14-7 緊急家族会議
何年ぶりかの再会だったが、母は気合の入った料理など一品も作らなかった。
本当にあるものだけで作った肉野菜炒めと、おでんの残りと、豆腐とお揚げとワカメの味噌汁。そして甘い卵焼き。それらが食卓に並んだ頃、父が帰ってきた。
俺はそれを出迎えた。
「ほんとにいる……!」
開口一番これである。
「――悪いね、連絡入れなくて。実はお土産も買って来てなくてさ……」
「いやそれは別にいいけどお前、いやよくないけどお前、」
靴を脱ぎ通勤鞄を放り出すと、父は俺の目尻から頬骨にかけてを拭い取るように撫でた。涙を拭ってもらった数々の幼き日を、ふわりと思い出す。
「あーあーこんな、ガッツリ見えるとこに彫ってお前……カタギじゃねーなあ……というか、これどういうファッションなんだよ全体的に。これでほっつき歩いてるのか?」
「ごめん。俺、不良だね」
「そうだよお前、こんな何年も手紙の一枚書かないで……親が言うのもなんだけど親不孝だろ……」
久しぶりに見た父親は、頭髪に白いものが混じり始めていた。加齢のせいだけではないだろうと思う。ようやく俺は、歳月の重みを――そのリアルさをもって実感し始めていた。
父は俺の実在を確かめるかのように、何度も肩を握ったり叩いたりした。
「大体、お前今までどこ行ってたんだ……?」
俺がすぐに返事できないでいると、少し手の空いた母がやってきて、まあまあ……と宥めてくれる。
「風子も涼風も呼んだから、積もる話はごはん食べながらゆっくりやろうよ。あとスーツ脱いじゃって」
「――わかった」
母に言われると父は素直に引き下がった。ひとまず着替えに戻ったので、質問攻めを回避できる。このあとに姉と妹の襲来も控えていることを考えれば、すべき説明は一度にまとめてしまった方が俺としても混乱せずに済む。
――と思いきや、スウェット姿でダイニングに戻ってきた父は俺の真向かいに座るなり、
「で、元気にはしてるのか」
「……してるよ」
「ほんとか? お前、挨拶みたいなもんだと思って流すなよ。言葉通りの意味なんだからな。こんだけ長い間行方知れずで、病気に怪我の一つや二つ、してない方がおかしいだろ。保険証とかお前、全部機能しないんだから苦労したろ」
「いや、そういうのは必要ないんだよ。そりゃ、あった方がいいとは思うけど、持っていてもね……」
「やっぱり、じゃあ、そういう世界なのか」
「まあね。まあ……」
「安全な環境なのか?」
「このへんと比べちゃったら、どうしても悪い部類に入るよね。とにかく、大病はしてない。怪我は結構あったけど、ほら、ピンピンしてるだろ?」
「そんならまあいいが……。痩せ細ってもないしなあ」
「むしろ、逞しくなったと思うんだけどね。ちょっぴりね」
父はそれには同意せず、
「ところでお前、その格好ほんとどうにかならなかったのか。今日どうやってここまで来た」
「タクシー」
そうじゃねえよ、と言いたげなところを父はぐっと堪えて、
「まあ、目立ってしょうがないから電車には乗れんわな。しかし、チンドン屋でも仕事するときだけ着替えるもんじゃないのか?」
「ウチの職場だとこうなんだよ。半分就業規則みたいなもんだし」
父は不条理を前にした時の顔で、
「お前、そりゃ……やってられないよ。大丈夫じゃないだろ」
「でも、もう半分は俺も好きでやってるからさ」
安心させようと思ってそう言うと、父の心配は確かに和らいだようだが、同時に息子がそんなことを言い放つ事態に複雑な思いを噛み締めているようでもあった。
「――ふぅーん……。ほんで、タクシーどっから乗った」
どうも、核心に迫らなければ何でもいいと思っている節がある。
「渋谷」
「渋谷ぁ!? 渋谷から全部タクシーか、いくらかかった」
「一万二千と二百五十」
父は目を丸くして感心したように、
「はー! 意外に金持ってんねえ」
「持ってないよ」
「え?」
「今、俺、一銭も持ってないんだよ。だからタクシー代はここん家から出してもらってる」
「財布落としたのか!」
「そういうわけでも――あー、いや、まあ、そんなようなとこかな」
「じゃあお前、金借りに来たのか」
「そういうつもりではなかったけど、展開次第ではありえない話じゃないな。今のところは何とも言えない。でも多分、借りた分は踏み倒しになる気がする」
「いや、あのな、風吹……さすがにそれは何年かかってもいいから返――さなくていいや」
「いいの?」
「もういいよ、とりあえず帰って来てくれただけで」
「そっか」
話は一旦終わりだ、と言わんばかりにインターホンのチャイムが鳴る。
「あ、風子か涼風、着いたな」
父は立ち上がりかけたが、すぐにやめて、
「行ってこいよ。一発でわかるだろその方が」
「いいけど、まず応答しないと。宅配便か何かかも」
俺はパネルに映ったのが誰か一応確認した。
姉と妹の両方だった。連れ立ってきたのだろう。
通話ボタンを押す。
「はあい」
画面の向こうの姉と妹は目を見合わせた。
互いを肘で小突き合って、先に発言を促している。
それがいつまでも続きそうだったので、俺は玄関へ向かって、おもむろにドアを開けた。
「うわびっくりした!」
「え? ……え!?」
二人は俺を認識するのに何秒かかけ、
「ふ」
「ブハッ……!」
吹き出したかと思うと、ずっと笑い続けている。
「なんだよお……」
「いや、だってさあ!」
「そんなカッコしてると思わないじゃん! あ、ダメだツボる」
特に姉がやられている。
「まあ、何か、湿っぽくなるよりはよかったよ。とりあえず入ろう」
俺は二人を招き入れ、自分は廊下を行く列の後ろについた。
ふと、また――背後から袖を引かれるような、奇妙な感覚を味わう。俺は振り返ったが、そこにはただ玄関の扉があるばかりだった。
「兄さんどうしたの」
「あ、いや……」
パリッとしたスーツ姿の妹を見るにつけ、またも時の流れを思い知らされる。
「仕事の帰りなんだ?」
「うん、そう。外回ってたけど、今日はもう直帰」
「悪いね俺のために」
「いや、別に、最初から予定はそうだから」
「あ、そう……何、二人一緒に来たってことは、どっかで待ち合わせたの」
「うん、フウちゃんが駅で拾ってくれるっていうから」
「クルマあるんだ?」
身重とのことだったが、まだ、すぐ見てわかるほどの膨らみではなかった。自動車も運転できるということは、日常生活に積極的な補助を必要とする手前の段階か。
「――旦那さんは今日は?」
「何か研修会に出かけてるんだよ。泊まりこみで。惜しいねえ、会わせてあげられたのに」
「俺のことについては知ってるのか」
「一応ね。ただいまー」
キッチンからこちらも見ずに、もうできるから座っちゃってー、と母が言う。父が食器を並べたり出したりしていた。
しばらくはオフクロの味に舌鼓を打つ余裕があった。だが、そのまま団欒だけして過ごすわけにもいかなかった。
姉と妹は近況報告をし、無病息災でやっていることを示したが、料理が片付き始めると、自然、会話は俺のことについて求められるようになった。
「――じゃあ、皆、俺が死んでないってただ信じてたわけじゃなくて、状況から判断して生きてる可能性が高いと思ってたわけか……」
俺としても、あの後こちらではどういった経緯を辿ったのか、気になっているところではあった。
残したものが残したものだから、家に仏壇があっても文句は言えないのだが、意外に人々は冷静な判断を下してしていたらしい。
「まあ、そういうことになるよね。ロープを使った形跡はあったけど、死体もなければ、体液の一滴も床に落ちてなかったから。警察の人達も不思議がってて。だから結論としては失踪扱いだよ。今の今まで」
姉がそう説明してくれる。妹も頷き、
「あの自殺セットはミスリードって線が濃いような気がしたけど、本当にそうだったんだね」
俺は、言うか迷ったが、
「いや、しようとはしたんだよ」
「あ――そうなんだ」
妹が俯くと、場の空気がやや翳った。姉は少し怒ったように、
「そこは別に嘘ついていいでしょ」
「誤魔化したところでしょうがない。それで、まあ、結局失敗して、どうしようもなくなった」
「どうしようもなくなってから、どうしたんだよ?」
父が、解せないといった様子で訊ねてくる。
「突然いなくなったのと、どう結びつく?」
確かに、これだけだと結果は飛躍している。
「話を進める前に、まず、これだけは予め言っておかなきゃならないというか、薄々勘付いてると思うんだけど、俺はこんな状況だから、つまり事情があって、全てを正確に打ち明けることはできない」
「そこをなんとか……」
「できないんだよ、父さん。わかってくれ。どうしてもそれはできないんだ。信じてもらえないかもしれないとか、そういうことを気にしてるんじゃないんだ。むしろその逆で――真面目に受け取られると色々まずいっていうか……明るみになると色々都合が悪いんだよ」
これを聞いて、母がおもむろに、
「それって、拉致されたのと関係あるの?」
「拉致!?」
「え、これって拉致だったの?」
「お前拉致されてたのか!」
「違う! ちーがーう! 母さん頼むよ……!」
「でもあんた、近いって言った」
「それは言ったけど……! まあ、他人の手引きによってね、不本意な形で失踪するハメになったのは間違いないが、拉致か――それは、あれも確かに、一つの拉致の形だったかもしれないけど、今皆がパッと思い浮かべたイメージとは全然違うものだから、そこは誤解しないようにしてくれ」
「お前を連れて行った奴等は今どうしてるんだ」
「言えない」
「早速か……」
「泣き寝入りはしてないからそこは安心していい」
「そもそもお前を誘拐して何がしたかったんだ」
「こき使ってたね。長続きしなかったけど」
「それが真相なのか?」
姉が口を挟む。
「いや、待ってよ。大事なのはさあ、何で消えたかよりも、何で死のうとしたかってことじゃない?」
「……それもそうだな。何で……。悩みがあったなら、先に相談するとかできたろう」
「ダメだってお父さん。相談できる人は自殺なんか考えたりしないんだよ」
「――フウちゃんの言う通りで、当時は相談すること自体が嫌だったんだろうな。就職できそうになくて、俺は本当に駄目な奴だって……それを曝け出しながら生きていくだけの、まあ、何ていうのかな、図太さみたいなのが備わってなかったんだな。どうでもいいところだけ繊細でさ……」
今になっても、この告白は多くの勇気を必要とした。だが、同時に――言わずにはいられない瞬間でもあった。
「まあ、それはいいんだ。今はもうね。ただ、これは偶然なんだけど、丁度、俺が絶望的な気分になってた時期と、奴等が事を起こした時が重なったんだな……」
「それで、結局何をやらされてたんだ?」
「言いたくない。で、まあ、どうにかこうにか、収容所みたいなところから脱出して、割と早い段階で、ある人に拾ってもらったんだけど」
「そいつも悪人だったりしないだろうな」
「……当たりなんだなこれが」
良いか悪いかで言えば、間違いなく彼女も俺も悪人である。ただ――、
「俺は今、その人のところで働きながら暮らしてる」
「――犯罪に手を染めてるってことか?」
父は恐い顔をした。
「それがややこしいとこでね……。前提として、俺がかなり遠くで暮らしてるんだってことをわかってほしい。頭がおかしくなるほど遠くだ。日本の法律とか関係ないよ。何なら、国連だって関係ない」
「どういう世界なんだそれは……。いよいよ裏社会にしか思えないんだが……」
「それもまた違うんだ。とにかく、ちょっと、何ていうか――普通だと手の届かないところに俺はいる。今日ここに現れたのも、実は様々な要素が重なって、奇跡みたいな状態にあるからなんだ」
「だからいきなりか?」
「だからいきなりだね」
「なんだかそこは治安悪そうだけど……あんたほんとにやっていけてるの?」
母の心配も尤もだった。
「俺、こんな格好してるけど、今はほとんどキャラ付けなんだ。確かにショーみたいなことを一時期メインにもしていたんだけど、最近はもう、別の、大きな計画が主な仕事になってる」
「大変なお仕事なの?」
「はっきり言ってしまうと、任されてるのは命の危険がある仕事だ。仕事っていうか、活動なんだけど、とにかく死と隣合わせで暮らしてる。だけど、その仕事を終わらせないと枕を高くして寝られないし、その仕事を終わらせて初めて、平和で安全な人生を考えることができるようになるんだ。やりがいとか、そういうんじゃないけど、俺がやらなきゃならないし、俺が終わらせなきゃならないとは、思ってる。そういう仕事なんだ」
家族皆が渋い顔になっていくのがわかった。
でも、口は止まってくれない。
「だから、俺が最初に持っていた悩みはもうないし、俺は、自分が何をしなければならないかわかっているし、それがなくなれば見つけるつもりだ。そういう意味では、もう心配しなくていい。俺は――やっていけるよ」
ようやく、言いたいことが言えたような気がした。
俺は、これが言えないのが問題だった。言えないから死のうとしたようなものだ。ずっと問題だった。
今は違う。違うということを信じられる。
「……ごめん。こんな一気に言われてもわからないよな」
むしろ、不安を煽っただけかもしれなかった。それでも言わずにはいられなかった。
姉が呆れたように、
「まあね、こうしてね、普通にしてるけど、正直あんたのこと、七割くらいは幻聴幻覚だと思ってる」
「残り三割でよろしく頼むよ」
雰囲気を変えようと、俺は少し話題を変えることにした。
「あ、そうだ。あのー、フウちゃんとスズの、二人のことで思い出したんだけど、俺あの、今度、嫁さん貰うんだ」
聞いていた全員の顔色が変わった。
「――いやごめん間違った。逆で、俺が婿入りするんだけど……とにかく結婚する予定でお付き合いしている」
「はあー!?」
姉の絶叫を皮切りに、ダイニングは阿鼻叫喚となった。
「あんたそういう大事なことは先に言いなさいよ! 向こうの親御さんに挨拶したんでしょうね!?」
「何で相手の娘を連れて来てないんだよ! わかった実は外で待たせてあんだろう。そうだと言えっ!」
「というか兄さんが帰ってきたことよりありえないんだけど」
「――俺が悪かった。悪かったから、皆落ち着いて……。彼女は忙しいから、来てないよ。何といっても俺の上司だから」
「そうなの? 兄さんやるね」
「いや待て、ここまでの話の流れからすると――その上司ってのはつまりお前を拾ったっていう……」
別に隠したいわけではなかったが、内心舌打ちをする。余計なところばかり勘の働く親父だ。
「当たり」
「おいなんかそれはちょっと……複雑だな。あんまり言いたくないが、お前をその道に引き込んだ人だろ……?」
「いやそうなんだけどさ、彼女は本当にしっかりした人で、俺も実際尊敬してるし……あれ、まずいな。ここからは何をどう反論してもストックホルム症候群みたいに思われる気がする」
「まあまあ、ここは前向きに考えてもみようよ。その人と出会ってなかったら、風吹は野垂れ死んでたかもしれないんだしさ」
「そう! その通りです! さすがフウちゃんさんだ」
「何でもいいけど、相手のご両親は何て言ってるの? そのへんしっかりしとかないと駄目なんだからね! 月並みな言い方だけど、ほんと当人達だけのことじゃないんだから……」
「母さん心配しなくても、彼女の両親には認めてもらってるよ……一応」
「一応って!」
「まあちょっとそのへんもまた色々と事情があるんだよ……。とりあえず婚約まで行ってるし、今取り組んでる例の案件が一段落ついたら、籍入れて式も挙げるさ」
「とりあえずって、お前なあ……」
「報告できてよかったよ。――よかったんだよね?」
「聞くなよ!」
納得いかない父の横で、母は額に指を当てて煩悶していたが、やがて吹っ切れたようにこう言った。
「――それで、かわいい娘なの?」
「すげえ美人」
「あんたのこと好きだって言ってくれてるの?」
「かなり」
「当分やってけるだけのお金はあるの? それか稼げる?」
「彼女は家の財産を受け継ぐんだ。古風な言い方になるけど、次期当主としてね。それで、俺も家業のサポートに回って働くことになると思う。物質的な問題はまず無い」
「ふーーーん――……じゃあいいんじゃない? 一緒になりなさいよ」
「そうする」
「いいのかよそんなんで!」
テレビは点いていたが、誰も何も気にしていなかった。この一家にとって、今は俺が最大のコンテンツだった。




