12-22 どうしたらいいんだ?
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半ば放心状態でメリー・メランドを見送った。
マイエルの心にはいつまでもレギウスの残像が残っていた。あの、どこか卑屈な笑みが脳裏にへばりついていた。俺は行かない、という台詞が無限に残響していた。
これまでに生きてきた中で、最も予想から外れた。94番が初めて魔法の力を発揮した時よりも、遥かに受け入れ難い展開だった。
レギウスの拒絶は――マイエルにとって厳しすぎた。
何をする気にもなれなかった。何か他のことを考える気にもなれなかった。
終わった気がしていた。
そのうち、辺りが騒がしくなって、どうやら――ここを離れる、という雰囲気になったらしかった。建物の中だったが、マイエルは自分がどこに戻ってきたのかもよくわからなくなっていて、しばらく、メリーが隣界隊と共に引き揚げてくるのを待った。
だがあまりに遅いので、仕方なく、移動する兵士の流れについていくことにした。隊とは後で落ち合うつもりだった。
察するに、作戦はあまり上手くいかなかったのだろう。全体に――といっても、その時マイエルを取り巻いていたのは全軍の一部に過ぎなかったから、少なくともその一部の全体では――混乱が見られた。
ボロフを離れたことに、離れてから気付いた。どこか、廃墟というか、瓦礫の山のような場所の横を通って来たことは憶えていたが、実際、あれは跡地だったのではないだろうか? 何かが――それも見当はついたが――ボロフを更地にしようと荒れ狂い、マイエルは幸運なことに、その範囲外にいたのではないか。
命拾いをしたとは思わなかった。正直、別に――どうでもよかった。
徒労感がマイエルを包み込んでいた。現実に対して、真摯に取り組もうという気が失せていた。多分、今は他のエルフがそう言っているようにまずい状況で、彼らと同じように焦るべきなのだろうが、それを額面通り受け取ることに意味を見出せなかった。変な目で見られないようにそうした素振りをすることさえ、マイエルにはできなかった。
怪我した同胞を癒せとせっつかれるまで、じっとしているだけだった。
大変な数のエルフが運び込まれていた。
それで、マイエルの素晴らしい魔法の腕に期待して、重傷者がより重傷な順に並べられていた。
言われるがまま、マイエルは負傷者を回復させた。
最初のうちは、何も考えず、ただ反射的に魔法を行使したため、特に問題はなかった。自分はこのくらいのことならできる――そういった自信さえあれば、例え心ここにあらずでも、それは十分な力の根源になった。
治している間にも、マイエルは自分の世界で物思いに耽っていた。
どうして? 何故?
レギウスは説明はしてくれた。しかし、到底理解できるものではなかった。
もし――。
もし、レギウスの考えを覆すような、気の利いたことを言えたら……あるいは説得力のある行動が取れたら、彼はきちんとマイエルと共に帰還したのだろうか?
もし、そうだとしたら、どうして自分にはそれが実現できなかったのだろうか?
この問いを壁に発して、反響して返ってきた答えは、果てしない無力感だった。
治癒力が、がくりと落ちた。
初めそれは速度の低下という形で現れた。それ自体はこれまでにも経験のあることで、マイエルも疲れから魔法の質が落ちているのだろうと判断した。
だが、ある時、治療の完遂できない対象と出会った。
極端な話、生きてさえいればバラバラの肉体でも復元するマイエルにとって、これは異変と呼べる現象であった。
その次の対象も完治しなかった。その次も、その次も……。癒すことはできていても、それはマイエルの評判に期待される水準からは程遠いものだった。
マイエルは休息を取るように言われた。一度にたくさんの数を任せすぎたから、と。魔力が足りなければこうもなろう、と。
そんなことはなかった。確かに、かなりの数をこなしたとは思うが、魔力はまだ残っていた。魔法が翳っているのは、明らかに精神の均衡を崩したせいだった。
調子が戻ったらまた助けてくれ、と言われたが、そんな保証は、もうどこにもなかった。ひどい気分だった。
青空救護施設の隅で、マイエルはひたすらに頭を抱えていた。
どれくらいの時間が経ったろうか。
目の前に、また誰かが担架へ乗せられて、運び込まれた。
休憩時間は終わりということか。
しかしマイエルは、もう動く気にはなれなかった。
「――すまないが……もう少し放っておいてくれないか……。今……あまり役に立てないと思うし……」
「でも、あんたのとこに持って行くしかないって奴らは言うし……」
「どのみち後がつかえてんだ、こいつはここに置いていきますからね」
それだけ言って、荒っぽい初期手当てだけを施された物体を、運び屋は放り出した。
そして、忙しそうに去っていく。
血で染め上げられた包帯の塊を見下ろして、一瞬、誰なのかわからなかったが、そのヒューマンがシンであることを……辛うじて雰囲気から判別できた。
「どうしたんだ、その格好は……!」
返答はなかった。呼吸はしているようだが、意識があるのかもわからなかった。
マイエルはすぐさまシンに魔法をかけた。
努力したものの、やはり完全回復とはいかない……ただそれでも、シンが自発的に動き出すだけの効果はあった。
彼は頭に巻かれた包帯を剥ぎ取って、目を細めた。
「――まだ治っていないんだ。包帯の上からじゃわかりにくいかもしれないけど……」
「……悪いが、これ以上は余所をあたってくれ……」
シンは不思議そうにマイエルを見つめた。
「どういうことだ……? 治せない? オレはそんなにひどい怪我だったのか……?」
「違う……察しろ。私は……、無理だ、心が万全じゃない……魔法が、弱い……」
「そんな、いや、……そうなのか……」
苦しそうに起き上がった姿は何か言いたげだったが、諦めて再び横になった。
「これ……あちこち、傷を縫ってくれて、でも……雑で……。早く、糸を抜きたかった、けど……」
「今は、駄目だ」
「そうか……」
シンは黙り、マイエルの方から口火を切るしかなくなった。
「――負けたのか」
それ以外ありえなかった。
反応してシンはマイエルに背を向けた。そして、首を彼から見て縦に振った。
「なんて様だ、どうしたらそんなやられ方になるんだ。心を読めるんだろう!」
それにしても手ひどい。マイエルと合流できなかったら、すぐに死んだのではないかと思える怪我だった。
シンはまたしばらく黙っていたが、やがてこう答えた。
「読まれた」
「……え?」
「読まれた。逆に。こちらの考えていることを――読み取られた。そしてオレはそれを読むことができなかった。読まれていることを、読めなかった」
「――……すると……すると、何だ、もしや、例の――奴の中にいるという何かが、」
「途中まではうまくいってたんだ! 腕を片方もぎ取ってやった! なのに、そこから……あんなのは、自分を騙せないと成り立たない。あいつに邪魔された! あそこまで成長しているなんて思わなかった……。それをずっと隠していたんだ、気付かれないように……この、大事な時に出し抜けるように!」
いきなりシンは起き上がった。
「それどころか、あいつは、あいつ……オレの中を、中に……」
「心の中を――まさか、直接……?」
「いいや! いや、そこまでは、されてない。防いだはずだ。絶対に、防いだはずだ。だって、オレはまだオレだもの、防御はできてる。……ただ、あいつはそれをやろうとした……オレに触った。自分から、触ってきたんだ。自信があったんだ! それだけの自信がないとあんなことはできない……。あいつが、いや、あの人が、自分からやめなかったら、どうなっていたのか……」
「お、おい……シン、君は……」
「でも、わかったことが一つある。謎が解けた。はっきりした」
「何がだ?」
「――二人分だ。だから……魔法も二つだ。あの人は……二人なんだ。オレの魔法に抵抗しているのはいつも――言ってみれば、あの人の影だったんだ。でもあの影は生きていて、ある程度独立もしてる。だから本体への干渉も簡単にできる。そうやって自分をも欺いていたんだ。そのせいで気付くのが遅れた……」
「ちょっと待て、ちょっと待て! あまり一度に言うと追いつけない。――つまり、奴は、奴は精神を二つ持っているのか?」
「そうだ、多分……そうだ」
「多分って何だ!? わかったのかわかってないのかはっきりしろ!」
「繊細な問題なんだ。二人分っていうのは、あくまでオレ達外側の人間から見た場合の捉え方で、彼ら自身にしてみれば、一を二で割った状態なのかもしれない。一と一の二人と、二分の一と二分の一の二人だと意味が違う。それか、一枚のコインの裏表の話で、いつも見えていたのが表というだけの……いや、まさか裏をずっと見ていた……?」
「何でもいい!」
「ああ。とにかく、あの人は……普通の人間とは違う」
「――そんなことはわかってる! 奴は普通のヒューマンなんかじゃない! 今更そんなことを議論してどうなる?」
「違う、そういう意味じゃない……。あの人は、自分のことを、魔法を除いて平凡な人間――そうじゃなきゃ、単に劣った人間だと思っているかもしれないけれど、結局は……違うってことなんだよ。そういうのとは全然違う問題だ。でも、それがわからないままここまで来てしまった。誰にもわからなかった。自分でさえもわからなかったんだろう。彼は自分のことを騙しているか、自分のことを知らない。わかっていない。きっと知るための機会がなかった。彼の、元いた世の中では……。問題として、本当の意味では表面化してこなかった。あの人の、もっと別の部分ばかりが見られてたんだろう。そのせいで本当の問題に踏み込めなかったし、踏み込む気もなかった……そんなとこなんだろう。わかるかな」
「理解できない。その、分析めいたものも、必要とは思えない。奴のことを考えるのに必要な材料とは……思えない」
マイエルはそう言ったが、シンは少しも怯まず、真顔でこう返した。
「必要だったんだよ。それがあれば、あの人はああじゃなかったかもしれない」
マイエルは、得体の知れない気まりの悪さを感じた。それで話題を戻した。
「その話はやめだ。結局……わかった、なんとなく想像できた……君達の戦いがどういうことになったのかが。要は、君の魔法は、威力以外の面でも奴に負けた。通用しなかった。君は、奴に、通用しなかった! ……通用しなくなった。そういうことだな?」
シンが目を伏せる番だった。
「――そうだ」
「何もかもが悪い。悪いとしか言えない」
「何もかも。その通り。マイエルさん、あなたは……それで、どこに行っていたんです、あれから……何をしてたんです? どうして隊と一緒に、いないんです?」
「……レギウスを……連れ戻しに行っていた。少しの間、メリーを借りて。ヒューマンの野営地に忍び込んだ。彼女はそう言わなかったのか?」
シンは答えなかった。
「いたんですか? レギウス……さんは」
「聞くな。悪いとしか言えない」
マイエルはもう一度訊ねた。
「メリーは? 何も話さなかったのか? あの怪我で……君は自力では帰って来られなかったろう」
「いや、自分で……戻ってきた」
「じゃあ……メリーは何しに行ったんだ。隊は……でも、だって、君と組まないと、メリーは隊の全員を一度には運べないぞ。何往復もする時間的な余裕はあったのか?」
シンは答えなかった。
突如としてマイエルに閃きが降りてきた。
それは覆い隠されていたものだった。自分の問題について考えるのが精一杯で気が付かなかった。ここまで話題に出なかった方がおかしかった。
「――ギルダはどうした」
シンはマイエルに目を合わせようとしない。
「ギルダなら、君をあのままになんかしておかない。違うか? ……違うか!?」
シンは否定も肯定もしない。
「ああ確かに万全の私よりは治癒魔法が少々物足りないかもしれないがそれでも彼女ならやるだろうそういう女性だギルダは! よしわかった、それでも彼女は感情を押し殺して君を私に任せ、自分は隊の皆を治療するのに専念しているそういうことだな?」
シンの目から静かに涙が流れ、乾き切った血の跡に潤いを与える。
「――まさか、帰還していないのか? はぐれたのか」
「違う」
「じゃあ何だ? 君のことは私に任せて、誰かの治療に当たっているなら、後回しにしておくよう伝えてくれないか。先に知らせなきゃならないことがある。今後の方針に関わる重大な話なんだ」
シンは、
「レギウスの話だ」
シンは――、
「彼女は殺された」
マイエルは喋ることができなくなった。
「……入れ違った。オレとあの人は。オレとあなたが、全然違うことをしている間、フブキはギルダのところへ行っていたんだ。味方がやられるのにも構わず、オレ達の、急所を、狙った。空に囮を出して、自分は魔力も出さずに潜んだ。こんなバカみたいなことあるか? ギルダは死んだ」
シンは、両手で、自分の頭を潰すように掴んだ。
「オレは亡骸を手に取ったよ。わざわざオレに投げて渡してくれたんだギルダの、首をォ! それがどうなっていたかは聞かないでくれ!」
叫び声の切れ端が嗚咽に変わっていった。
マイエルは身体のあちこちから力が抜けていくのを感じた。筋肉の端々が仕事をしなくなっていた。座っているだけのことができず、地に手をついた。
悲しみか、驚きか。隆起した感情を言葉に変換する機能が損なわれていた。
「……じゃあ、どうなる」
ようやく、マイエルは間の抜けた調子でそのようなことを言った。
真っ先に、それが出てしまうことを恥じながら、思考は正直だった。
「残された私達は、どうなる。これからどうすればいい。どうやって対抗する」
シンは力なく首を振るばかりだ。
マイエルはもう一度言った。
「どうしたらいいんだ?」
返答はどこからも無い。




