15-8 何故生きているのか?
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見届けるべきなのではないか、という気がしないでもなかった。
しかし最終的に、マイエルはシンが旧都で討ち取られたことを、遠く離れた自領ファムルクで知ることになった。その報に驚くことはなかった。彼の分身がすべて、きれいに、残らず掃除されたというのも、どこか、それで当たり前のように思えた。
もうどうでもよくなっていたのだった。
分身が一体ずつ処理されていくことと、一挙に処理されていくことに何の違いがあるのかもよくわからなかった。その差がマイエルの中で価値を持つ段階はとうに過ぎ去っていた。
シンは敗れたのだ。
これでギルダの遺したものも全て消えたことになる。
マイエルは、自分が本当の意味で負けた、と悟る以外に、できることがなかった。
しかしながら、本格的な破滅までには、今しばらくの時間を要した。
ファムルクは、首都陥落後に予想される第一次掃討ルートからは、やや外れていた。だからこそディーダは数少ない手勢と、一縷の望みに賭けた同胞を引き連れ、長旅を経てここまで逃げ込む覚悟を決めたのだった。荒らされきった国土の中で、他に比較的無事と言えるような地域も思いつかなかった。
だが、片田舎に何の設備があるわけでもなし、再起という目標はたちまち高すぎる壁に阻まれることとなった。
物流すら破壊され尽くした現在では、故郷は自給で賄うのがやっとの土地に成り下がっていた。そんな状況だから避難民を歓迎する動きもなく、むしろ瀬戸際で秩序を保っていた共同体に、大量の不和の種が持ち込まれたのだった。
日毎、長雨を凌ぐための屋根だとか、一週間ぶりの食事だとか、そういった切実な理由で争いが繰り広げられた。元から重度の負傷者や各地を転々とした古参難民まで抱えているような集団だったこともあり、命を落とすエルフも現れた。
はっきり言ってしまえば、誰もが今日をも知れぬような状態では、味方が味方になりえない。いつか反撃の狼煙を上げるためには誰も失うわけにはいかないはずなのに、本音はものを食う口が減って喜ばしいというような、そんな惨状であった。
だがそれら嘆かわしい現実も、最早マイエルの心を揺り動かすことはなかった。
なるべくしてなった。今は素直にそう思える。
それに、最後の最後に訪れるであろう破滅の前では、この程度の諍いなど、何ら情動に訴えかけてくるものではなかった。
結局、季節がもう一巡りするまでにマイエルの注意を引いた出来事は二つのみで、それは清貧を貫いた父ガイエルが餓死という極限に至ったこと、そしてジェリー・ディーダの事故死だった。
父の死は読んで字の如くだが、ディーダの死に関しては少々複雑な経緯がある。
その頃既にマイエルは同胞が抱える事情からは興味を失っていたため、実際のところどうだったのかは判然としないのだが、確か一応、この末期状態にあっても、ディーダの手下を中心とした何名かは、もう存在しないはずのマーレタリア軍が巻き返すことをどうにか信じながら日々をやり過ごしていた節がある。
しかし、いつまでも現実との齟齬に目を向けぬままではいられない。当座の回復のみを命じられていた兵士達は、地元民と避難民の対立が小康状態になった時を見計らって、ディーダに相談を持ちかけた。
ここにいたままでは、ヒューマンの手から逃れることはできても、再起を図ることは事実上不可能。自衛すらままならないのでは不安も募る。残るにしろ、離れるにしろ、何か目に見える形で手を打つ時期が来たように思われるが、如何か?
――貴方の決定ならば、我らは従います云々。
ディーダの返事はこうだった。
ならん。俺はここに根を張るつもりだ。大きな行動を起こすつもりもない。
その時、ディーダがどういう説明を加えたかについては未だに証言が統一されておらず、どれが有力かというのもわからないままである。
力を蓄えるためにはエルフの寿命をもってしても何代もかかるから当代の俺達は諦めるしかない、とか、自力でここまで合流してくる同胞勢力が現れない限り動く利点が存在しないから動かない、とか、どれもディーダが言いそうな内容ではあった。
問題は、理由を賜った後、それを聞いた信奉者達の間で意見が割れたことだった。
素直に飲み込むべきか、はたまた身の振り方を考えるべきかどうなのか。
それは錆びついていた武器を互いに持ち出すほどの大喧嘩へと発展した。
ディーダは、これを収めようとしたようだが、失敗した。
止めてくれと誰かに呼ばれたのか、責任を感じ進んで現場へ急行したのか。
それすらわからない。
仲裁するにしても、何故刃を受ける位置にまで移動したのか。
これもわからない。
気が付いたら、そこにいたという。
少なくとも、乞われたマイエルが駆けつけた頃には、ディーダは事切れていた。
床へ大の字にうつ伏せになって、彼を中心に血の池ができていた。
そういう、普通の死に様だった。
ディーダは賢者の中では超然としている方だったし、ある意味殺しても死なないような雰囲気があって、だからこれは鈍くなったマイエルにも十分な驚きをもたらした。
衝撃でもあった。そこまで親しい間柄でもなかったが、そうだった。自問して辿り着いた答えとしては、おそらくマイエルは、その中年エルフをいくらか尊敬していたのだった。死んで初めてそれに気が付いた。
結果こそ伴わなかったが、何だかんだで真摯だったのはこの男だけではなかったか。手を尽くしたというのか……逃げ出さずに、目を背けずに取り組んでいたのは、振り返ってみるとこの男だけだったような気がしてならない。
とっくに降りてもいいような戦争だった。翻弄されている素振りも見せず翻弄された、奇妙な男――彼をここまで働かせたものの正体を知っていれば、不思議に思うこともなかったのだろうか? 全てはわからず終いである。
何か起死回生の案を抱えていたのかどうかも、もう、知る手立てはない。
そこへいくと、学長でなくなったバーフェイズ学長などは、尊敬に足るエルフとしてマイエルの目に映ることはなくなった。
ディーダが死んだ少し後で、老エルフはファムルクから単身離れた。
何かもっともらしい理由を述べていたような気がするが、マイエルは何も憶えていない。途中から耳を塞いだからだ。はっきりしているのは、自分が次に殺される番と考えたためにバーフェイズは去ったということだけである。精神魔法も使えないのに、マイエルはそれが手に取るようにわかった――老いたあのエルフは、ディーダが怒れる民衆の不満によって殺されたと固く信じているようだった。
このどうしようもない状況、マーレタリアの舵取りをしてきた賢者が責任を取るべきだ――と民衆は誤解している。国のために知恵を絞ってきた賢者は、尊敬されこそすれ非難される謂れはなく、従って命を取るなど言語道断。責任の所在を知識階級に求めるなど筋違いも甚だしく、むしろ賢者の判断を全うできなかった一般市民一名一名の心構えにこそ原因はあった。だが民草にはそれを考えるための頭脳も、受け入れられる精神も備わっていないため、このような時には賢者の方から進んで身を隠す必要がある。
無念だが仕方のないことだが我輩は彼らを恨みはすまい。
大丈夫、時が来ればまた姿を現すこともできるだろうて。
……表現こそ、迂遠を守っていたものの、バーフェイズの論理は大体、以上のようなものであった。実際には何を言っていたか全く憶えていなくても、その意味するところだけは今もこうして組み立てることができた。
あれが本性だったのかもしれないし、誰もが、老いればああなってしまうのかもしれない。
しかしこちらもやはり振り返ってみて、総合的には、バーフェイズ学長はいい協力者と言い切ることは難しかった。
マイエル達を保護する容器を支えてくれたことは間違いなく感謝しているが、老エルフがしたことは、別にそれ以上のものではなかった。
シンが94番に完璧に対抗しうるものではないと知ると、バーフェイズは途端にマイエル達を後押しすることをやめ、傍観者に徹するようになった。シンが魔導院の役に立つわけではないというのも、良くなかったかもしれない。ともかくバーフェイズ学長にとってはマイエル達はそれほど魅力的に映らなくなったし、レギウスのことも、早い段階で諦めてしまったものと見えた。
厳しくなればなるほど、バーフェイズはマイエル達を手放し、成り行きに任せた。
今思うと、老エルフはずっと、保身に走っていただけなのではなかったか。
94番に対策しなければならないことは早い段階から知っていた、だからシンのことは容認した。だがそれが期待通りのものではなかったと知ると、今度は半端なものをもたらした責任の所在がどこへ行くか考えた。
召喚代表の地位をギルダに与えたのも、矛先を逸らすためだったかもしれない。
――おそらく考え過ぎている。
こんなことになってしまって、最も堪えているのはマイエルかもしれない。何故と言って、マイエルがマーレタリアを滅ぼしたようなものだからだ。冷静に考えれば考えるほどそうではないか。レギウスをそそのかして94番をこの世界に招いた。ギルダにヒューマンを召喚させ、戦死させた。そしてその遺産すら狂って災いを撒き散らした。
原因をなぞっていくと、どうしてもマイエルに辿り着く。だが、この事実を完全に認められるほどの器の容量は、残念ながらマイエルにはない。
マイエルこそ誰かに責任を取らせたがっている。
バーフェイズ学長はそれを察知して姿を消したのではあるまいか。
マイエルは一体どうして自分が生かされているのかもよくわかっていなかった。
94番を喚び出したのがマイエルとレギウスの興行であったという事実は、特に隠されていない。あの闘技場から全ては始まった。誰でもその話を知ることができる。
考えてみれば、今まで石を投げられてこなかったのは奇跡に近い。
おそらく生き延びて以降、ずっと多忙だったことがマイエルを結果的に保護したのだろうが、それにしてもマーレタリアの同胞は目が曇っている。
現実はそんなものなのだろうか。
脅威ばかりが目について、その原因が顧みられないのが自然なのか? 対処ばかりが求められて、原因についての問題提起は無視されてきたのか?
だからか?
そんなだからマーレタリアは、エルフは負けたのか?
悪いのは94番だ。
だが、94番を連れてきたのはマイエルだ。
マイエルのようなエルフを生み育てたのは、エルフの社会だ。
マーレタリアという国。
マーレタリアは、それを忘れたままなのか? 今の今まで?
どうしてファムルクという小さな街に押し込められたエルフ達はマイエルを殺そうとしないのか。このような不始末を起こすエルフを絶やそうとしないのか。
自分が役に立つエルフだから? 治癒魔法が使えるからか?
確かにその道の権威ではあるが、それは元凶であることと天秤にかけて勝るほどのことなのか? 今でも彼らは、怪我などあるとマイエルに治癒させる。そして感謝する。形式だけではない。治癒魔法家がいてありがたいと、相応の待遇で生かす。
マイエルは最終的に、わけがわからなくなった。
何に価値があり、何に価値がないのか。
何が守られるべきで、何が消滅させられるべきなのか。
つまるところ、エルフは何を大事に物事を判断しているのか。
そういったことが、何もわからなくなった。
世の道理が全て崩壊する瞬間に直面した後は、ひたすら、自分がいつ殺されるのかに怯えた。何故自分が生かされているのかが全く理解できないので、いつ同胞の気が変わるのかも予測のしようがなかった。
そんなある日のことだった。
必要な時以外は自室にこもりがちなマイエルを、訪ねてくる者があった。
執事のルドヴィーからそのように告げられた時、いつものようにマイエルは、
「また治療か」
と確認した。
「いいえ、それが……」
マイエルは震えた。
ルドヴィーの言い淀む姿は、いかにも凶報を知らせるものであるように思えた。
「誰が……、誰が来たんだ……?」
誰が自分を殺しに来たのか知りたかった。
どうしても、それを先に知らぬまま対面する勇気が湧かなかった。
「答えろ! 誰が来たんだ!?」
ルドヴィーはどう言ったものか悩む様子を見せたが、やがて、
「レギウス、と名乗る方が……」
心臓が一際大きく跳ねる。




