14-4 川岸で少し前に起こったこと
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無論、ジュンも自身に何が起きたのかはわからないままだった。
ただ発作的に、身動きの取れないフブキを魔法の激突から引き離そうとしたが、それは間に合わなかった。かなり際どいタイミングで突入してしまったため、二つの魔法がフブキを捉えたのと全く同時に、ジュンもまた影響範囲に入った。
諦めずにフブキをこの範囲から連れ出そうと、ジュンは滑り込んだ勢いそのままに腕を伸ばしたが、魔法の影響力は比較的貧困な想像力の遥か上を行っており、鍛えた程度の人間が振り払えるようなものではなかった。まず、伸ばすといっても、意識した分たけの力を腕に込めるということから困難な状態だった。
よく考えてみれば、フブキも自分も少しだけ宙に浮き上がっているし、どこを支点に踏ん張ればいいのかさっぱりわからない。地面を蹴ることができないなら脱出のための動力も伝わらないことになる。ここでジュンは初めて焦りを覚えた。ゼニアはともかく、敵の繰り出した魔法は悪いものに違いなかった。それをたっぷり浴びている自分とフブキはきっと無事では済まない――一体どうなってしまうのか。
ジュンの目に映るもの全てが、粗雑なレンズを通したように歪み始めた。
既に崩壊している庭園の景色が、ハチャメチャに絵の具を塗りたくったようなものへとさらなる進化を遂げる。そしてさらに水で滲むようにぼやけていき、最後にはコップへ注がれるように一つの円の中に集められた。円は遠ざかっていく。限りなく小さくなっていく。指を丸めたよりも小さく、粒へ……。
深い井戸に落ちていくような感覚だけが残った。
ジュンとフブキは、急激に現実感が薄れていく力場の中で、起こる事象を眺めているしかないのだった。
ジュンは、隣でフブキがぽかんと口を開けているのを見て、自分も同じ顔をしていることに気付いた。どうにもならないことは確かだった。抵抗のしようがなかった。
不思議に痛みは何もなかった――ものすごい力が自分とフブキを引っ張ろうとしていることだけがわかった。ジュンは、普通ならこの力は自分達をバラバラに引き裂いてしまうのではないかと訝しんだが、あの光景から引き離すという以外に干渉してくることはないようだった……。
――と思っていたのも束の間、ジュンとフブキの距離が離れ始めた。
二人は咄嗟に互いの腕を伸ばしたが、力場のもたらす不自由さがこれを阻んだ。ここさえも引き離してしまうのか! 世界を取り上げられそうになっている今、貴重な同行者までをも没収されるのはジュンにとって精神的死活問題である。
だが、かろうじて取れる身動きの全ては虚しかった。
二人の間を隔てる虚空は緩やかに、しかし段々と加速しながら広がっていった。
フブキも豆粒になる――。
唐突に、叩きつけられたように現実が戻ってきた。
望んだ現実にではなかった。フブキは消え去っていたし、ゼニア達が残った場所に戻ってきたわけでもなかった。
どこか、ありえないほど遠くへ連れて来られたのは確かだった。
そこは冬ではなかった。都市でもなかった。ジュンは一人、野原に佇んでいた。
周りには何もなかった。
おそらく雨に濡れたのであろう草が、地平線までずっと輝いているだけだった。
「……どーなっちゃったの……」
完全に突き放された、とジュンは感じた。途方に暮れた。
「どうしよ……」
誰も、応えてくれる者などいない。
何かしなければという危機感があるのに、何もそれに繋がりそうにない。
身一つ。矛も置いて来てしまった。
多分、フブキを探すことがやるべきことなのだが、さすがにそれももう自信がなかった。いないんじゃないか、という心の囁きには説得力があった。仮に同じように飛ばされてきていたとしても、虚空でのあの離れようを考えると、再び巡り合うのは困難なことのように思えた。
現状をもっと具体的に把握する必要があった。
しかし、何から手をつけたらいいかわからない。
困って太陽を見上げると、それが大分傾いているのに気付いた。明るさが似ていたから勘違いしていたようだが、どうやら、夜明けからも引き離されてしまったらしい。ここは、そう経たないうちに日が暮れる。
本当にここはどこなのだろうか。
そのうち暗くなるなら、それだけでも突き止めておかねばならないのではないか。
このままでは――とにかく、このままでは……。
不安が襲ってくる。
少ない脳味噌で考えてみれば、そもそも、ここがどこである保証もないのだ。
転移魔法とは性質がきっと違う。思いもよらない飛ばされ方をしている可能性が少なからずある。場所がずれ、時間もずれているということは、もっと大きな枠組みまでずれていないとは言い切れない。
ただでさえ、一度異世界にやってきてしまったこの身、もう一度そのようなことが起こるということも……。
不吉な予感を振り切るべく、あてのないまま歩き出そうとしたその時、不意に、ジュンは水の気配を感じた。ややぬかるんだ足元のことではなく、微かに拾うことのできた、流れる水音からもたらされるものだったが、今のジュンにとってはそれは大きなヒントだった。
川がある?
そうに違いない。確信とともに、ジュンは振り返って走り出した。
果たして、大河がそこにあった。残念ながら上流の方も下流の方も、眺めは同じようなものだったが、しかし川は川だった。草原だけよりは草原と川の方がいいに決まっていた。少なくともこれを頼りに移動方向を決めることができる。白紙に一本の線が引かれるほど大きな意味がある。フブキだって川沿いならどこも1コイン増えるとかわけのわからないことを言っていた。
そうフブキだ。もう考えても仕方がないので、フブキも同じように飛ばされてきたとして、だとしたら同じように川を見つけないだろうか?
フブキなら上流と下流のどちらに行く? どちらにも集落は発生しうるだろうが、やがて山岳にぶち当たるよりは、やはり下流か? そっちの方で待つべきか?
しかし――フブキはひねくれて上流に行ってしまいそうなところがある。本人が下流へ行こうと思っても、何かが邪魔をして川を遡るように仕向けられてしまうというか……あの生き様を見るに、彼自身よりも彼の運命がひねくれているような気がするのだった。
それに、何となく、ジュンは最後にフブキが上流の方へ飛ばされたような印象を持ったのだった。虚空の上流というのも変だが、ともかくジュンから見て上流の方だ。
そういうわけで、ジュンは川の流れに逆らって歩くことにした。
しばらくは、特に変化と呼べるような出来事は起こらなかった。
代わりに、まだ魔法の影響が残っているという発見があった。井戸の中に落ちていく感覚が、随分弱まってはいるものの身体に纏わりつくように残っている。ジェットコースターに何度も乗った後、その感覚が地上でも残っているようなもので、ジュンが不自由なく活動できている今も、常にどこかから自分という存在を引っ張られているのだった。
さて、そのしばらくが過ぎた後、ジュンは絶えず脈動する流水面にあるものを見つけた。ふとした拍子で気付いたが、それはもっとずっと前から――遠い川上から流されてきたのかもしれなかった。
人だった。
誰かが溺れている。
空気を求めていた頭はすぐに沈んでしまったが、間違いなくそうだった。ジュンは歩みを止めて、最後にもう一度、目の錯覚ではないことを確かめようとした。次に手が突き出てきた。それで決まった。ジュンは川に飛び込むのではなく、僅かに残った魔力を用いて水面を踏んだ。
激しい流れではないので泳ぐこともできるが、いかんせん川幅が広く、しかも溺れている人は反対側の岸辺に近かった。こうした方が素早く助けられる。
それに、もがいている人を直接抱えて引き上げるより、水を操って浮かせた方が、何かと面倒も少ないのだった。
水中から持ち上げてみて驚いた。
溺れていたのは――フブキだった。
思いがけず再会を果たし、ジュンの内心は安堵半分、懸念半分となった。
虚空で分かたれた時は、もっと望みが断たれるような思いがしたものだった。これほど簡単に合流できるものだろうか。そしてフブキはこれほど長い間溺れていて果たして無事なのだろうか?
陸に揚げてみると、懸念はむしろ違和感となった。
何かがおかしい。
沈んでいた時は夢中で気付かなかったが、まず、服装が違う。何着も持っていた道化服のバリエーションではなく、ズタ袋かボロ切れのようなものをかろうじて身に纏っている。
何か違う。
どこをどう流れてきたのか、身体中が痣だらけで、左腕は無惨な方向に曲がっていた。いくら溺れたといっても、この流れの弱さでは付きそうにない傷だ。ここに飛ばされる前の敵との戦いでも、それらしい負傷は見当たらなかった。
極めつけは――顔つきが幾分か若返っていた。
ジュンは既に半分ほどは理解していた。
まさか、という思いと、やはり、という思いが交錯し、でもそんなことがありえるのか、どういう理屈でそうなったのか――謎が確信を阻む。
ともかく応急処置を、とジュンが行動を起こす前に、フブキは自力で水を吐き出していた。ひとしきり咳き込んで、意識も割とはっきりしているようだった。そして当然のことながら、ジュンの方を見た。何か言おうとして、顔を顰め、呻いた。視線は腫れ上がった左腕に移った。すぐに目を逸らし、
「折れてんのか……」
今にも泣き出しそうな声だった。
「いてえ……うぁ、ぐ……いてぇよ、痛ぇ……」
ここにゼニアがいれば、とジュンは思った。腕を元に戻せたはずだ。
フブキは歯を食いしばって呼吸を整えている。どこか近寄りがたい雰囲気があった。施しを拒絶してしまいそうな、痛々しさ。
間違いなく彼なのだが、ジュンの知るフブキとはどこか違うような気もしている。
「あの……」
フブキはジュンに注意を戻した。
「あんたは――?」
どう説明したものやら、ジュンは途方に暮れた。
自分は今過去にいるのではないかという推測は、きっと当たっているだろう。どのくらい昔なのか――ジュンが召喚される前の、どの時点なのか。もしかするとゼニアともまだ会っていないかもしれない。……これから会うのかもしれない。
「わたしは、」
突如、ジュンを引いていた力が、抵抗できないところまでその強さを取り戻した。
「嘘!」
力場が発生した。
周囲の景色が、飛ばされてきた時と同じように、歪み、塗り直され、滲んでいく。
その過程で、フブキは見えない力に弾き飛ばされてあわや川へ逆戻りするところだった。脚だけが再び水に浸かった。フブキは這って身体を戻そうとしたが、やがて力尽きたように倒れ伏せた。
ジュンは井戸の中へ――。
また、現実が一つの小さな粒となっていく。
地に足がつかない領域へと希釈されていく。
与えられた時間が尽きた。そのような予感がジュンの中にはあった。
何のために引かれているのか、それは引き戻されているからだ。元の場所に――ジュンは一時的にここへ飛ばされてきたにすぎない。これからジュンは戻っていく……それはいい。だが最大の疑問が残る。
ジュンと虚空で別れたあのフブキは――では、どこへ行ったのか?




