14-5 渋谷
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このような作用が起こりうるというのは想像してみたこともなかった。
だが、どこかへ運ばれるまでの時間を考察に費やすうち(他にできそうなことが何もなかった……)、むしろこの可能性は想定しておいて然るべきだったのではないか、とすら思うようになった。例えそれが発生確率的に低いにしてもだ。明らかに手落ちだ。
起こりうることは起こる。
真っ暗な中に、北極星のような光点だけが残った。あれが元々は周囲の景色だったわけだが、現在は強烈な力で圧縮されたかのような大きさしかない。そして俺自身もまた強烈な力で遥か彼方へと引っ張られ続けている。
ずばり、俺は時空間異常に巻き込まれたのではないか。
まだ結果は出ていないが、これはほぼほぼ間違いないように思う。
何故この発想が浮かばなかったのか。それは現在の事象に結び付くほどには、シンとゼニアの魔法が強くなかったせいだ。いや、両者とも相当ヤバい魔法の使い手なのはわかっていたが――どちらも通常認識できないような領域をぶち抜いて干渉できるほどの力ではなかった。魔法だから結構なんでもありなのはその通りだが、それでも、このようなことまで考慮しなければならないという発想に至らなかった。
いや……頭のどこかに、そんなものはフィクションだけだという先入観があったからなのか? 魔法だってフィクションだ、異世界だってフィクション――でも少なくとも、俺の身に起こったことは現実と認識するほかない。そのせいでどこか目が曇っていたというわけか? これ以上ヘンテコなことがこの身に起きるわけがないと? 驚異を目の当たりにするわけがないと高を括っていたのがこの様というわけか?
ゼニアは時を巻き戻すような事象を起こすが、人間一人を過去そのものへと吹っ飛ばす魔力の輝きを見せたことはないし、シンの方もまた、ラーニングしただけの重力制御で俺の腕をへこませても、空間そのものをへこませたりはできない。
しかし考えてみれば、俺が食らったのはそれらの合作魔法である。
相乗効果が、本来ありえない到達点を現実にしてしまったというのはどうか?
重力による作用が時空間の歪曲に繋がり何らかの効果をもたらす、というのはありふれたフィクション描写の一つだ。無論、シン単体ではそこまでの現象を引き起こすことは不可能――できるならとっくに使っているはずだから――あくまで、天地の向きを操作したり、対象を潰すといったことがせいぜいの魔法でしかない。
だが、単体では難しくても、そこへ実際に時間を操る要素が加わったらどうだ――逆に、単体ではその時間軸における巻き戻しでしかなくても、空間歪曲の特性を付与されたら、その魔法はどう変質する?
人間二人、遥か時空の彼方へ吹っ飛ばすことも夢物語ではなくなる。
なくなった結果、俺はこのような目に遭う……。
ジュンとはぐれた後の間の持て余し具合から考えて、相当に遠いところまで連れて行かれるのはほぼ確実と思われた。
行き先は安全なのか、それともこのまま一生寒々しい旅を続けるしかないのか……と不安になってきたところで、唐突に移動が終了した。
ほんの少し投げ出されたような感覚があり、しかし俺はしっかりとその地面に立った。そう、ひとまず地に足をつけることができた。しかも心地よい、平坦な地形で、体勢を維持するのに何の苦もない。
――舗装されている。規則正しく引かれた白線。
俺は情景から出来る限り自分の置かれた立場を読み取るべく目を皿にした――と同時に愕然とする。入ってきた情報量は圧倒的なものだったが……反面、大部分は無視して問題なかった。
既に見たことのある景色だった。
馴染みがあるというほどではないが、俺はここに何度か来たことがあった。
周囲が行き交う人々で埋め尽くされている。この交差点は林立するビル群の中にあって比較的開けており、遠くには高架を走る電車まで見えた。ほとんど全てが広告と看板で装飾されている。なまじ文字を読めるために意味の一つ一つが動揺を誘う。
視覚からだけではなかった。絶えず耳に入ってくる様々な音を無意識に分析しようとして――魔法を使うあの感覚が消失していることに気付いた。そうだろうと思う。ここには自発的な魔法が無い。俺をここから召喚したり、ここまで運んだりしてきたものは、かなり例外的な干渉だ。この世界にはこの世界のルールがある。既にそこへ組み込まれたと考えたほうがいいだろう。
自信を持って選り分けられたのは、映像広告の音声と無数のエンジン音、あとは信号機に備え付けられた音響装置の誘導で、俺はひとまずそれに従って横断歩道からの脱出を図った。まずこの、信号に従わなければならないという感覚を久しく忘れていた。点滅したら小走りになることも。
渡り切って、立ち尽くした。
センター街入口、例の帰還兵が創業したという本屋はまだ残っている。
ここは渋谷だ。
広告ラッピングされた大型トラックが目の前をゆっくりと通り過ぎていく。やかましい歌詞付きの音楽が奇妙な余韻を残した。
おそらくいきなり出現したであろう俺を気に留める人は少ない。どちらかといえば怪現象より格好の方が目立っている様子だ。
騒ぎにならないのはいいとして……一体これからどうすればいいのか、こんなことになってしまって次の瞬間からどう振る舞っていけばいいのか……途方に暮れる。
しばし呆然として、それから胸に去来したのは、果たしてここは本当に俺のいた現代日本なのか、という疑念だった。
戻ってきた保証すらないのだ。召喚魔法とは全く違うイレギュラーな手法で、ロクに照準も定めないまま放り出されただけだ。同一に思えても……よく似ているだけのパラレルワールドである可能性の方が高いように思えた。
俺はそばにあった書店へと駆け込んで、週刊誌など立ち読みできそう且つ時事にも詳しそうな商品を片っ端からめくって回った。それらは俺が首吊りを敢行し召喚された時点から数年後の未来を示唆していた。いや、というより――あちらの世界で過ごした分の時間が、こちらでも同じく経過しているように思われた。
だが、肝心の内容に関して、俺は最後まで確信を持つことができなかった。客人達から収集した体験談は全て同一の時間軸上にあると考えられていて、そこから浮かび上がってきた未来像は俺の頭の中にも入っている。その歴史と今手にすることができた世情は、大部分が合致しているように思えるのだが、調べれば調べるほど……証言だけでは漏れが多いことに気付いた。大筋は間違いないはずだが、細かい部分が符合しているかまでは疑問が残る。精査できない以上、はっきりとは――ここが隣の世界だと言い切ることはできない。
やっていることが不審者そのものだったため、そのうちやんわりと店から追い出された。何か他の方法を考えるか、別の目的を見つける必要があった。俺はあらゆる繋がりを断たれてしまっている。全てを捨てて異界へ飛び、今度は、そこで築いたものを失おうとしていた。また無縁になる。それがたまらなく堪えた。
次の行動方針が決まるまでにそう時間はかからなかった。試せる手は限られている。
もし、俺の存在を認識できる、あるいは受け入れることのできる人物が、まだこの世界に残っているとしたら――それは家族か、俺自身だ。
実家を訪ねることができれば、誰かはそこにいるだろう。
目標を定めると、もうそれしか見えなくなった。
俺は早足で駅に向かい、タクシー乗り場を探した。空が飛べない、金も持たないのではそうするしかなかった。鉄道やバスに乗るための費用を交番で借りられる制度は記憶の片隅に残っていたが、身分証明ができない今の状態で申請できるとはとても思えないし、ただでさえややこしい事態になっているのにこれ以上話がこじれるのは絶対に避けたかった。詰みかねない。そうなるくらいなら、着払いの交通手段に賭けた方がいい。
予想はしていたが一台目には一目見ただけで乗車拒否された。後ろに並んでいた客がそれに乗って行った。
二台目の運転手はその様子を見ていたため、(詳しい事情をぼかした)話だけは聞いてくれたものの、やはり支払い能力を全く持たない客の縁故を信じることまではできなかった。俺はこの時点で109メンズでの窃盗を考え始めた。それなりの服に着替えれば余計なことを説明しなくても黙ってドアを開けてもらえるかもしれない。
次が駄目だったらそうしよう、と臨んだ三台目の運転手も、それまでのやりとりから不審の目を向けてきたが、迷う素振りを見せた末に、俺を車内へと招いた。
「……どちらまで」
「あの――ちょっと遠いんですけど、」
と前置きをしてから、俺はなんとか憶えていた実家の住所を告げた。
「料金、結構かかりますけど、よろしいんですか? 何か……鉄道とメトロに遅れが出てるとか、そういうのですか。お急ぎで?」
「いや! 別に、そういうわけではないんですけど……」
その先を言うのは憚られた。
手持ちの金が無いから着いた先で家族が支払います、と説明して、理解はしてもらえても納得まで行くかどうか。いやそもそも、交渉の前の段階で躓いてしまっている。深夜でもないのに普通なら乗らないような距離を指定されて、どんな事情を抱えているのかと警戒されているわけなのだから――それを解くようにしなければ。
「ええと、私どうもあの満員電車ってやつが苦手で、外出する時は結構タクシー使うんです、けど、ねえ……。今日なんかいかにも混んでそうだから……見たかわからないけどその辺人通りすごいでしょう? あれみんな駅から出てきてんですよ」
まるっきり嘘というわけではないがちょっと無理がある。なんかヤバい人の言い分に聞こえるし、いかにも説明口調になってしまったし……そんな奴は最初からマイカーで移動するんじゃないかと、自分でツッコミを入れることができる。
「はあ、まあ……、……休日ですからねえ……」
運転手はなんとか穏便に話を進めようと、まずは共感を示してみせる作戦でいきたいようだが、俺があまりに変な客なので上手くいっていない。
とりあえず信用されていないことはハッキリしている。彼は正しい。
「あと私タクシーの作る空間が好きなんですよ親切な運転手さんって話相手になってくれるじゃないですかだから目的地まで退屈しないし私職業柄誰か人と会話する機会を大事にしてましてそれこそ金払ってでも買えってねハハだからそのうタクシーの運賃ってあくまでも運賃ですから厳密にはお話のサービス料なんて含まれてはないんでしょうけど客としてはそういうところ期待する部分がゼロってわけではないんですよ美容室なんかと同じでねあんまり私みたいな客っていないんでしょうけどよかったら」
そこが限界だった。息継ぎをしようとして、そこからもう一語も出てこない。
バックミラーに映る運転手の顔がますます濃くなっていくのがわかる。
「……もう一度、行き先のご住所伺ってもよろしいですか……」
念のため、というような感じで彼はそう言った。
俺は少し息を整えた後、実家の住所を復唱した。
運転手さんは――カーナビのタッチパネルへ静かに指を伸ばし、ゆっくりと、躊躇いながらも操作していった。そうして最終的に表示された画面を指し示し、
「こちらで、お間違えないですか」
「あ、そ、そうです」
運転手さんは黙って少し考え込んだ。無意識かはわからないが、指折り数え始めたところを見ると、頭の中で算盤をはじいているように思われた。
今月の売り上げがあまりよくないのだろうか――そうであってくれと俺は願った。
俺は予期せぬ乗客、ならぬ上客になれるはずだ。
――永遠にも感じられる沈黙の後、彼はナビをスタートさせた。
シフトレバーもドライブに入る。
懐かしいエンジンの響きが、座席の下から湧き上がってきた。
「話し相手としてご満足いただけるかはわかりませんが……」
運転手さんはハンドルを回しつつ、少しはにかんだようにそう言うのだった。




