口を開けたまま、塞ぐ手立てを見つけられないでいた。
「そんなことねえだろう! 俺は最初からこのつもりだったぜ!」
とフブキが言い返す。デニー・シュートは笑った。
「ここまでの大勝ちとはな!」
実際、ゼニアもこうして目の当たりにするまでは、随分と気を揉んでいた。フブキの強大な能力それ自体を疑っていたわけではないが、何かの拍子に出し抜かれるようなことは十分ありえた。今回はどうやら、せっかちさまで敵に回さず済んだようである。
よく見れば、フブキが乗っかっているもの以外にも、いくつか荷車が捨て置かれている。ひとまず合流して、ゼニアはマウジーから降りた。
「言いつけ通り、ひっくり返さなかったわね」
「もちろん。……いや、正直言うと何度か空気をぶち当てそうになりましたが、まあ、結果はこうですし、早いとこかっぱらいましょう。これでメイヘムまでもつはずです」
目論見通り、補給、というよりは強奪するだけの物資を向こうから運んできてくれた。こちらより大きな規模の部隊であったことは幸いである。
「結局向こうは何匹いたの?」
「えーと、三百と三十七、ですね。正確に、三百と三十七、でした」
それならなんとか足りるだろう、とゼニアは思った。片道分は減らしているはずだが、こちらは自分達も入れて百六十四――いくらエルフが少食だからといって、必要最低限しか積んでこなかったわけではないだろうし、馬の分を勘定に入れても全然間に合わないということはあるまい。それに、どうせ向こうへ到着すれば、のんびり食事をしている暇などなくなる。
「殿下、そのへんに転がっているものを部下達に拾わせても?」
同じく馬から降りながら、デニー・シュートがそう訊ねた。
「そうね。どうせこれらの分配に時間がかかることだし――邪魔にならないものだけを、私がいいと言うまでは、漁ってよし。ただし、揉めたら竦み拳で決着をつけること」
竦み拳とは、三種類の指の出し方によって勝敗を決める拳遊びである。人差し指を蛇、親指を蛙、小指を蛞蝓の三竦みに見立てている。蛇は蛙を一飲みにし、蛙は蛞蝓を舌で取り、蛞蝓は蛇の毒が効かず粘液で溶かしてしまう。実際にはそのようなことは起こらず、ゼニアは蛞蝓を食う蛇がいることまで知っているが、古くからの迷信というものは強固であるし、代わりの三竦みを考案したところで簡単に広まるわけでもないだろう。
これについて、虫拳と全く同じだ、とフブキは言っていた。彼のいた国にも同様の遊びがあったようだ。尤も、今はジャンケンという別の三竦みに取って代わられているらしく、人差し指と中指の二本で鋏、握ったままで石、開いて紙、鋏は石を切れず、石は紙に包み込まれ、紙は鋏に切られる。しかし、石が紙を裂いてしまうこともあるのではないか、と問えば、実は私もそう思います、とフブキは答えるのだった。代わりに、彼は竦み拳の起源はもしかしてディーン皇国にあるのではないか、と質問してきたが、ゼニアはそんなことを気にしたこともなかった。学者連中にも知っている者がいるかどうか――。
「よーし、野郎共! 殿下が仰られた通りだ、細かいものだけ拾ってよし!」
デニー隊はそれぞれが嬉々として死体を漁り始めた。あまり行儀がいいとは言えないが、今更エルフ相手に行儀など気にしても詮無きことではあるし、ここまでよく付いて来てくれた彼らの士気をいくらかでも減らさずに済むのなら、少々のタイムロスでも釣り合う。それに、
「これからのことですが、姫様」
荷車に腰かけ、おそるおそるデニー隊の真似を始めた十八人を眺めながら、フブキは言った。
「本当はこのまま止まらずにメイヘムまで突き進みたいところですが、申し訳ありません、休息が必要です。おそらくこの結果は向こうに筒抜けでしょうから……それなりの手を打たれると、一掃できるほどの魔力が足りるかどうか」
「これだけ暴れることができたのに?」
「向こうで竜巻出せるほど、元気残っちゃいないぜ」
これでもフブキは自分を抑えている。それがゼニアにはわかっていた。かつて彼を使役した男達がメイヘムにいる。しかし、その男達が逃げ出さずに残るとは限らないのだ。これで奥へ引っ込まれたら、引き摺り出すのに一体どれだけの労力がかかるというのだろう……これまでの比ではないことは確かだ。今回のことは、もしかしたらもう二度とないチャンスかもしれない。いや、そうに違いない。本当は――そう、自分で言っている通り、本当はフブキが誰よりも休まずに先へ進みたいと考えている。
だが、だからこそ、仕損じないために、フブキは敢えてこう言うのだ。
「頼むから一晩寝かせてくれ」
頷いて、ゼニアは付け加えた。
「ここから離れたところでね。臭くってたまらないわ」
~
戦力比など考えるのも馬鹿らしいような布陣だった。
俺達はメイヘムを防衛するべく壁の外へ出てきたマーレタリア軍と対峙していた。
二千四百、といったところだろう。
なんとも微妙な塩梅だ。こちらの実に十五倍近い数ではあるが、魔法戦力がそれほど残っているとは思えないし、本来ならこの三倍か四倍が防衛戦力として詰めていたはずだ――と姫様は語った。確かに、たかだか百五十を超えた程度の部隊にぶつけるには、二千四百はあまりにも多すぎる。しかし、向こうはもう俺の魔法を知っている。おそらく今目の前に広がっているのは時間を稼ぐための部隊で、残りは衆民を引率するため、あるいは後方へ引き揚げるため既に動いている。街を囲む壁の上で矢筒を担いでいる分も足せば、一応、三千を越えはするだろうが、彼らはどちらにしろ運がない。
本隊がいなければこんなものだろうか。まあ、エルフ、というよりマーレタリアがまだ本気でこちらを相手しようとする前だからこそ、こうやって付け入る隙が発生したわけだが。
「――ナメすぎなんだよな」
「何か言った?」
「いえ。……そろそろ始めますけど、大丈夫ですか、姫様」
「問題ないわ。予定通りにやりなさい。多少のことなら、私達は自分で切り抜けられる。あなたは必ず目当てのエルフを捕捉すること。いい? それが最優先事項よ。途中で私に矢が刺さろうが、見失おうが――絶対に目的から外れないで」
「……いや、まあ、そこまで心配しちゃいないさ。あんた自分で自分の体を戻せるもんな。それより俺が無事に戻って来られるかどうかの方を心配してくれ」
「そうするわ」
俺は風のマイクを少し応用して、姫様の口元まで持っていった。
「どうぞ」
『――あー、あー、これは当方の声明が届いているかの簡単な試験である。本日は晴天なり、なれど風向き悪し。聞こえている場合、鏑矢を上げられたし』
ちょっと遠かったので音はよくわからなかったが、後方から放たれた一本の矢が安全な方向へ飛んでいったのは確認できた。姫様は続けた。
『マーレタリア軍メイヘム防衛部隊へ告ぐ。こちらはセーラム王国軍副司令、ゼニア・ルミノアである。当方の擁する魔法戦力はそちらを上回っている。よって、これ以上の戦闘行動は無意味である。繰り返す。戦闘行動は無意味である。おとなしく投降するならよし、だが、抵抗すれば必ずやその身に天災が降りかかるであろう。十まで数える。投降の意志があるならば、もう一度だけ鏑矢を上げること。一つ!』
まあ、そう言われてホイホイと投降できるわけもなく、
『二つ! 三つ! 四つ!』
今や殿と化してしまった部隊は、壁上の弓兵から後列の弓騎兵に至るまで、指揮官の号令のもと一斉に矢を番えた。
『五つ! 六つ!』
「総員抜剣!」
デニー・シュートの号令と共に、俺以外の味方は鞘から得物を取り出した。
『七つ! 八つ!』
姫様も隕鉄の剣を抜いた。
『九つ!』
ざ、と青空いっぱいに、細長く伸びた無数の影が放たれて、
「と――つ撃!」
それらは俺達へと届く遥か手前で、暴風に叩き落された。
キップを走らせると同時に、俺はさらに強く魔力を練り込んだ。手綱から腕を離し、大きく広げる。しばらくは好きにさせて構わない。
この先にあの二匹がいる――レギウスと、マイエルが。そう信じ込むだけで、
風が、渦を巻いた。
エルフ達の両側で急速に発達したそれは、最初、ほとんど見えない力だった。だが俺の手の動きに合わせて進むうち、ぐんぐんと目に見えるようになってきた――地面を巻き込み始めて、茶色く染まったのだ。そうすると、彼らも認識せざるをえない。自分達が、二つの竜巻に挟まれていることを。
だが、気付いてからでは遅かった。
俺はラヴェルの『ボレロ』を吹き始めた。
そして、竜巻は口笛に従っているかのように、ゆっくりと……エルフ達を挟み込んだ。
命令を変える間もなかったのではないだろうか。懸命に走り続けていた騎馬軍団はいつしか地を踏むことが叶わなくなり、乗り手、馬共々が、天へと螺旋を描きながら吸い込まれていった。
中には火球を放ったり土壁を建てたりする魔法使い達もいたが、それは抵抗にはなっていなかった。あるいは、自分も魔法が使えるのだから何かしなければ、と思った時にはもう宙を舞っていたのかもしれない。かろうじて何匹かの風魔法使いが、自分の風を纏って竜巻から脱出したかのように見えたが、すぐに力が抜けて再び竜巻へと引き込まれてしまった。その時、本当に、有力な人材はそっくり引き揚げてしまったんだな――と実感した。
そして、奴ら二匹が有力かどうか、議論の余地があるとも思った。
焦りが募る。
前方の障害がすっかりなくなってしまうと、俺は再び竜巻を二つに分けて、それぞれ別方向から壁をなぞらせることにした。まだまだそこで元気にしている弓兵がいくらでもいたし、壁の内側でも最終防衛線(どこなんだか)を守るべく決死隊が待ち構えているに違いなかったからだ。忘れるなかれ、手勢は軽装の百六十二名のみ……ちょっとそれより多くの数をぶつけられたら、一巻の終わりなのは変わらない。
だが、俺は本当に姫様の心配はしちゃいないんだ。
要は、心配いらなくなるまで敵を減らせばいいわけだからな。
竜巻が壁に穴を空けるかまではわからない。
でも、壁の門は風パンチすれば開くだろう。
口笛は吹き終わった。
「よーし……キップ、お前にはここで飼い葉を食べているだけの栄誉ある仕事をやろう。ちょっとヤボ用を済ませてくるから、おとなしく待ってろよ」
この食いしん坊が文句を言うはずもなかった。
結局、俺達は真正面から突入した。
竜巻をぐるっと半周づつ走らせ終わってから、開け胡麻と唱えて門を吹き飛ばした。予定通り――そう、あまりにも予定通りな交戦が数回あって、俺は気持ちばかりが先走り、たくさんの血煙を作った。せっかく回復したはずの魔力がモリモリ減っていくのがわかった。
『最早その長耳達は主ではない! 我々は戻ってきた! セーラムはここへ戻ってきた! 我々が解放する! そして、解放された諸君がさらなる解放を担うのだ!』
こんな調子で、鎖がついているいないに関わらずヒューマン達を煽り、また実際に枷を外して回った。彼らは本当に虐げられていたらしく、自由となればすぐに姫様の言った通り同胞を助け、邪魔するエルフに――武装していようがしていまいが――襲いかかった。止めようと思っても、もう止まらないだろう。
あの二匹は見つからなかった。
後は姫様に任せれば上手くやってくれるだろう。万が一魔法戦になっても、少なくとも旗印である姫様は生き残る。彼女を害せる実力者は残っちゃいない。
それで十分だった。
それで、別れた後、丁度いいところに厩舎を見つけ、キップを繋いだというわけだ。
木を隠すなら森の中――おそらく見捨てられたのであろう馬達が、この騒ぎに逃げようとするでもなく尻尾を振っていた。
ここからが本題だ。
俺は風で飛び上がって、空から街全体を見渡した。
ひどい有様だった。来る前から闘技場が壊れたままなのはなんとなくわかっていたが、実は壁に空いた穴の修復も済んではいなかったらしい――正面からでは見えなかっただけだ。どうやらあの時、俺はまるで見当違いな方向へ逃げていたらしい。視力検査で言ったら左斜め上を指す。結果的にはなんとかなってしまったが、一歩間違えれば、そう、例えば力の振り絞り方を間違えてあの谷を飛び越したりしてしまっていたら、何もかもが変わっていただろう。その時何が正しく、後に良い方向へ作用するかなど、追い詰められた立場ではわからないものだ。
眼下のあちこちで衝突が起こっている。ヒューマンの抵抗は激しいが数で負けている――かと思えばそうでもなく、兵士を囲んでやり込めている現場も散見された。
その理由はすぐにわかった。
驚いたことに、まだ遠くにエルフの一団が見えている。
この土壇場まで、彼らは出発していなかったのだ。
魔法部隊との戦闘からかなり時間が経ったはずだが――相当揉めたと見える。
それで一気に方針が定まった。もしあの中にレギウスとマイエルがいても、すぐに追いつける。確かめるのは後回しでいい。俺は街の中心に急降下して、音を拾うことにした――ああ、わかってる、こんな時だから非常にうるさいよ。おまけにダサいポーズでさ……でも、俺にとってはこれが一番効率のいい方法なんだ。
カチ割ってやる、あっちに逃げたぞ、貴様らこれまで食わせてやった恩を、母さん、野郎のやったことをそっくりそのままお返しして、痛いぃ、頭ん中ってこうなってるのか、あたしは取り返したいだけ、うろたえるな一匹づつ潰すんだ、借りたものを返すだけさ、前から一度やってみたかったんだ、誰か右腕、俺もさエルフってのはそっちの方もお高くとまってんのかって、なんなんだこいつら、ほら自分の指の味だぜ、母さん、エレーナだめだ帰れそうにない、耳がこんなに長い必要はねえよなあ、外の連中で無事なやつは、あの距離から届くものなのか、これでかすり傷でも治らないって寸法よ、助けてください命だけは命だけはどうか降参だ、奴隷は所詮奴隷、母さん、付き合ってられねえよ、やっとだ、どうだろうそれは、帰れるんだ、鞭ってのはいいよなあ、おいもうそのへんに、やだああああああいやだあああいや、一体俺達が今までどんな気持ちでいたと、足りねえまだまだ殺せるよ俺は、お母さん、どこいったもっとよく探せ、帰りたい、なんだこりゃおかしいよ冗談じゃねえやってられるか、見えない、あああなんでこんな、あなた、やめてお願い、いやそれは考えづらいよだってもしそうだとしたらこういう事態にはならないはずだろう、いい格好じゃねえか、よーしこっちは片付いた、助けなきゃ、そうだこんな上等なものはもう着なくったっていいんだよ、自由だ、くっそこいつ噛みやが、今のうち、おういこっちにいいのがいるぜ、持てるだけ持って、夢だよ、折れちまった、ああーダメダメそういう顔されたら余計、いいぞ、くたばれ、まだ穴を空け足りねえんだ、もっとできるはずだ、あっちに合流しよう、こんなことしてていいのかな、一匹でも多く、そんな、黙らせろ、大丈夫さちょっと殴ったくらいで死なないのは実体験でわかってるわけだし、そこまでだ、見ろよこいつら、もっとよく舐めろよ、駄目だなまだ可愛げがある何も言えなくなるまで、もっとだ、どこにいったの、絶対にそんなこと、それは無理だ、よせ無駄だ、いや、これであんたもめでたく、そんなのいや、早くしろ、ここに隠れていて、母さん、「お前が先に行くんだ、マイエル」
レギウス・ステラングレの声だった。
かなり近い。しかし、方向がよく、
――もしや、と思って、俺は石畳に這いつくばり、耳を近づけた。
初めてあのポーズを取らずに、耳に風を入れていた。




