15-2 あまりに不確かな未来
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「君の恐れていた結果になったな……」
マイエルはシンの背中にそう声をかけた。
「それも、思っていたより早くにな」
徴発された倉庫は、今はシン達が己を複製するための工房として使われている。物資が運び出された後のだだっ広い空間に、彼らは規則的に、詰め込まれるように並んで、昼も夜もなくひたすらに精神の転写を行っている。
ここへ連れて来られる素体の精神には既に一次加工が施されている。暴れ出したりするような危険はない。そういったことは前段階でのみ問題となる。
処理済みのエルフはおとなしく、無抵抗だ。
言われるがまま椅子に座らされ、あるいは絨毯に寝かされ、精神の変容を受け入れる。次に気が付いた時、彼らは一様に、ナルミ・シンとして生まれ変わる。誇り高きエルフの同胞であったことは忘れ、姿形に関係なく、未熟なヒューマンの少年として自身を認識する。
それはおよそこの世の光景とは思われない、不気味な営みだった。
現在、作業は規模を拡大し続けており、マイエルがようやくシンの本体を見つけたこの工房は、製造第三棟にあたる。活動が把握できているのはここまでで、最早どれほどの同胞が犠牲になっているのか、マイエルにもディーダにもわからなくなっていた。
ある時点から――おそらくディーン皇国の都を襲撃したすぐ後から――マーレタリアの運営が完全にマイエル達の手を離れ、シン一人の裁量に委ねられるようになっていた。細かな実務の一つ一つに至るまで、余すことなく権限を剥奪されたのである。
マイエル達には、伝令の仕事すら残されなかった。
無論、抗議行動は起こしたものの、最終的には、シンがマイエル達の影響力を取り上げたのではなく、必要としなくなった――これを確認するだけの結果に終わった。
何しろ、彼らはその気になりさえすれば、抵抗力を持たない相手なら意のままに操ることができる。争いにはならない。ある種の催眠をかけるだけで、いくらでも命令を伝えることが可能だ。しかも、伝えるだけではなく、従わせることができる。
マイエル達が、僅かに残った思慮深い市民にいくら注意を呼びかけても――シンの魔力に捕まるだけで、何が正しかったのかを忘れる。あるいは、シンの仲間入りを果たす。
自己の量産態勢に入ったシンを止められる者は、誰もいなかった。増えたそばから、その新しいシンが自らを増やそうと即座に行動を始めるのではどうしようもなかった。
そして、彼らは彼らにしかわからない手段、精神世界の通信で意思疎通を図り、そこに割り込むことはできなかった。全てが彼らの思いつき、彼らの不確かな判断で動かされ、誰がどう口出ししようとも、無視されるか、やんわりと口を塞がれるのだった。
そういう状況下では、マイエル達にできることは実に少なかった……あとはどのように終わりを待つかというところに焦点が当たり、それさえもシンに制御、誘導されつつあった。
残された、まだお手つきではないエルフだけでも救おうと、マイエル、ディーダ、バーフェイズ学長といった賢明な男達が手を尽くしたが、初めから無力であった。かといって、その身を呈して止めようとするほどには愚かになりきれなかった。
今、何が、どれくらいの規模で行われているのか……シン達だけが知っている。
だが、マイエルは、彼らでさえ何も把握してないのではないかと……暇になった今、思うことがある。何も考慮せずに、行動だけを起こしているのではないかと……。
「ほとんどが戻ってこないそうだな」
シンは無言で、無表情に、作業風景を眺めていた。
作業員達が忙しなく魔法をかけている中で、本体のシンだけが石の床に何も敷かず腰を下ろしていた。
マイエルの言葉は聞き流されたように見えたが、
「数は増えてる」
シンはぽつりとそう言った。
反論というよりは言い訳であった。
「消されるペースよりも多く増やしてる」
日々、多数の個体が戦地へ送り出されていることくらいは、さすがにマイエルも知っていた。
「だが奴は対応しているな?」
一応、ディーダの配下には、まだ数名の偵察員が捨て置かれている。
マイエルも最早、その物見からの伝聞でしか事態を把握していないが、何かがきっかけとなり――94番は、シンの精神魔法を問題としなくなったようだ。
以前から耐性を見せるという予兆はあったものの、はっきりとそれを使いこなす様子は見られなかった。だが、一時的な消失から帰還して以後の94番は、精神魔法を制御するようになっていたというのだ。
シンがかけた魔法をことごとく破るという形で、94番は明確な戦術を打ち出した。心に魔除けを施し、シンの分身を解呪する。そこにあの風魔法が組み合わさることで、おそらくシン達は――太刀打ちできなくなった。
あちらから精神魔法をかけてくることは決してないらしいが、元より、手の内がわかっていても対処の難しい相手だ。妨害を受け付けなくなっただけで悪夢としか言いようがなかった。
何にも邪魔されなくなった94番が、さらに精神の複製を根本から否定する武器を携えたのでは、どうにも勝ち目がないように思える。
「しかも、ここに迫ってきているそうじゃないか」
「ああ。困ったことにねえ……」
顔を上げたシンの目は血走っていた。
表情も声色も、余裕そのものだったが、目だけが嘘をついていない。
マイエルはシンの隣に、同じような座り方をした。
「我々は逃げ出すべきだろうか、この都から。身勝手な君のことなど放っておいて」
「この際、好きにしたらいいさ。でも、生き延びたいっていう意味なら、可能性はかなり低くなるね。僻地に隠れたところで、見つかるのは時間の問題だ。あの人の執念深さは、あなたが一番よく知っているはず……」
「しかし、それも相対的な話だろう? ここまで来ると、直接対決で君が奴に勝てるとも思えないんだがね」
マイエルは、敢えて神経を逆撫でするような言葉を選んだ。激昂したシンに殺されるならそれでも構わないという心境だった。目標や務めはとうに消え失せ、自身の生存に関する望みも断たれて久しかった。死の恐怖だけが律儀に感情を揺り動かしていた。
そういう日々であるから、何が最後の引き金になるかということには興味があった。
94番に捕まるのは最悪の死に方だが、かといって、自決する勇気はない。
何か他の要因が見つかるなら――例えば恐慌状態の民衆に轢き潰されるとか――それに任せたいという気持ちが少なからずあった。死に場所、あるいは幕引きの機会を、消極的ながらもマイエルは探していたのだった。
シンは黙って首を振った。
今更、煽った程度で燃え上がるような境地ではないか。
「教えてくれ、ディーンで何があったんだ? まだ詳しいことは何も聞いちゃいないんだぞ。君はどうして、私達を締め出してしまったんだ……」
「何があったか、なんて……オレも正確にはわかってないと思うよ」
「だが、攻め込んだのは君だけだ。その君が……94番が消えたと言うから、私達は一瞬だけ希望を見出すことができたよ、そして数日後には拠点を潰され始めた。まったくわけがわからない」
「報告した時、オレは嬉しそうだったかな? 精一杯、不安そうな顔を作ってたと思うんだけどね。あれはただの事故だった。あんなあっけない幕切れなんかありえないし、事実そうだったってだけの話だよ」
「それで、奴は消えた先で精神魔法の修業をしてから帰ってきたのか? 大した努力だ、敵ながら賞賛に値する」
「違うよ。……もちろん違うさ」
シンは自虐的な笑みを浮かべた。
「オレは読まれたんだ」
「――心を、か?」
口にするのも野暮だったが、マイエルは確認せずにはいられなかった。
読めるから有利だったシンが、逆に読まれたのなら、それは何を意味するか。
「ただ思考の表層を盗み読みされたんじゃない。接触したから――何もかも読み解かれてしまったんだと思う。そうじゃないと、ああまで簡単に魔法を消されたりなんかしない。多分、ワクチン――特効薬を作り出したんだろう」
「それでか……。しかし、数だけで言えば、まだ君の方が有利なはずだ」
「厳しいんだよ。ディーンの時は、まだあの人の動きにもぎこちなさが残っていた――きっと、風魔法と両立するのに制限があったんだ。今はそれがない。全く無いんだ。あの人はもう完成した二種だ」
「では、今度こそ勝ち目がなくなってしまったのか?」
「そうは思わない。根競べがちゃんと続いてる」
「永遠には続かない」
「そんなことはわかってる。あの人が音を上げるまでだよ、こんなのは……」
「奴は苦しそうなのか?」
この問いに、シンは――マイエルを見つめるばかりだった。
「邪魔したね」
マイエルは立ち上がり、なるべく目の前の光景を直視しないようにしながら振り返った。
「用はそれだけなのか?」
「ああ。君にはそうだ。一応、これから別の場所に寄るつもりだが……君はこの工房の監督をするのに忙しそうだから、誘わないことにするよ」
「オレも行くよ」
シンの身体の起こし方は、マイエルから見ても重量を感じさせた。
「何を馬鹿な。どこへ寄るかも知らないのに」
「どこでもいい。気分を変えたいんだ」
そもそも、あれほど強迫観念に囚われていたこの男が手透きな時点で、先は見えているようなものだった。
マイエルの次の目的地は予知の塔だった。
事前の申し込みをしたわけではない。占いに近い儀式をしてもらえる施設があったことを、ふと思い出しただけだった。
外界があれだけ騒がしかったというのに、館の主は変わらずそこに健在であった。ベラという名のその女は、ノック一つせず不躾に入ってきた男達を、特に叱りもせず迎えた。
「あら……? 本日はお約束があったでしょうか?」
「いいえ何も。ただ興味本位で参りました。学長にも話は通しておりません」
「まあ……」
「仮に相談したとしても、彼は何も言いませんよ」
「そうなのですか? 確かに、ここしばらく姿を見てはいませんでしたが……」
ベールに包まれたこのあやしげなエルフと話していると、これまでの出来事が全て嘘なのではないかという気がしてきた。隣に佇む不穏なヒューマンの存在がなければ、マイエルはとっくに考え直していただろう。
「でも、わざわざいらっしゃったのなら、ご用件はきっと一つですわね?」
「ええ、予知ですね」
「どのような?」
マイエルは言った。
「私が――どのように惨たらしく死ぬのか、少し覗いてみてはもらえませんか」
「……それは……」
「そう遠くない未来のはずです」
ベラは複雑そうな表情を作った。
「あのう、お引き受けしたくないのですが……」
「そこを何とか、お願いできませんか」
「どうしてそのような――」
「もう、そのくらいしか知りたいことがないのですよ、私は」
「そんな悲しいことを仰らないで……」
――ここで毒気を抜かれるなら、まだ救いはあったかもしれない。
「どうしてもできませんか。拒否するのなら、こちらにも考えがありますが」
実力行使を匂わせると、予知魔法使いは少したじろいだ。
「何のために貴女がここに飼われているか、ご存知でないとは言わせませんよ」
無論、マイエルの最期を予知するためなどではなかったが――ここはハッタリで構わなかった。通じなければ素直に帰ればいい。
「――仕方ありません。何やら事情がおありの様子ですから……。水晶に、一緒に手を触れますか? その方がお求めの未来に辿り着けるかもしれません」
皮肉交じりの申し出を、マイエルは素直に受けた。
魔法に直接触れるのだから、その片鱗でも味わえるものかと思っていたが、あくまでベラの助けになるだけで、マイエルへ未来像が流れ込んでくるようなことは少しもなかった。残念に思いつつ、水晶から手を離す。
「見えましたか」
「……おそらく不満に思われるでしょうから、こういう述べ方をしますけれど、貴方は近いうちには、亡くなりそうにありませんね」
「ふむ。……本当にそうですか?」
「ええ。抵抗はしたいですけれど、嘘を教えるのは主義に反します。どういうわけかは知りませんし、知りたくもありませんけれど、貴方は、少なくともあと十回季節が巡っても、命を落とすことはないでしょう」
意外な結果というわけでもないが、マイエルはもっと確かな結末が知りたかった。
これでは生き延びられるのか、死なせてもらえなくなるのか、極端な想像に分岐しただけだ。
「ありがとうございます。参考にしましょう。それでは……」
「待った。せっかく来たことだし、オレも少し視てもらおう」
シンがそう言うと、ベラは露骨に嫌そうな素振りをして、さっと身を引いた。
「大変言いにくいのですが、帰ってくださいますか?」
「駄目です。オレは魔法を使って命令することができますから、嫌がっても変わりませんよ。それよりはまだ、自分の意思で予知したという尊厳を保った方がいいんじゃないですか?」
ベール越しにでも、渋面が作られているのがわかった。
ベラは強引に歩み寄るシンへ、静かに水晶を差し出した。
「それで、何を?」
「オレは勝てるのか?」
「もう少し具体的に」
「近く、戦いがあります。オレはそこで、ある男とぶつかる。勝敗を視てください」
「……わかりました。わかりましたとも……」
魔力の輝きが部屋を満たした。
マイエルの時よりも長かった。
……長すぎるぐらいだった。
予知が終わると、ベラは悩んだような素振りを見せた後に、こう言った。
「見えません」
――突然のことだった。シンが魔力を膨らませた。
マイエルはそれが何を意味するかもわからないまま、咄嗟に両者の間へ割って飛び込んだ。全身でベラの手と腰を引いて転がる。
何がそれほど気に入らなかったのか――シンから放たれた氷柱は机を破壊し、床に深々と突き刺さっていた。
心臓が早鐘を打っている。
行動の結果に気付き、まだこんな思考回路が残っていたのかとマイエルは自分自身に驚いた。
シンは氷よりも冷たい温度で言う。
「なんでそんなウソをつく」
ベラはただただ恐怖と困惑の最中にあった。マイエルもそれは同じだった。
「言えよ、オレが負けると」
シンの魔力は強烈な怒気を孕んでいる。
下手なことを言えば、すぐにでもそれは具体的な形へと変化するだろう。
「――見たんだろうが!」
「違います、未来はまだ形をとっていません! 見えなかった――何も」
「見えなかっただと……?」
目に見えるもの全てが焼けたかのようにマイエルは錯覚した。
またしても反射的に、今度は炎から離れた。怒りをそのまま嘔吐したような火炎だった。瞬く間に部屋を満たし、とても逃げ切れるものではなかった。服が火を拾った。燃える。燃える――マイエルとベラは本能的に互いを叩いた。火傷が肌を刺す。
「そんなワケがないだろ! 万に一つも勝てるか、クソが! 見えなかったなんて……嘘に決まってるじゃないか!」
「ですから、確定した未来など、あそこには何も……」
ベラは首を振っている。マイエルは叫んだ。
「よせッ。この、馬鹿が……! 八つ当たりというものだこれは……!」
奇跡的に火の手が回っていない、隅の方へと身を寄せ、自分とベラに治癒魔法をかける。
シンは床を踏みつけている。二度、三度と繰り返す。
「――知っていたんだろう!」
ベラは首を振っている。何度も。
「ギルダが死ぬことも、オレの魔法が通用しなくなることも! 全部、全部知っていたんだろう! 知っていて……! くそッ、クソが! あんたもエルフなら、滅びの未来くらい報告しろッ! 自分の種族だろうが! 何をこんなところで寝ボケてるんだ、イカれてるのか……!? 全部殺されようとしてるんだぞ、現実に殺されようとしてるんだぞ! 今も――あああ……!」
シンは泣き崩れた。
涙が水魔法となり、床を洗う。すぐに、燃えているのは壁だけとなった。
「待って。待ってください……」
ベラはようやく、現在を知ろうとしていた。
「エルフは、滅びるのですか……?」
果たして、これほどまでにものを知らぬエルフが、狙って実現しうるのだろうかと――マイエルは深い懐疑の念にとらわれた。だが、ベラがこれほどの目に遭って自分を偽っているとも思えなかった。
彼女もまた、涙を流していた。
「そんな……。何故なのですか……?」
それはマイエルが教えてほしいことだった。
泣いてなどいないで、真摯に向き合って教えてほしいことだった。
誰よりも切実に、そう思っていた――。




