13-8 専門家への依頼
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ゼニアは中身が空になった杯を机へそっと置く。
フブキの目から急速に光が失われていき、身体からも力が抜けていった。だが完全にそれらの機能が停止するということはなかった。
ゼニアはフブキから降りて、成り行きを見守る。
あまり賢いやり方ではないということは、ゼニアも承知していた。
しかし、これまでの傾向から、他に自分しかいないこの場では――正体をなくしたフブキでも比較的安定するのではないか、そういう予測はあった。
道化師は体重を椅子の背へかけるがままにし、ゼニアは一瞬傾いたそれを支えた。
何やら不明瞭な声が、酔いの中から漏れ出ていた。
少しやりすぎたかもしれない、とゼニアは思った。フブキが酒に弱いのは本当だ。
「ねえ、大丈夫……」
この申し訳程度の気遣いが引き金となったのかどうかはわからないが、突如フブキの肉体は均衡を取り戻して椅子を離れた。
「――フブキ?」
返事はなかった。
代わりに、フブキは少し背筋が寒くなるほど滑らかにゼニアの懐へ入り込むと、
「あっ……」
という間に足元から掬うようにして抱き上げた。
「ちょっと……!」
「何が不満なんだよ。もうお姫様じゃないから、お姫様抱っこしてもらうの恥ずかしいか?」
「下ろして」
「すぐにそうするよ、元からずっとこんなもん持ち上げてられないんだ」
フブキは言葉の通りに、奥の寝台まで小走りにゼニアを運ぶと、半ば放り出すようにして下ろした。
「しんど……」
そして自分も乗り込み、寝具を沈ませた。
さらにはゼニアを跨いで、手を擦り合わせながら覆い被さろうとする。
最後にはこう言ったものである。
「おーし、やるか」
ゼニアは鞭のように手を撓らせ、強かにフブキの頬を張った。
返す刀で裏拳を叩き込む。
衝撃にフブキは跳び上がり、ベッドから転げ落ちて、一時見えなくなったが、すぐに這い上がってきた。
「おい! 二発目はやりすぎじゃないのか……。――何でこれで血が出てねえんだ」
唇を切っていないか、しきりに触って確かめている。
「おーいて……相変わらずあぶねえ女」
その物言いは暗に自分を乱暴者だと言われているようでゼニアを傷つけたが、少なからず当てはまっている部分があり反論の余地はなかった。
その代わりに悪漢を非難することで、帳尻を合わせた。
「前から思っていたけれど、あなたは本当に無礼ね」
「悪かったよ。それで、今晩は全く脈なしなのか?」
「気分ではないの」
「そうかよ。ったく……で? なにかい、俺はあいつの代わりに、あんたの酒のアテでも務めりゃいいのか?」
「あるいはそうなるかもしれないけれど……」
ゼニアは起き上がり、テーブルへ戻って半端に残っていた自分の酒を注ぎ足した。
そしてすぐに少し口に含んだ。舐めるような飲み方になった。
フブキはベッドに座ったままだった。
ゼニアはもう一つのコップを拾い上げて言った。
「あなたは? まだ要るかしら」
もう一人のフブキは拗ねたように言った。
「どーでもいいよ、もお」
「そう。――実は、二つ三つ、訊きたいことがあってお招きしたの」
「お、ま、ね、き? ああそぉお、誉れ高いことだねマジで。俺にお答えできることであればなーんなりとどうぞ」
求めに応じなかっただけでここまで臍を曲げるものかとゼニアは訝しんだ。
だがゼニアの立場としては、フブキに黙ってこのフブキと身体を重ねるというようなことは到底考えられなかった。当人同士で話し合ったというのならいざ知らず――この、理性をいくらか飛ばした状態を受け入れるわけにはいかなかった。
ただ、このフブキは一枚の札の裏側のようなものと思えば、不満もまた共有されているのかもしれなかった――普段のフブキが何も言わないだけで、こちらのフブキが不服そうにしているのは、単に隠蔽を剥ぎ取った状態に過ぎないのではないか。
自分自身がかけたある種の制約を解除されている、という彼の前提に立てば、尚のこと、この説は信憑性を持った。
フブキの心理の深いところでは、これもまた本心なのかもしれない。ゼニアはそのように想像した。さすがに確信までは持てなかった。
「私達の現状、把握していると思うけれど……どう感じているかしら。率直な意見を聞きたいの」
「どうって、大変だねえとしか……」
「そうではなくて、精神に干渉する専門家としての意見を求めているのよ。特にあなたは、例の実体と交戦もしている。その時に受けた印象だけでもいいから聞いておきたくて……参考のために」
フブキは腕を組み、難しい顔をして――それでもどこか、不真面目な雰囲気を漂わせていた。
「ま、正直なところ……俺はあの野郎が言ったことをまるっと信じてるわけじゃねえ」
「ええ、それは……そうね、あの人も、一部に欺瞞が含まれているという可能性は考慮しているけれど」
「いや、そうじゃねえ。俺はもっと信じてない。あの野郎が完成させたっていう技術の完成度そのものを疑問視してる」
「それって……」
「奴が本当の意味で増えているとは思えねえ」
「でも、同一と思われる精神を持った様々な個体を、あなたが観測してきたことは事実でしょう?」
「まあな。俺もむしろ、野郎が変身してるだけっていう見方には異議を唱えたいね。その線は……ないと思う。奴はエルフの精神に手を加えて、自分と同一にしてる。そこに間違いはないはずだ。俺が信じていないのは、あくまでその、精度だ。あの野郎が豪語するほどの完璧さってやつが、果たして本当に実現しているのか――俺には、どうも疑わしい」
「どこかに手落ちや欠点がある?」
「それは確かめてみないとわからない。けど、同じ魔法を使う身としちゃあ、人格の複製なんて、実現可能とかまず考えねえよ。難しすぎるだろう。何より、手間なんじゃないのかね。そういうことが出来たとして、どんだけ魔力注いでどんだけ集中力保って……この俺でさえ気の遠くなるような手順を、朝から晩まで繰り返し作業しても、まだ足りない」
「そういうものかしら」
「そうだよ。そういう世界だ。とはいえ、俺達は奴の女を殺したからな。怒りに身を任せれば、一見無理でも、意外とできちまうものかもしれねえな……」
「そうね。極度の怒りが、どれほどの災いを引き起こせるか――あなた達が証明しているわ」
「くく……」
フブキは皮肉げに笑った。
「野郎はやっと俺達と同じところまで降りてきたってわけだ」
その、俺達というのが、ゼニアも含むのか――問うのはやや躊躇われた。
怒りに我を忘れてもあの若者を討つことができなかった苦い記憶が、甦ってくる。
ゼニアは沈黙を保つことで、先を促した。
「しかし、すると――複製の複製っても、指数関数的に増えていくというほど単純な話でもないのかもしれねえな。魂削って造り出すんだ、量産に多少時間がかかってもおかしくない。今作ってる、あのふざけた銃みたいにな」
「やはり、数が揃うまでは、慎重に動いている……」
「そうなんだろうよ。本当は、この段階で俺達に手の内をバラす気は無かったらしいからな。やばいのは確かだが、野郎なりに、何か気を付けなきゃいけない部分ってのが存在するはずだ。突くとしたらそこだ」
「そうね。もし、解決の糸口があるとすれば――それはあなた」
フブキの表情が引き締まるのをゼニアは見た。
「それが本題か?」
「ええ。――風魔法だけでは、限界にぶつかっていると思うの。これからは全ての力を引き出す必要があるわ。あなたの助力が不可欠」
フブキは溜め息をついた。
「だろうよ。ボロフでの戦いな、精神に防御膜を張ってやらなかったら、あいつ負けてたぜ」
「やはり――やはりそうなのね」
あの時、帰還したフブキは、一部記憶の欠如がみられた。彼は秘かに、それがシン・ナルミによる魔法の悪影響ではないかと恐れていたが、ゼニアは早い段階でその可能性を消していた。より身近に、精神魔法家がいたからであった。
ゼニアだけが、このフブキの裏側を知っていた。
「いくら速くて強力な魔法を撃ち、それが読みを上回ったとしても、攻め手を工夫された時に受けきれねえ。野郎は手札が多いしな。危うく腕を失うところってさあ、俺の身体でもあるんだから、たまったもんじゃないわけよ。もう見かねて介入だよ」
「それは――あの人の代わりに礼を言うわ。窮地を救ってくれてありがとう」
「いいんだよ自分のことなんだから。ただなあ、露骨にやりすぎた……いやあの状況じゃ露骨にやるしかなかったんだが、あれで野郎は確信を持ったと思うぜ。今まで俺の存在が疑われていただけだったからこそ、奴の動きを牽制できてたものを……」
フブキは顎を撫でつつ渋面をつくった。
「いやでも、さすがに自分で自分に魔法をかけるってのは、やっぱりまずったよなあ」
「……今、なんて? 自分に精神魔法を?」
「そーよ、自分で自分の肉体の主導権を奪って、心の読み合いを制してだな、その結果を授けてやったんだよ。ふざけて撃っても面白いように当たるぜ。決まり手としては野郎に直接触れての思考汚染だ。上手くはいかなかったが、諦めさせるのには十分だった。そんで、自分にバレないように自分の記憶を消した」
「そんな。そんなこと……」
「できるんだなあ、これが。俺だって眠ってるばかりじゃねえさ。意識が表層に近くなってる時は自己流に修業してみたもんよ。使わずに終わるのが一番いいと思ってたがな……やっちまったもんは仕方ねえが、野郎は間違いなく対策してくるだろうから、その上で通用するかどうかは微妙なとこだな」
考えていたよりも複雑なやりとりを聞かされて、ゼニアは眩暈がする思いだった。
精神世界のことはあまりに遠すぎる。
「そういうわけで、野郎が大胆な戦法を編み出したのは、俺が手を出しづらいようにって考えもあると思うんだな」
「合点はいったけれど――まあ、いいわ、それであの男を追い返すのに成功したとしておきましょう」
ゼニアは呑みかけの杯を置いて、ベッドに戻り、腰かけた。
「わかったわ。それほどあなたの技術が円熟しているというのなら、話は早くなってくる――単刀直入に言って……そのやり方を発展させることで、変質した個体群を直接打ち破ることは可能かしら?」
「わかんねえ」
フブキは憮然としていた。
「俺は手札を切った後だ。足りねえんだよ。新しくカードを引くのに時間と材料が要る。それが良いものに仕上がる保証はどこにもない」
「でも、一度はとどめを刺しかけたでしょう?」
「さっき言ったろ、上手くいかなかったって。直接触れた時の攻防ってのは一味違うんだよ。奴の防壁を完璧に破れるかどうか、情報がよお……ともかく、計画を立てるとしても、もう一戦交えてからだな。それにだってまた準備が……」
「それでいいからやって」
「やってもいいが、それにはあんたの許可が必要だ」
「私の?」
「そりゃあそうだろう、ボロフの時は追い詰められて仕方なくだったんだぜ――あいつが弱ってたから出てくるのも簡単になったわけだが、能動的にやるとなると結構負担があるわけよ、互いにな。つまりあんたの愛するフブキは苦しい思いをすることになる。俺が大部分眠ってるところを、自発的に起きてくるんだ、きついぞ。それはそれは大変なひとときだ。わざと意識を混濁させようってんだから。はっきり言っておすすめできねえな。――それでもいいっていうあんたの許可がなけりゃ、とてもじゃないが、やりたくない。俺は我が身がかわいい」
具体的な想像はつかなかったが、とにかく困難であるということは伝わってきた。
苦痛を伴うということも。
「……なんとか……」
「なんとか?」
「なんとか、例えば、あなただけで事を成すことはできない?」
「無理だ。あいつに一発かましてやろうと思ったら、高い水準での適合が必要になる。俺は風の方は上手くねえ。だがあいつに近寄るのに上手い風が要る。俺とあいつの意識をいい感じにすり合わせて、強力な魔法を両立させる以外に道はない」
ゼニアは――迷ったが、迷った上で、しかし選択肢がそもそもないということを再確認しただけに終わった。
この男から、挑戦可能だという言葉を引き出しただけでどれほどの僥倖か。
「やって。場は用意するわ。整っているかまではわからないけれど。あなたは、ただ備えて」
「――請け負った」
フブキは念を押さなかった。
「早速取りかかる。寝ていいか?」
あまりにはっきりとした切り替えで、ゼニアは戸惑ったが、一度言った以上、もう任せるしかなかった。
「おやすみなさい」
「おう」
フブキは毛布へ潜り込むと、いくつも数えないうちに寝息を立て始めた。
これで手は打った。
ゼニアは、せめてもの褒美として、その身体を抱いて温めることにした。




