15-9 もう一つの決着
耳ではなく、マイエルは自らの正気を疑った。
元から精神の均衡が保たれる理由など無かった。僅かに残った思い出の残滓が、幻聴を引き起こしたと考える方が自然だった。
レギウスは――あの日、マイエルと共に来ることを拒否したはずだ。
今更、何の理由があって訪ねてくる? ありえないことだった。
「確かにそう名乗ったのか」
「はい。レギウス・ステラングレと」
帰ってもらえ、と言うのに多大な勇気を要する。
そして、マイエルは最終的にはそれを集めきることができなかった。
「客間に待たせておけ」
そこへレギウスを通し終わったと告げられても、しばらく向かう気になれず、マイエルは自室を行ったり来たりした。困惑しかなかった。何かの間違いだろうという考えを頭から振り払うことができなかった。
一方で、こうも思った。
それでも、もう一度だけ、友と会えるなら――。
衝き動かされて足を運ぶと、レギウスは当たり前のようにそこにいた。
入ってきたマイエルを一瞥し、そのまま悠然と構えている。
挨拶するでもなく、待たされたことに文句を言うでもなく、ただ黙ってそこにいる。
マイエルは――しかし、マイエルの方も衝撃で動くことができなかった。
意外だった。本当にレギウスがそこにいるのが……。
当然何か別の展開が用意されていること前提で、一縷の望みに賭けるような思いでやってきたというのに、独り、ぽつんとレギウスが待っていた。
この事態にどう対処するべきか、マイエルはまったくわからなかった。
あらかじめ何をしようと決めてきたわけでもない。直面した状況にその場で対処する以外、方策はないという心構えだったが、いざ最もありえなかったであろう状況を提示されてみると、頭が真っ白になってしまった。
仕方なく、自分も椅子に座った。
ほとんどの召使いに暇を出してしまったせいか、応接室は全体的に薄く埃が積もっていた。考えてみれば、誰か入れるのも久々のことだ。最低限の要請以外は付き合いを断っていたし、その最低限にもこちらから出向くようにしていた。
レギウスからは何も促す気が無いようだった。
マイエルも、できれば自分から状況を動かしたくはなかったが、このまま永遠に睨み合っていても耐え難い沈黙が続くだけだ。
「何か喋ってくれ」
レギウスは素直に口を開いた。
「お前の喜ぶようなことは何もないよ」
「……それでもいい」
「本当にそうか?」
先にマイエルの方が返答に詰まってしまった。本当のところは、このレギウスから一体どのような悪い知らせがもたらされるのか恐れているのだった。
誤魔化すかのようにマイエルは言う。
「ギルダは死んだぞ」
かすかにだが、レギウスが怯んだように見えた。
「奴が殺したんだ」
「わかってる……」
何がわかっているというのか。何が彼女の死をうやむやにできるというのか。
「ヒューマンが、ここまで来たんだな」
「そうだ」
あっさりと肯定され、マイエルはいよいよ逃げ場がないことを悟った。
ここからさらにどこかへ落ち延びられるというような自信は、マイエルにはもうなかった。
「攻めてきたにしては静かだ」
「大軍じゃなければこんなもんさ」
「なるほど、確かに……それほど数を差し向ける必要もないのか。こちらはろくに抵抗もできんだろうしな。マーレタリアを再興しようと息巻いていた連中も、今はどれだけが残っているか……」
「そういう意味じゃないが、まあいい、見た方が早いだろう。ついてこい」
マイエルがレギウスを追って外に出ると、庭に見慣れぬ影があった。
屋敷へ背を向け、風に吹かれながら草地で佇む者がいる。
その男は興味深げに鐘の多い街並みを眺めているようであった。
わざと継ぎ接ぎしたような奇妙な服装――。
こちらに気付き、ゆっくりと振り返る。
「よう……」
94番であった。
「結構よさそうな土地だな」
まだ何もされていないが、マイエルは急速に寿命が尽きていくのを感じていた。
レギウスがやってきた時点でわかっているはずだった。外からわざわざこんな所までマイエルを訪ねに来るヒューマンは、この男をおいて他にはいない。
だというのに、94番は――フブキは、マイエルを前にしても穏やかな雰囲気を崩さなかった。戦争に勝利し、ようやくマイエルを直接その手にかける機会が巡ってきたはずだが、急ぐような素振りは微塵もない。
この男にしてみれば、待ちわびた瞬間のはずだが――。
「そう固くなるなよ、今日はただの偵察だ」
そうした疑念すらも見透かしてくるような、余裕たっぷりの態度である。
「野営地は少し離れたところに作った。明朝に占領を始める予定だ。それまではこの街は平和そのものだろうよ」
「私を殺すのか。それとも……虜囚にするつもりか」
振り絞るように出した声は掠れていた。
「展開次第だな」
まるで助かる道があるかのように聞こえた自分が憎い。
戦場で見せるような激しさはないものの、フブキの視線には情けの欠片も見当たらなかった。やはりそうだ。生殺与奪を完全に握っているから焦る必要がないだけで、マイエルがここで破滅する運命はもう決まっているのだろう。
「俺達だけ先に来たのは、まあ、何というか――お前との因縁はごく個人的なものだから、先に済ませておこうと思っただけだ。明日の作戦に支障が出ても困るしな」
フブキは少し決まりが悪そうだった。
種族間の闘争に嫌というほど関わりきった今となっては、マイエル達のこの関係は、少々滑稽なくらいにちっぽけなことかもしれなかった。それに拘泥する様を味方にどう思われるかということを、フブキは気にしているのか。
できればそのまま恥じて忘れてほしいところだが、そうはいかなかったからこそ、このような顛末になったとも言える。
「さて、そんじゃあ早速やってもらうか」
感じていた違和感の正体は、落ち着き払ったフブキの態度だけではなかった。
風魔法を極めたこの男には不似合いな、刃渡りそこそこの鞘付きの剣が、肩から紐で下げられていた。フブキはそれを手に取ると、マイエルの方へ放り投げた。
これが何を意味するのかわからない。
「な、何をだ……?」
「ん? 聞いてないのか?」
「さっぱりだ。この期に及んで、何をさせたい?」
フブキは舌打ちし、レギウスの方を向いた。
「おいステラングレ卿、何のためにお前を先にやったと思ってる。こっちでグダグダやられても嫌だから、ちゃんと打ち合わせしてから連れて来いって言ったよな?」
「は、申し訳ありません……」
「おいマイエル、今からお前はこいつと殺し合いだ」
「――何?」
別に信じ込んでいたというわけではないが、フブキの最終目的は、エルフ民族が滅びる様子をレギウスとマイエルに見届けさせることでもあったはずだ。
「私達の両方を手元に置く気は、なくなったようだな……」
「そのつもりだったがな、こいつがすっかり腑抜けちまったもんだから、それほどいいアイデアじゃなくなった。知ってるか? 最近のステラングレ卿は、エルフは滅ぶべくして滅んだとか言い出しやがって、慧眼だよな」
クソ面白くもないといった口調でフブキは吐き捨てた。
「笑えるぜ。目の前でいくら殺しても、何とも思わないみたいな顔しやがる。捕まえてきた餓鬼を十匹ほど一気に殺しても全然平気なんだから、恐れ入るよほんとに……。そういうわけで、趣向を変えることにした」
「それで、私とレギウスを殺し合わせようというのか……!?」
「そうとも、少しは顔色変えるかもしれないと思ってな。お前達がかつて俺にさせたような、ちょっとした余興だ。生き残った方の寿命を保証する」
「では、打ち合わせというのは――!」
「温情だよ、マイエル・アーデベス卿。余興といっても、俺の思い通りになるとは限らん……。生き残りを賭けて戦ってもらうのが一番いいが、自分の命を捧げることで相手を生かしたいという向きもあるかもしれないからな。そのくらいは当事者同士で話し合って決められるようにとレギウスを使いにやったのが、呆れたもんだ。折角、気を利かせてふたりきりの時間を設けたのに、別れの挨拶すら済ませてやがらねえとは……」
最早、マイエルは、屈辱を通り越して切なささえ感じていた。
復讐対象の価値観を変えただけでは満足することができず、何としても苦悩させなければ自らの怒りに落とし前をつけられない、この歪んだヒューマンの末路。
「まあ、お前等のことだ、奇妙な友情で決着がつくならそれでもいいさ。だが、その時はきっちり相手の首を切り取ってもらう。それがせめてもの、俺に対する証明だ」
剣はそのために用意されたものと見ていいだろう。
「終わったという証明をしろ」
マイエルは、レギウスを見た。
レギウスはどういうつもりでいるのだろうか。何故、応接室でこの話をしなかったのか。このままマイエルと殺し合いを始めるのか。それとも無抵抗に首を差し出してくるのか。あるいは、自分を生かしてくれと頼み込んで来るか。
「質問し忘れたことがあります」
レギウスはフブキに言った。
「どちらも生き延びたいという意志があり、なおかつ相手を殺したくないという願いも同様である場合は、何としますか?」
「そうだな、俺から手を下すのは癪だが、その時は比較的つまらない方……つまりレギウス、お前だ。お前を消して、マイエルにはそのことを後悔してもらうとしようか。お前を取り戻せなかったことに未練もまだありそうだからな……。そういう意味では、生存だけを考えるならマイエルの方が有利だな。さあ、どうする」
どうするもこうするもなかった。
決定などできるわけがない。マイエルは、自分が死の恐怖から逃れらないことを知っているし、レギウスのことを救いたいという気持ちもまだある。
だが、消極的な態度を見せ続ければ、間違いなくフブキはレギウスをこの場で殺すだろう。マイエルがそれで苦しむということも当たっている。
――どうすれば、いいのか。
「じゃあ、仕方ない……」
そう言って先に動いたのはレギウスだった。
すたすたと歩いて剣を拾い上げようとしたレギウスの動作を見た瞬間、マイエルの迷いが生存本能に負けた。
自分でもまだこれだけの意志が残っていたのかと驚くほどに、マイエルは俊敏な動きで地面の上の剣を蹴り飛ばした。未だ鞘に入ったままのそれは、滑るようにしてレギウスの手元から離れていく。レギウスはマイエルをちらと見て、
「――その気はあるらしいな」
レギウスもまた、フブキと同じように焦るような素振りは見せない。
狂った提案を受け入れていた。
彼が友情を忘れたとは思わない。だが、長すぎた捕虜生活が、レギウスを壊してしまったことに関しては、マイエルは確信めいたものを持っていた。
「やるのはいいが……ケンカで俺に勝てると思ってんのか?」
無理だ。マイエルにも多少、武の心得はあるが、あくまでも多少のものにすぎない。
レギウスは相手が悪かったのと、魔法が戦闘向きではないだけで、実力はそこら辺にいた戦士の比ではない。
しかし、マイエルの方も、即死さえしなければ治癒魔法で持ち直すことは可能だ。
フブキは自信ありげだが、果たしてそもそも、決着がつく勝負なのだろうか?
それとも、延々と終わらない殺し合いを日暮れまで観戦するつもりなのだろうか?
レギウスはゆるりと、徒手でありながら構えを取った。じりじりと足を運んでくる。マイエルは、先程は咄嗟に身体が動いたが、今はまた迷いに縛られている。
マイエルには感知できないタイミングを掴み、レギウスは一足に距離を詰めてきた。交互に突き出してきた拳は陽動で、本命は振り上げた脚の――蹴り落とし。だが気付いた時には、マイエルはそれをかろうじて受けるしかなくなっていた。あまりに速い。さらに悪いことに、この一発で完全に両腕が痺れる。それほどの重さがあった。
離れ際、レギウスはマイエルの脚にも蹴りを入れ、丁寧に潰した。
完全に動きを止められたところで、側転と宙返りを駆使して素早く剣の飛ばされた場所まで到達する。拾い上げ、抜き放つ。
マイエルはすぐに治癒魔法で調子を取り戻したが――、
「詰みだ。さすがに得物ありなら治療の隙はやれねえな……」
おそらくその通りだった。剣を持ったレギウスなら、マイエルの魔法より遥かに素早く急所を破壊するだろう。その時にはもう、魔法を行使する能力など残るまい。
「――わかった。私の負けだ。一思いにやってくれ」
これでも死に方としては、本来望めなかったほどまともなものに思えた。
無念だが、レギウスの手にかかることは僅かながら慰めだった。
マイエルは最後の光景を目に焼きつけてから目を閉じた。
一瞬の間があり、非常に短く連続した小さな足音、次いで剣が身体の一部を貫く。
喉だった。苦痛と、破れて流れ出した血が呼吸器を塞ぐ異物感。
だが、
――だが、これだとマイエルは、即死しない。
それで、死ぬ覚悟に対し強烈な疑問が投げかけられた。それは魔法の行使となって首周りの治癒を開始した。と同時に、まったく本能的な動作が、対面したレギウスの首を両手で掴ませた。今やそれが可能な位置に両者がいた。おそらく首をやられたことに対し反射的に首を絞めることでやり返しているのだと思うが判然としない。
自分のものとは思えない握力。
頭のどこか片隅で、やめろ、と言っている自分の声が聞こえるが全身の筋肉は全く弛緩する気配を見せない。魔法も調子よく傷を消し去りどちらかといえばレギウスの首が剣を捕まえたような格好となる。それほどまでに深々と突き刺さっていた。
レギウスは、もがくが、剣の柄から手を離しても、もうマイエルの手から逃れることができない。爪を立ててマイエルの腕を引き剥がそうとするが腕はその一から微動だにしない。全身を仰け反らせ、脚を地面のあちこちに立てて体勢を崩そうとするが、上に乗ったマイエルをほんの少し持ち上げるだけで状態は変わらない。
互いにほとんど呼吸しないまま時間が過ぎていく。
レギウスの方が先に限界を迎えた。
目の焦点が溶け去り、抵抗が弱まる。マイエルは、どこにそんな力が残っているのかもわからないまま絞めつけを強くしていく。
さらに時が経過する。
最後の瞬間の少し手前で、マイエルはレギウスの唇が動いたのを見た。
それは紛れもなく、生きろ、と言っていたが、全てが終わるまでマイエルにそれを検討する余裕は生まれない。
レギウスの絶命を確認した後、マイエルは喉の剣を引き抜いた。衝撃で死ぬかと思ったが死なない。魔法が完全に傷も癒す……。
呼吸が戻ってくる。視界が明瞭になり、思考がマイエルの手元に戻ってくる。
生きている歓び。
直後に、自分が何をしたのか、現実感が湧いてきた。
「レギウス……?」
転がっている遺体へ治癒魔法をかけるが、死者を蘇らせるものでは決してない。
それが決着となった。
マイエルは友を殺して生き延びた。
そうさせるように仕向けてくれたのかもしれない、友を。
その事実が、また一つ重しとなって、マイエルの業に加えられた。
「おめでとう。複雑に絡み合った糸がほどけたような気分だ。こうなるとは思わなかった……お前の命を約束しよう、マイエル。最後のエルフになるのは今日から、お前だ。何百年と悔いを残し続けるがいい」
フブキが何か言っているが、一語も意味を解することができない。
マイエルは自らが創出したこの現実を解することができない。
おそらく、この先もずっと。




