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15-7 決着

 それらは蚊帳や御簾に似ている。


 捕まえた、と思ってすぐに、俺の魔力はシンの脳裏をこじ開け始めていた。自然に、導かれるままに、一人の男の精神世界へ舞い降りると、待ち受けていたのがこの無数のベールだった。


 淡く向こうを見通せる、一枚一枚は薄い防護膜だが、無限に思えるほどの数が重なっているため、通常、持ち主の心根(こころね)(あら)わにすることはないし、異物の侵入を許すこともない。


 しかし、今の俺には、それらを一度に何枚もめくれるだけの能力が付与されていた。


 直接、人の心の中に踏み入るのは初めてのことになる。思考の表層を読み取るのとはまた違って、かなり手続きが具現化されているようである。

 俺自身には、魔法をかけるという意識はあまりない。何かに見立てた行動を取ることで、シンの精神に干渉していくのだろう。


 このベールの先に、奴がいる。まずは会うところからだ。


 空間は天地が決まっており、普通の重力下で動くのと何ら変わりなく過ごせる。床は無いが、俺はしっかりと(くう)を踏んでいた。平らで固い(くう)だ。爪先でコツコツと叩ける。風魔法のおかげという感じはしない。関係なく、こうなのだろう。


 距離が掴めないほど遠くに設定された()()は、絶え間なく流動するシャボン玉の薬液に似ていた。あまり長いこと見つめていたい(ガラ)ではない。


 本来ならば門外漢である俺のために、この陳腐さが現出しているものと思われた。手元のプログラムが、シンの精神を掘り進みやすいよう、起こっていることを自動翻訳してくれているというわけだ。


 俺は両手を使って仕事に取りかかった。めくるというより、かきわけるような作業だった。


 ベールに触れて、取り除こうとするたび、火花のように目の前でイメージが(はじ)けていく。複数枚を引き裂いてやれば、その分だけ映像も重なる。


 おそらく、それら一つ一つを注意深く追いかけていけば、非常に詳細なシンの記憶と体験を閲覧できるものと思われた。何がこの男の思考、感情、性格を構築してきたのか、理解の一助となるのは間違いなかった。


 だが、俺はそんなことには興味がなかった。また、意識して眺めてはいけないものだとも感じていた。


 俺から見て少し未来の時間軸が、どういう価値観の世の中だったか? シンがどういう境遇の人物で、またそれが奴自身にどのような影響を与えたのか? 知るのはとても重要なことだとは思う。思うが――そのどれもが、目を覆いたくなるような結果の裏付けにしかならないのでは、やりきれない。


 過去を(かえり)みてどうこう言える段階は、とうに過ぎ去っている。

 シンがどれだけ恵まれた人間だろうが、どれだけかわいそうな人間だろうが、余計なことをしまくった奴だという評価が俺の中で覆ることはもうないだろう。

 こいつはいきなり現れて散々迷惑を振り撒いた、それだけだ。それでいい。


 だから、敢えて素性を探るようなことはしない。

 下手に見えてしまうと、こんな奴相手でもやりづらくなることはあるだろう。直接覗くとなれば、それは濃い追体験になってしまうからだ。自分のことのように錯覚してしまうとも限らない。万一にでも、共感など引き起こしたくない。


 全てのベールを取り払うと、出てきたのはゴールでもシン自身でもなく、穴だった。


 それは穴だった。


 円柱のものではなく、球体の、光さえ吸い込みそうな穴としてそこに浮かんでいた。


 俺が手を入れると、穴は全身を引き込んだ。時空間移動のそれを思わせる暗黒重力井戸を長い間落ち続けて、やがてゴツゴツした地面に激突する。痛みはない。都合よくそこにはランタンが転がっていて周囲も照らされていて、目に入る物体は全て錠前と鍵穴である。びっしり床に散らばっているというより、錠だけで床が構成されているといった風情……ランタンを上に掲げると、それが天井にまで繋がった状態で続いているのがわかる。落ちてくる直前には存在しなかったはずの天井だ。空間は狭くなっている。


 俺はポケットから鍵束を取り出した。


 一つずつ、律儀に解錠しながら語りかける。


「無駄なことはよせ。タスクの増加は防壁の複雑化とは何の関係もねえぞ。元から時間稼ぎにもならないのに錠前の数だけ増やしてどうする……」


 ()ではまだ俺がシンを掴んでから数秒も経っていないだろう。せいぜいがフィルムで言うところの2コマか3コマ程度――そういう世界でひたすら鍵穴を用意してみても、最初から積もれるような塵じゃない。


 途中で鍵開けに飽き、俺は鍵束の中で最も地味な鍵を掴んだ。他は小さくとも装飾など施されているのに対し、その鍵は少し錆びて薄汚れてさえいた。


「見えるか、こいつはマスターキーだ。ここにある鍵穴全部に刺せるなんてケチなもんじゃねえぞ、一度回したらここにある錠なんか全部外しちまう代物だ。もうこういうもんが用意されてるんだよ……。わかるか、お前がこの先どんなミニゲームを用意したところで、俺は事前に準備された攻略法を使っていくだけなんだぞ。息切れするまで粘ろうったって駄目だ。むしろバテるのはお前の方が先になると思う――賭けてもいいぜ、もちろん命をだが」


 返事はない。


「……あー、いいな? 聞こえてる前提で喋ってるからこのまま続けるが、ここの鍵開けたら、潔く出てくるんだな」


 そして俺は手近な錠にマスターキーを突っ込み、そちらの方を見もせずに回した。

 あたかもそれぞれの機構が連動したかのように、残りも全て、きれいに開錠された。


 潮が引くように金属の塊が排除されていき、後には、嘘のように真っ白く磨き上げられた床だけが残った。あれだけの数の錠前が(こす)ったのにキズ一つ付いていないし、馬鹿馬鹿しいくらい光を反射していない。


 ランタンは何者かを照らす。

 そいつの、脚の……付け根くらいまでが光に曝された時、


「――やめろ、照らすな! オレを裸にするな!」

「お前の心の中でお前が服を着てないのは俺のせいじゃねえよ……」


 一瞬だが全身が目に映った。

 考えてみれば生まれたままの姿を見るのは初めてだったが――それはシンだった。


 奴は光から逃れて、暗闇の中へ溶けていく。


「精神を覗かれる感覚を、お前が勝手に裸にされるもんだと規定してるだけだ。するとアレだな――お前はそういうことをする度に、誰かの心を裸にひん剥いてきたわけだから興味深いよな。常に、そういうもんだとわかっていながら繰り返してきた。魔法をかける相手を少し選んでいたのはそのせいか? マイエルがそうだし、あのなんとかいう女エルフもそうだったんだよな?」

「ギルダの名を出すな……」

「出してない。そういやそんな名前だった」


 もう一度シンを照らす。今度はしっかりと捉えた。

 奴は全身に刺激物を当てられたような反応をした。光が苦しいらしい。


「ああッ、あッ、ぐ、あア――!」


 強烈すぎるショックのために、今度は逃げることさえできていない。地獄だ。


「初めてお前に会って、お前に触られた時、全身を裏返されるような痛みがあった。お前も感じるか」


 シンは身震いし、悶えた。ほとんど痙攣と言ってよかった。


「吐きそうだ」

「俺は吐いたよ。お前はその前に死ぬだろうが」


 このままでは俺の話していることもロクに聞こえないだろう。

 一旦、シンを闇に戻してやる。


「暗い場所の方が楽に感じるのも、お前自身がそう決めているからだ。その程度のイメージだってことだ。もっと別のモチーフでもよかったのに、わざわざ、闇は良くねえもんだ、光はそれを照らし出し(さいな)むもんだと……くだらん。しかし、そうか、痛いか、腹の内をまさぐられんのは。人間、やられてみないとわからないことがあるよな……」

「――あんたの中にいた奴は、もっとスマートなやり口だった」

「ああ、それは仕方がないんだ。俺は才能ないからな。魔法を引き継がせるにあたってなんというか、その……デチューンされてる。それで色々乱暴になってるんだろう」

「嘘だ! これは、この光はあんたの悪意そのものだ」

「まあそれは、それも含むだろうよ。当然そうさ、俺が照らしてるんだからな」


 俺はランタンを振った。チラチラとシンの切れ端が出現する。


「さて、終わりにするぞ。割と長い付き合いだった。何か言い残したいことは?」

「あんたはオレに侵入したと思っているんだろうが――」


 闇が蠢いた。


「――オレが招き入れたんだッ! 簡単に殺せるなんて思うな!」


 素早く、それは光に照らされなくとも自発的にシンの形をとっている。先端、手にはナイフが握られていて――つまり完全な丸裸ではなかったということ――いつもの道化服しか身に纏っていない俺を刺すのには十分だった。(やいば)は深々と腹に突き立てられ、するりと抜けていく。


「ウ……」


 闇から闇へと。シンは円滑に溶けていく。


「最初からわかっていた、現世じゃあ勝てるわけがない。そっちでの勝負は捨てるしかないって――慣れ親しんだ自分の土俵で戦うしかないんだ。それが危険だとわかっていても!」


 傷口に手を当てると、明らかに見合わない量の血が流れ出しているのがわかった。


「今やあの魂の魔法を持つあんただ、まだまだオレの方が不利だろう――それでも、意地があるんだよ! どれだけの分身を消されようとも、()()オレだけは負けるわけにはいかない!」


 生命のエネルギーとでも呼ぶべきものが、急速に(こぼ)れていくのがわかる。


「ああ、別にいいぜ……これでお前の気が済むんなら、あと百回くらいは付き合ってやってもいい」


 焦る必要はない。まだ武器が手の中にある。

 ランタンで照らしてやれば、野郎は芋虫も同然だ。


「好きなだけ俺を刺しやがれ、この、クソ野郎……!」


 投げかけられる光を躱すように、闇が踊る。奴の叫び声がこだまする。


「ここじゃ自慢の風も通用しないぞ! オレの心だ、オレの魔法の中だ!」


 艶の無い黒に覆われたシンが飛びかかってくる。その残像はまるで獅子のよう。前足にある十本の爪のどれか一つがナイフ。俺の肩を裂き、また影へと消えていく。


「フブキ……よくも、ここまでこの世界を歪ませてくれた。あんたが戦うことで、どれほどの物と命が壊れたと思ってる! あんたは災いだ、エルフだけでなく、この世界にとっての災いなんだ!」


 シンが俺と交差しようとする()()()が見えない。総合格闘の試合で見られるようなタックルに寝かされる。とても潰すことなどできない。


 シンはナイフのグリップを逆手に握っている。下に敷いた俺に、躊躇なく突き立てようとする。抵抗を試みるが、腕をどけようとしても、顔を殴ろうとしても、まるで手応えがない。纏っている影に吸われるようだ。


 奴は、だが、慎重な姿勢を崩さず、目蓋(まぶた)を少し切り裂いただけで離れていった。


「何故なんだ? あんたは、所詮、ただ少し就活(しゅうかつ)に失敗しただけじゃないか。それがどうして他人への攻撃に向かわせる。やるなら自爆しろ、そうすべきだろう!」

「うるさい……」


 奴が潜んでいそうな方向へランタンをかざす。持ち手が血でべっとりと濡れている。


「既に見ただろうが、オレの生きる時代はな、」

「見てねえよ!」

「見てなくても言わせてもらう! あんたの生きた時代より、オレの時代は――ずっと、ずっと悪くなっているんだぞ! そんな中でみんな懸命にやってんだ! そういう世の中でも生きることはできるんだ! あんたの悩みなんてちっぽけなものだよ! あんたは、ずっといい条件を、自分から投げ捨てたんだ……。そんなもったいないことあるか、そんな、そんな奴が成功する道理なんて、ない! 何かを手にしたように思えても、最後には全て失うんだ。掴んでいるのはまやかしだからだ!」


 暗闇に目を凝らしても、どれほど激しくランタンを振りかざしてみても、思うようにいかない。さっきまでは簡単だったこともできなくなっている。


「へッ、何故攻撃性が外へ向くかって? ――その通りだ。全ては、俺の性根が腐ってるせいだよ。闘技場で見世物にされて、何度も死ぬような思いをしたが……結局は逃げ出せて、生き延びることもできていたわけだしな。そのこと自体に感謝して、多くを望むべきじゃあなかった。自分がちょっと痛い目に遭わされたからって復讐を企てるなんざ、大それたことだ……」

「それがわかっていながら!」

「だが怒りだけは紛れもなく本物だった」

「……何を言ってる」

「矮小な俺の、怒りだけが何故か、竜巻を起こせるくらいしっかりとしたものだった。それが俺の正しさを証明するわけじゃないが、指針にはなった――俺に何ができるのかを示した。理不尽だろ。道理に合わず、筋違いのとんでもねえ怒りだが、そこにあることだけはどうしても誤魔化せなかった。誰の目にも明らかだったよな」

「それで殺したのか? 当事者でもないエルフ達を? 味方を(そそのか)して戦争へ駆り立て、死地に追いやったことも同じか? 怒りが何を引き起こすか考えず、ただ気の向くままに戦って、殺して、死なせてきたのか?」


 影が天井から降ってくる。

 読めていたわけではないが、偶然にも反応が噛み合った。かざしていた腕が盾となり、ナイフの勢いをその場限りだが止めた。


「何故、ギルダまで殺した……!?」

「最初からそう言え。結局、てめーは自分の女が死んだ現実を許せなかったんだろ。だからどれだけ崩壊してもお構いなしってわけだ。違うか!? ええ!?」


 これで怯むならまだ可愛げがある。

 だがシンは黙って、闇の中へ戻った。


「お前は今何やってんだ? 護ろうとしたはずのエルフを粘土細工みたいに弄んでよお、俺にけしかけて満足か? さっきも言ったが割と長い付き合いだったゴタク並べんのも飽き飽きだ、互いにもうどうしようもねえところまで来てんだよ!」


 言い終わると同時、まったく出し抜けに――あるいは俺が息を吐き出し尽くす瞬間を掴もうとしていたのかもしれない――シンは通り魔の手本のような足取りと構えで、心臓へ、ナイフを突き刺してきた。


「がっ……」


 これも抵抗の余地はなかった。俺は、押されるまま後退し、


「――何だこれは?」


 石造りの井戸にぶつかった。


 井戸だ。


 真っ暗闇の空間の、完璧な白い床の上に、突如、井戸が生えている。


「井戸?」

「……もちろんお前の井戸だよ」


 シンには覚えがないだろうが、俺はこれを探していた。


「お前の隠していた井戸だよ」


 胸から血が溢れ出ている。道化服を染め上げんばかりに。


「オレの……?」

「お前の心の中の井戸。見たくないものを投げ込むための井戸だ……」


 わけがわからないといった様子で、シンは俺と、俺のもたれかかる井戸をしばらく見比べている。そのうちに気付く。


「――何故まだ死なない」


 血で水たまりができている。ちょっと笑えるくらいの規模だ。さすがの俺も平気と言えるような有様じゃない。だが、


「へへ……わかってきたぜ。流れる血の量がデタラメなら、刺される場所の重要度だってデタラメでいいはずだ。少なくとも、俺はその重要性を操作できるな……先人の知恵様様だぜ。ともかく、もう少しだけ時間の猶予はありそうだ。何もわからないまま死ぬより、タネ明かしされてくたばる方が嫌だろうから、説明はしてやるよ――こんな感じだ、視覚化しよう」


 あまりのことに呆然とするシンを、俺はランタンで照らした。

 今度は苦しまなかった。その代わり、別の作用が働いた。


 シンの頭から伸びている無数の糸。輝く魔力のストリング。それらが井戸へ向けて、頼りなく流されるように続いている。


 シンにも、見えるようになっている。照らしたからだ。


「これは……」

「お前とコピーを繋ぐ糸だ。お前が手をかけた個体は、独立していない。ただの一体もだ。お前の助けなしじゃ指一本動かせないし、例外なくお前と繋がっている。井戸の向こうで」

「嘘だ」

「嘘だと思ってたか? コピーには限界がある。お前はそれを知っていたんだよ。でも他の手を思いつかなかったもんだから、強行した。自分に暗示をかけてまで」

「そんなことできるわけがない! 自分は騙せない! 世界でたった一人、自分だけは、どうしても……」

「魔法ってのは不思議だな」


 俺は自身の懐を探る。


「そしてこれだ……」


 取り出しましたるは、封もされていない小瓶。

 内容物は、心臓を破られ流れ出した俺の血液と、間違いなく混ざっている。


「まあ、毒だよ。お前達のネットワークを破壊できるよう設計された。同時に死を振り撒くものでもある」


 俺はゆっくりと、井戸の(ふち)へ、空いている方の手をかけた。

 残った力を振り絞って立ち上がる。


「お前達は同じ井戸から同じ水を飲んでいるから、そこに毒を混入すればどうなるか?」


 我に返ったシンが、必死の形相で、ナイフも投げ捨てて抱きついてきた。俺はバランスを崩し、だが瓶は握ったままでいる。シンの手がそれを奪おうと伸びる。俺はそこからさらに伸ばして逃れようとする――。


「ゲームならここでQTEの嵐だな!」


 シンの脇腹に膝を当てる。初めて反応らしい反応があった。

 上下が逆転し、俺は再び立ち上がろうと、踏ん張りをかける。


「どこに、こんな(ちから)!」

「俺も必死だ」

「く」


 胸の傷口に手が差し込まれる。


「ぎが、ッな――?」


 深々と、しかし結果的には指が肋骨の隙間を(ねぶ)る程度のものだ。大した問題じゃない……あまりの痛さに動きが止まってしまうことを除けば。


 隙を作り出したシンは器用に足をくねらせて小瓶を蹴り飛ばす。もう握ってはいられなかった。投げかけられる光の範囲ギリギリまで瓶は転がっていく。中の液体はこの上なくドロドロしているからまだ漏れる心配はない。


 シンが駆け出した。俺はその足を掴んで引っ張る。転倒したシンを踏み越えていく。ビーチフラッグスのように最後の飛び込み――単純な脚力で勝ったシンがさらに小瓶を蹴り飛ばす、蹴り飛ばそうとして(すべ)ってバックパスになる。小瓶はランタンの方に転がっていく。追いかけるシンの今度は両足を俺は捕まえる。床に叩きつけられたシンへ馬乗りとなり、握り拳を側面から落とす。もちろん顔を狙う。シンが拳をキャッチ、掴んでひねってそれが俺の腕にまで伝わる。折れそうになる。悶絶してバランスを崩した俺から蛇のように()け出して這うシンの足を三度(みたび)握ろうとして、届かない。シンは素晴らしいフォームを維持したまま、小瓶を拾う時の一瞬だけ大きく上半身を沈めて()(さら)った。


 そのままそれを――強く床へ叩きつける。


 美しいガラス片が舞い散る。


 静寂。


 力が抜けた。シンもその場にへたり込んだ。

 もう交わす言葉はなかった。

 しばらくそうしていただろうか……だがやがて、奴は疲れ切った表情をこちらに見せてきた。


 俺はその顔を睨みつけながら、もう一本の小瓶を取り出した。


 さすがに二本目を手にしながらペチャクチャ始めるような俺じゃない。井戸に向かってそいつを放り投げる。手元が少し狂ったようにも感じたが、危なげなく、それは井戸穴へと飛び込んだ。元がヘタクソならそれで丁度良かった。


 これで戦いは終わりである。

 今頃は、底の水源に毒が溶け出している。


 シンは呆然と、破滅の足音に聞き入っている。


 俺は身を起こした。


 面倒だが、手続きは必要だった。心に潜る前の段階で、言葉でシンに()()()の状態を自覚させ、そしてそれを精神世界にまで反映させなければならなかったと俺は考える。もっと言えば実際にここまで侵入し、影響が現れているのか確認もしなければならなかった。


 そこまで積み重ねなければ、シンと複製体の繋がりなど曖昧なままだったろう。

 ワクチンを俺に託した魂は自信満々だったかもしれないが、嘘から出た(まこと)に仕立て上げてやっと計画は完成――ってのが本当のところだろう。


 まあ、そこは口八丁、少なくともこいつ相手に後れを取る俺じゃない。


「どうして、最初から二本目を……使わなかった」

「こうすれば確実に意識外から投下できるってのが一つ、この方がお前は悔しがるだろうってのが一つ」


 毒の危険性を十分意識してもらうまでに少し時間を稼いだのが一つ。


「効いてきたろ。もう糸が何本か千切れてる」


 シンは頭に手をやる。


「はあっ、は、ああ……!」

「受け入れろ。お前にできるのはそれだけだ」

「くっ、うぅ、ぐうぅぅうっ……!」


 もうどこにもやり場のない恐怖が、出口を求めてのたうち回る。シンはそれに()き動かされているが、ここに至っては、どういう形であっても発露することはない。魔法の発展も、精神の成長も閉じられた。


「呪ってやる! お前を呪ってやるぞ五十嵐風吹! これで決着がついたと思うな、この先の人生が上手くいくなどと思うな! 貴様のような奴が幸福を掴めるはずがない。そんなことが許されていいはずがない! (よご)れた手だ……! その手で触れるもの全て(けが)れると思え、愛するもの全て、その手が穢すものと思え!」


 呪詛の途中から、衰弱が声色を蝕んでいくのがわかる。


 一度言い終えて、なおもシンは俺に怨念を浴びせかけようとしたが、その頃には口から漏れる音は何も意味を成さなくなっていた。それより、吸うための空気を探さなければならないようだった。ぱくぱくと動く穴にしてやれることは、何もない。


「呪いか……俺もそう願ってはいるんだよ」


 やっとのことで身体を立て直し、見下ろせる位置まで移動すると、シンは既に事切れていた。残った糸は一本もなかった。


 意識を失う前に現実世界へ戻る。

 掴んだ手にシンの頭部の重みがのしかかり、直後、重力に負けたそれは手をすり抜けて森へと落下していった。


 周りでは同じように、機能を失った個体が落下していく。

 一つ残らず、空に留まれず落ちていった。


 飛んでいるのは俺だけになった。

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