2-11 岩を割れ!
――が、その話をする前に、これはかなり大事なことなので挟ませてもらおう。
俺は参考程度に――もちろん純粋な好奇心もあったが――姫様とアデナ先生で一度模擬戦をやってみてくれないかと頼んだ。別に断られてもそれはそれで構わなかったが、やってくれるのであれば、この世界における達人同士の戦いというものを是非、一度拝見してみたかった。
幸運に恵まれたのか、その時は丁度二人共機嫌が良かった(!)。マッチングは実現し、俺はそれを高みからというわけではないが見物する機会を得た。
集合は練兵場の一画で、姫様があまり見られたくないって言うんで軽く人払いをした後、二人は互いに木剣を持って、青空の下向かい合った。
「さて、ルールは決めないといけないわね?」
とアデナ先生が言った。姫様は頷いた。
「熱くなり過ぎるといけませんから、魔法はなしにするべきでしょう」
「あら、ワタシの右腕もナシかしら?」
「いえ、それではあまりに面白くありません」
しかし、仮にアデナ先生がその気を起こしたとしても、今の彼女はもう念動力を戦術に組み込むことはできないのではないか、と俺は思った。鉄の依代があるとはいえ、腕と全く同じかそれ以上の機能を魔法で再現、維持するのはそれだけでかなりの離れ業に違いない。俺の風でそれと同じことができるかどうか考えてみても、かなり難しいと判断せざるをえない。
「ふーん……まさかこんな年寄り相手に本気でかかってこないでしょうね?」
そうなのだ。引退した直後ならわからないが、やはり今の彼女は老いて衰えているらしい(俺に実感はないが)。アデナ先生は自分の使える魔法のほとんどを腕に費やしているように思える。確かに倒れた俺を起こす程度なら造作なく両立できるのかもしれないが、果たしてそれ以上の芸当が今でも可能なのかどうか……?
「恩師に狼藉を働くなど、私にはできません。フブキが見たいと言うから少し踊るだけのことです、あくまでも」
「そうね。あとは……目玉を抉ったりするのもなしにしましょう」
決まり、のようだった。それで本当にルールが定まったと言えるのか疑問だったが、何度も手合わせをしてきた二人だろうから、俺が口を挟むようなことでもないだろう。
構えというものはなかった。
アデナ先生は俺にもそれを覚えろなどとは言わなかった。最初から諦めていたせいかもしれないが、どちらかというとそれが彼女の基本方針であるように思われた。
二人は既に始めていた。時たま剣をぴくりと震わせながら、もう円を描いていた。彼女達の判断材料すら、俺にはよくわからなかった。無造作にずん、と踏み込んでいって何もなかったかと思えば、まだ安全そうな距離から警戒して退いていくような場面もあった。
俺には二人が突然触れ合ったように見え――そして、突然離れたようにも見えた。
そこからが激しかった。二人は瞬間的に接近と離脱を繰り返し始めた。非常に短い間隔だったが、区切られていた。それしかわからなかった。必死に目で追うのだが、全然見えないのだ。どちらが優勢なのかもわからない。音から判断して、おそらく一回の接近につき数合打ち合っているとは思うのだが、全く、全く見えない。いや、振っている、避けている、そういうことはわかる。しかし、自分があれを相手にするという前提に置いた時――今、それがきちんと見えているとは言えなかった。せめてその兆候だけでもと目を凝らすが、彼女達は俺を嘲笑うかのように独特なリズムを展開していく。これが本気じゃないとしたら、と俺は思った。この二人は撓でだって殺しができるだろう。いや、徒手空拳でさえ危険極まりない女達だ。
いきなり、最終的に――アデナ先生は姫様の脇腹を蹴った。
何かが破損したと確信できる音が聞こえ、姫様は実に直線的な軌道で地を離れた後、全く勢いが殺されていない状態のまま石壁に激突した。石壁は衝撃でそこそこ大規模に崩れ、姫様は瓦礫の下に埋もれた。
いや、死んだろ――と俺は思った。
しかし、ババアやりやがったな、と俺が言う前に、姫様は瓦礫の山から出てきやがった。決してアデナ先生が掘り起こしたのではなく、完全な自力でだ。姫様から蒸気じみた魔力が立ち昇り、血に塗れデッサンの狂った姿を、まずは元に戻した。彼女はのっそりとそこから離れると、再び魔力を起こして、壁だったものをきちんと壁として復活させた。
「弛んでるんじゃないの?」
と先生は遠くから姫様に声をかけた。姫様は表情こそいつものように目立たせなかったが、うんざりしたように首を振って、
「どうやらそのようです」
と言った。異変に気付いた何人かの兵士が、言いつけを破ってその姿を現した。
また、こんなこともあった。
実は、岩を割れ、という課題を出されている。方法は問わないが、とにかくこの一ヶ月の間に、岩を割ってみろ、と。これは割と初期の段階で先生から言われていたことだ。大きさは特に指定されていなかったが、おそらく旅の途中で腰かけようと思う程度のそれでは、先生は満足なされまい。じゃあ、どのくらい? ――そんなもん自分で考えるこった、なのだろう。まあ、明らかに何らかのブレイクスルーを経由しなければならない大きさが想定されているのは確かだ。理由は後述する。
さて、どうやったものか見当もつかない。
だから、俺は恥を忍んで、姫様にお手本を見せてくれるようにお願いしたのだ。
しかし、それは全く参考にならなかった。
真面目に取り合おうとすると気が変になる類の問題というものがこの世にはあると思う。これがいい例だった。どんな具合か描写してみようじゃないか。
庭にあるいい形の岩を割ったらもちろん怒られるので、俺達がいるのは街の外にある丘だ。そこにはおあつらえ向きのヤツがゴロゴロしている。
そして、これで三度目だ。
「だから……こうよ」
と言って、姫様が無造作にも見えるような動きでストンと剣を下ろすと、それこそ紙束か何かのように岩は真っ二つに分かれる。
「……、無理だよ」
とても俺には無理だ。できるわけがない。できるわけがない! 何度でも大声でそう言ってやりたかったが、己の無力さを心へしっかり刻み付けるだけの結果に終わることは明白だった。やめた。
俺はその頃には取り組む意欲を完全に失くしつつあって、姫様はほんの少しだけだが自分にも責任の一端があるかもしれないと感じたらしい。そんなことしなくていいのに、彼女は柄にもなく言い訳じみたことを言った。
「……まあ、私の剣はいいものだから、普通よりは楽かもしれないわね」
じゃあそれ使わせてくれよ、などと言えるはずもなく、俺は姫様の次の言葉を待った。
彼女は手頃な岩に座ると、刀身に日光を反射させてから、こう言った。
「これは隕鉄からできているのよ」
「……それはそれは」
姫様にしちゃあロマンチックな由来を持つ剣だ、と俺は思った。
俺のいた世界でも同じことをやった人々がいたというのは知っている。日本だと榎本武揚だったか? 流星刀ってやつだ。ロシア皇帝の持っているヤツに憧れたって話。
その材料は極端に限られているから、畢竟、完成品は秘宝となりうる。姫様の持つ物も、不思議な紋様が眩しい。左右非対称でありながら、どこか幾何学的だ。
「ドワーフとの糸のような交易の中で、珍しく贈られてきたの。実験的な作ですが良い仕上がりとなりましたのでお納め下さい、なんて手紙が付いていたわ。ドワーフらしい丁寧な仕事の賜物だということは、見ればすぐにわかった。あの国でも指折りの鍛冶師による作だと知ったのは後のこと――」
ドワーフの国、グランドレンはもう長いこと鎖国状態にあるらしい。姫様の言うように全く出入りがないというわけではないようだが、地理的にもセーラムとはか細い繋がりしか持たないそうだ。エルフのマーレタリア国とはさらに薄い。
いつ果てるともしれない戦いを続ける二つの勢力を目の前にしているのなら、もっと違った立ち回り方もあるだろうに、と俺は思うが、人に訊いてみても、彼らの気難しさによって全てが説明できる、といった程度の論しか拝聴することができなかった。優れた製造技術とそれによる生産品には高い需要がある。このご時世では尚更のはずだが――まあ、そういう状況に巻き込むな、という主張であるとすれば、わからないでもなかった。自分とこだけで十分にやっていけるなら、それもありだろう。むしろそれこそが賢明というやつなのかもしれない。無論、憶測に過ぎないが。
それにしても、この世界のドワーフも鍛冶が得意という設定なんだな、と俺は思った。きっと、手先も器用な設定なんだろう。
「丈夫で、あなたも見た通りよく斬れて、信頼できる。言うまでもないことだけど、気に入っているの。色々なことに使った。でも、私はこの剣を使わなくても、岩を割ることくらいはできるわ。――証明してみせましょう。あなたの剣を貸しなさい」
その後、姫様は刃渡りの三倍はある大きさの岩も切ってみせた。彼女もまた、先生に同じ課題を出されたことがあるに違いなかった。俺もそれをやってみせなければならないのだ。
しかし、いくらなんでもこいつはフカしすぎじゃあないのか、と思う。姫様のやったことは、その目で実際に見ていても、あまりに――ハッタリが利き過ぎていたんだ。
その帰り、俺はまだ走ることまでは許してくれない相棒に訊ねてみた。姫様がさっさと城へ戻ってしまった後のことだ。
「俺にもああいうことができるもんかな……お前、どう思う?」
ぶひひん。
「だろうな」
彼はキップという名前で、歳は人間に換算すると二十歳そこそこだという。俺よりちょっとばかし年下だが、俺より先輩である。なかなか小憎らしい顔をしていて、言うことを聞いてもらうのに苦労する。
「お前のことも、もっと気持ちよく走らせてやりたいんだがね……」
こんな風に動物に話しかけるなど、ちょっと前までは考えられないことだった。そもそも俺は動物が苦手だった(もちろん人間も含めて)。寄るのも苦手なら触るのも苦手、とにかく対象が生きているというだけで、おっかない気分になったものだ。筋肉の動きや心臓の鼓動が何かの拍子に変質してしまうのではないかと、それが全て触った俺の責任になってしまうのではないかという危惧が、容易に恐怖を呼び起こす。生きているということは脆すぎる。そういう感覚が、俺にはあった。
だが、慣れるものだ。身をもって体験したせいだろう。その通り、実際に脆いということを、俺は理屈を使わずに理解できるまで死にかけた。
だから、痛みが存在するのだ。苦痛が、生存本能の鐘を鳴らさなければならない。必要な警報だ。それがあってなお、簡単に失われてしまう生命を保護するのに必要な警報――俺にも、姫様にも、アデナ先生にも備わっている機能だ。
だが、俺にはそれぞれが必ずしも同一であるとは、どうしても思えなかった。
俺は一つの仮説を立てた。
この世界の人間と俺は、その構造から全く違っている可能性が大だということだ。人種が違うとか、育った地域の特色が体質に現れるとか、そういうことではない。もっと単純に、この世界でヒューマンと呼ばれている生物は、俺が住んでいた世界で人間と呼ばれていた生物と比べて、ただ、頑丈であるという話だ。おまけに力持ちでもある。骨と内臓を著しく破壊された後に瓦礫の下へ埋もれて無事で、剣という単純な道具だけで岩を破壊できる人間を、俺は元いた世界では見たことがなかった。
同じ、と言えるのか?
見た目は同じようなものかもしれないが、中身が同じものだとまではとても思えなかった。地球と違う物理法則であるということは、まあ、もうそれでいいだろう。それは仕方がない。だが、こちらの方は実に由々しき問題だ。魔法なんかよりよっぽど注意して考えなければならないかもしれない。そう、成長率はこの際無視するとしても、だ……そもそもの天井の高さに差があるとしたら、どうする?
俺がアデナ先生の下で十年間の修業を積んだとしよう(もしかしたら終える前に婆さんはくたばっちまうかもしれないが)。真面目にきちっとやれば、おそらく俺は一人前となれるに違いない――しかも、それなりの一人前だ。だが、その後どれだけ研鑽を積んでも、それなりのまま終わってしまうような気がしてならないのだ――もちろん、単に俺という個体が優れていないからそうなるのだろうが、これには注釈を付けるべきではないか。俺という地球世界出身の個体が、この世界においては優れていない、という注釈だ。
あまりこんなことは言いたくないが、この世界じゃランボーやジョン・メイトリックスのスペックだって見劣りしちまうんじゃないのか? ケイシー・ライバックもだ。クラーク・ケントとまでは言わないが、キャプテン・アメリカやグリーン・ランタンくらいの虚構を引っ張って来ないことには、この世界は満足しないんじゃないのか?
地球人類じゃ鍛えられないところまで鍛える、あるいは鍛えることができるのがこの世界で活躍する最低条件だとしたら、どうだ?
わかりやすく言葉を当ててみるとすれば、才能限界点といったところだろうか。この世界のヒューマンは――おそらくエルフもドワーフも――それが最初から高く設定された個体に溢れている。資質、と口で言うのは簡単だが、実際にはこいつは月がスッポンになれるか? という種類の問題だ。
数字で表してみよう。俺をまず80/100とする。すると姫様は802/900、アデナ先生は全盛期を計算に入れて698/2437ってな具合だ。
――これじゃあ、上手くやるどころの話ではない。
俺は地面に手をつき、息を整えていた。どうしても傍らに転がっている木剣を拾えるだけの力が湧いてこない。アデナ先生に見下ろされているのがわかる。その足が遠ざかっていき、やがて椅子に座ってしまうまでを、ただ眺めることしかできない。
「てんでダメね」
と彼女はいつもの穏やかさを残す声色で言った。その通りだった。
「最初よりは動けるようになっているけれど、これでやっと素人ってところかしら。アナタ、一応闘技場で戦っていたわけでしょう? もう少し、こう、なんとかならなかったのかしらね?」
ならなかったのだ。そうはならなかった。
俺はようやく顔を上げてアデナ先生を見た。縋るように見ていたと思う。しかし彼女が俺を憐れむことはない。彼女が隙を見せたのは初日だけだった。今はもう、ただ穏やかな目で俺を見守っているばかりだ。
「いつまでもこんなことばっかり続けて、一体いつになったら魔法をやらせてくれるんだ――って顔してるわね」
いちいち、その通りだった。
どうしてそのことを考えずにじっとしていられるだろう? 彼女が俺の為に割いてくれる時間は、あとたったの二週間しか残っていないのだ。しかも、休日込みで。
「まあ、気持ちはわからないでもないわ。アナタにしてみれば、もうそれに望みをかけるしかないものね。個人的には、そんなことをするものではないと思うけれど」
そこまで言って、彼女は首を傾げた。
「ねえ……ワタシが見ている間、アナタはずうっといいとこなしだったわね。聞くけれど、そんな相手に武の奥義たる魔法の極意を教えられると本気で思う?」
思わない。ここまでくると、薄々俺もそれに気付かざるを――というより、向き合わざるをえなかった。
果たして、本当に魔法だけで何とかなるのか?
いや、本当に俺は魔法だけでなんとかするつもりなのか?
現実的な問題として、魔法は息切れを起こすのだ。走ったら体力を使うのと同じように魔力を使い、尽きてしまえば、自分の意思がどうであれそれ以上続けることはできなくなる。所詮は資源依存だということだ。
例えば風で刃を作って剣と同じように対象を切り裂くことができるとしよう。いや、実際に可能だと思うが、それこそ剣を振って同じ結果を出せるなら、その方が総合的に安上がりなのは明白だ。確かに剣術も体力という資源を使う。だが、あくまでも体力と魔力は――減れば疲れるのはどちらも同じではあるが――別系統の資源なのだ。
それぞれを有効に使えるのなら、それに越したことはない。
そして、おそらくこの世界で上に行こうと思ったら、そうじゃないと話にならないのだろう。この婆さんも姫様も、決して範囲攻撃に乏しいから身体を鍛えたわけではあるまい。理由はもっと単純だったのだ。それが前提だから――ただそれだけ。
もし俺がこのまま何も得ることなく実戦へと臨むことになったとしたら、おそらく身体能力で劣っている部分を全て魔法で賄わなければならなくなる。それでだ、控えめに表現して、か弱いお姫様やとっくに引退したババアのいる領域は俺から見ると――遥か高みに存在している。目的を完遂するまでの過程でそれと同等かもっとヤバい奴らと鉢合わせする可能性は決して低くないわけで、すると、俺は勝負に参加しようと思ったら、まずその分の魔力を財布から支払わなければならんということになる。
こいつはとんでもないハンデだ。
つまり、先生は俺に、前提から間違っていると仰られておるわけだ。
俺はゆっくりと首を横に振った。
「おそらく、碌な結果にならないでしょう」
先生は頷いた。
「じゃあ、ワタシの考えていることもわかるわね?」
「これ以上は無用、ですか」
「その通り」
俺は諦めたわけではない。
ただ、先生の仰られることの方が正しいのだ。
「普通ならばね」
――そう、通常、ならば。
実際、これ以上の鍛錬は無用なのかもしれない。そもそも上限やら何やらの設定で比べられないほど不利なら、争う方向で考える方がどうかしている。
だが、俺は争わないわけにはいかないのだ。姫様が争うのであれば、俺も争うしかないのだ。争う方向で考えるしかないのだ。
「どうも、アナタを仕上げるのに真面目な方法は合わないようだし――それなら、残り二週間も同じやり方で通すわけにはいかない。その棒切れを拾って、こっちに来なさい」
俺は言われた通りに木剣を拾って、駆け足でアデナ先生の前へ立った。
「何故ワタシがここまで魔法を後回しにしてきたかわかる?」
今回は、わかりませんと言うわけにはいかなかった。直感が答えを知らせていた。
「――竜巻のせい、でしょうか。私が最初に起こしたのは竜巻であると、姫様からお聞きになったから……」
「そう、本当ならアナタなんか教える気になりはしないのよ、ワタシというヒューマンはね……けれど、アナタが余所からやってきたという点だけは興味があるわ。余所からやってきたのに、魔法を使えるという点だけは」
当然、そこに賭けるしかない。
自分がこの世界の人間とは(悪くも良くも)似て非なる――ヒューマンもどきである、という部分に。ヒューマンと違っているから肉体的に劣っているのであれば、その逆もありうるのではないか――ということだ。
この世界のヒューマン以上の魔法適正。最後の希望はそこにある。
「いい? もしそれもダメだということになったら、アナタは全部ダメだということになるの。全部……全部よ。少なくとも、ワタシや――ゼニアにとっても、きっとね。あの子についていけないことがわかったら、アナタは一体どうするの?」
「……どうするもこうするも、私は姫様の道化師ですから、姫様の思われるようにお仕えするだけです、ダメでも。しかし、そのうち私にもう用はないと姫様が仰られるのであれば、その時は――いや、こんなことを考えても仕方ありませんし、もしそうなったとしたら私は姫様を……いや、いや、そういうことにはならないでしょう。なったとしても、姫様が私を処理するのは造作もないことです。アデナ先生、私がどうするかを決めるのは、私ではなくなっているのです。そうなってしまうには少し急ぎ過ぎたかもしれませんが――しかし、もう既に、そうなのです。どうか、姫様が私を必要としなくなった時のことを、私に言わせないでください。私はわかっています。そのことだけは、わかっているのです」
結局、俺は真に自分で物事を決めることができない。そうじゃないか、今まで一度だって自分で考えて進路を決めたことがあったか?
中学校までは義務教育だ。もちろん従った。高校への進学は、俺の場合は最初っから入れることに決まっていた――そのために中学受験をしたようなものだ。それだって、高校へ行けなかったらきっとひどいことになると、子供心に知っていたからだろう。大学だって同じ理由だ。あの国で大学へ行かなくても働ける奴は、何の職に就いたにしろ――適性があるに違いない。俺にはそれがないことは、自分でよくわかっていた。だから何とかして推薦の枠に捻じ込んでもらったのだ。少しでも人生をイージーなものとするために、という、それだけの理由で。腐っても進学校だ、大学へ行くことを考えない奴なんていなかったし、いたとしても、いない扱いだった。そんな状況でどうして自分の頭で考えられる? 大学へ行けなかったらひどいことになるのだ。それが全てだった。そして大学の三年間でほとんどの単位をなんとか取って卒業を控え、スタートダッシュを切る段階になっても、俺の思考はまだ、何かの職に就かなければ、というところから脱していなかった。何の職に就こうか、などという方向へ考えることはできなかった。俺には様々な意味で――その能力がなかった。そして、就職ができなかったら、ひどいことになるのだ。だが、そうやって繰り返し、ひどいことになると考えてきたのは――実は俺ではなく、他の誰かだった。他の誰かが考え出してきたことだった。
気付いた時には、後の祭りだ。いつものように。
方向を定めてくれる誰かが必要だ。
決してその誰かのせいにするためではなく、方向を定めてくれる誰かが。
今のところ、それは姫様以外にいない。姫様が俺のケツを叩いてくれる。
そうでなければ困るのだ。少なくとも今は。
本当にわかっているのかしら? などとは、もう先生も言わなかった。
代わりに頬杖をつきながら空いた方の手をひらひらと振り、
「ですから、」
「わかったから、そのへんにして頂戴」
少しの間、俺をじっと見た。
「座って」
座った。
「――それにしても、右も左もわからない相手に教えるのはいつぶりかしらね」




