12-18 納得のできない理由
「残る」
念押しまでされて即座に、どうしてなのか疑問が浮かぶ。
だがマイエルの口は、それ以上の衝撃によって閉ざされた。
「ここに残る」
予想していなかった。この返答は。
何故なら、ありえないからだ。
ヒューマンに捕まり、それも、自分達に恨みを持つ94番の手元に置かれ続けてなお、そこに残りたいというようなことがあるだろうか?
そもそも選択肢に出て来ない――そういうことを、レギウスは言った。
混乱がある。
しかしそれ以上に、マイエルの頭は理不尽さから来る怒りに支配された。
気が付くと、レギウスの胸倉を掴んでいる。
「ちょ、ちょっとちょっと……」
止めようとするメリーを跳ね除けて、さらに締め上げる。そのまま寝床に倒し、体重をかける。
「よせ……マイエル……」
「ふざけるな、このまま引きずってでも連れて行ってやる」
「やめとけ……」
「うるさい、この――ぐぶッ」
マイエルは決してレギウスを傷つけようとしたわけではないし、ましてや意識を奪うために苦しくさせようなどとは考えていなかった。
反対に、レギウスがマイエルの腹部に入れた拳の重い一撃は実に加減のないものだった。それで動きが止まり、さらに二撃目で完全にマイエルの腕からは力が抜けた。
その機をレギウスは逃さない。僅かに生まれた空間へ膝を捻じ込むようにすると、脚を伸ばして思い切りマイエルを蹴飛ばす。天幕の支柱に叩きつけられる。
「うわ、ええ……?」
戸惑いながらメリーが駆け寄ってくる。
「いや、いや大丈夫だ……私は。――っつつ……」
「ほんとにぃ?」
言うほど大丈夫ではない。特に内臓へ尾を引く痛みが、強がって隠せる程度ではあるが、立ち上がることまでは困難にしていた。
「――あのねえ、ちょっとあんた……!」
「おい」
激しい剣幕でもの申さんとするメリーに対し、底冷えするような声でレギウスは言う。
「寄るんじゃねえ」
メリーはぴたりと動きを止めた。
「それ以上近付くと痛い目に遭わせる。だから寄るな」
レギウスは、それから溜め息を挟んで、
「会いに来てくれたことは素直に喜べる……。本当に嬉しいと思ってる。けど、それとこれとは話が別だ。一緒に行くことはできねえ。悪いことは言わんから――すぐ帰れ」
そう言って、再びベッドに腰かける。
片手で額を掴むようにしていて、それはいかにも苦悩しているというような仕草で、
「それで……」
だからこそ余計に、マイエルを苛立たせた。
「それで、私が納得するとでも思ったのか! 理由を言え!」
レギウスはちらりとマイエルを見やる。
「理由だと?」
呆れたようにレギウスは言う。
「お前こそふざけるなよ。今更、俺がマーレタリアに帰れるとでも思っていたのか」
「何……?」
では、レギウスは戻れないと思って、こんなことを言い出したのだろうか。
「いや、帰れるだろう」
「帰れねえよ。帰りたくねえ。――いつか、今日みたいな日が来るかとは考えていた。返事は前から決めてたんだよ」
「だから、何故だ!? やっと、やっとここまで辿り着いたというのに、どうしてお前は拒むんだ……? こんなとこにいて何になる! ヒューマンなんかと一緒にいて、何が――何がお前を変えたんだ!」
「まあ、確かに俺は変わったのかもしれねえ。けどな、何になるかって点を言えば、マーレタリアに戻っても何にもならねえよ」
「生きて帰れる。それじゃ駄目なのか?」
「別に今も生きてるよ」
「だが、奴は、いつかお前を殺すだろう」
「いつかな。しかし不思議と――まだ生かされてんだ。捕まったばかりの時は、すぐにやられるかと思ったもんだ」
「それは、お前に苦痛を与えるためだけに生かしているんだ!」
「その通りだ。拷問はきついし、エルフが殺されたり使い潰されるのを見ていると、気が滅入る。かといって俺にできることはねえし、それどころか――」
レギウスは遠い目をした。
「なあ、マイエル、考えてもみろよ――あれから、どうなった?」
「どうなった、って……」
「逆転しただろ、戦況が。ヒューマン共がここまで攻め込んでくるなんて、想像したことあったか? もうすぐ滅亡するってところだったのによ、フブキの野郎が、何もかもひっくり返しちまった。その過程で、俺は奴に言われて色々やった。やりすぎた……。召喚装置を使えるようにしろって言われた時は悪い冗談だと思ったぜ。でも選択肢はなかった。俺は奴の命令に応えるしかなかった。結果、ヒューマンの同盟は、召喚魔法を使って毎日戦力増強に励んでる。兵隊以外にも使えそうな奴には何でもやらせてよ、豊かになろうとしてるよ。そうして得たもので、ここまでやってきたんだぜ。俺は、俺はよ――その片棒を担いだんだ。協力なんかせずに、あいつらの目を盗んで自分から死ぬとか、今考えると防ぐ方法はあったと思うんだが、しなかった。あいつが、フブキが手下を引き連れて暴れてるのは、割と俺のせいだよ。それなのに、どの面下げて戻れるっていうんだ?」
「しかしそれは……お前は脅されて……仕方がないだろう。誰だって、然るべき手法を使われたら、言いなりになってしまうものだ」
「ああその通りだよ。俺とお前にとってはな。他のエルフもこの境遇を不憫に思ってくれるとありがたいんだが――多分、そうはならない。同情はされねえ。違うか?」
「そんなことは……」
ない、とは言い切れない。
こちらでも、同盟軍に何が起きたのか、勘付いてはいる――レギウスの行いが糾弾される可能性は高い。
「かわいそう、で済ませるにはどうしようもないくらい、反逆しちまった後なんだよ。そして悪いことに、俺は自分のやった行為に対して、責任を取れるだけの力がないんだな。もう、魔力ある限り召喚装置は止まらないし、ヒューマンだけであれを運用できるように仕組みが確立されてる。仮に俺が戻って、マーレタリア中の金剛石をかき集めて、ギルダと二人で召喚しまくったとしても、全然、効率では追いつかない。竜巻を打ち消すこともできない。――勝ち目はない。勝ち目のない状況を俺が作った」
「……だから……だから、戻らないというのか?」
「そうだ。俺が戻っても何にもならねえ。俺とお前とギルダは喜ぶかもしれないが、言ってみれば、それだけだ。むしろ面倒な方面の、煽らなくてもいい感情を煽る。そうまでして、やる価値があるか? 俺は脱落者のままでいた方が、波風が立たない」
気が付かず、歯ぎしりをしていた。我慢ならない物言いだった。
マイエルは、この、奪われた友を取り戻すために、交流したくもないヒューマンと時間を共にし、調整役を買って出て、備えた。機を窺ってきた。戦場にも出向いた。
何年もかかったのだ。気の遠くなるような、大変な労力を費やして、そうして実った今日という日を――軽んじられたような思いがした。よりによって、救い出そうとしている相手に。
もう一度胸倉を掴んで、本気で殴りつけてやろうかという衝動を抑え込めたのは、この得られた時間のあまりの貴重さを、無駄にしたくないという、損益に対する怯えがあったからだ。マイエルは努めて穏やかに、反論を試みた。
「……召喚だけが……お前の価値じゃない。レギウス、この数年間、ヒューマンの領域で生き残ったお前の体験は、それだけで貴重なものなんだ。間者とはまた違った視点の情報が得られる。しばらく拘束は、受けるかもしれないが……それでどうこうしようなんて、同胞が考えるわけないじゃないか……」
「確かに、そういう楽観的な発想が無いわけじゃない……俺としても。でも駄目だ、オモチャを取り返されたとなれば、フブキは怒り狂う。今だって、マイエル、お前が手に入らないのを、あいつは不満に思っているんだ。絶対にややこしいことになる」
「だったら、お前を隠そう」
「逆効果だ。躍起になったあいつが何をしでかすか……。ただでさえ手に負えないんだぞ。エルフヘイムに隠されたものを探すとなれば、もうどうなってしまうか、俺にもわからん。そんな厄介の種を抱えていられるほど、今のマーレタリアに余裕があるとは思えねえ。情報ね……結構だが、聴き出せるだけ聴き出して、用済みになった後はどうなる? はっきり言うぞ……だったらいっそのこと消しちまうかと、考える奴は必ず出てくる。そんなところに帰れるかよ」
「考え過ぎだ! 命を奪われるなんてことはない。第一、それなら残った方がどう考えても危険じゃないか!」
ここで初めて、レギウスは薄く笑みを浮かべた。
「ところがどっこい、そうでもない……となったら、どうする?」
「何……?」
「まあな、死ぬかと思ったのは一度や二度じゃねえ。あいつらは拷問する時、必ず治療する手段も一緒に用意するが、やりすぎないとは言えないからな。ただ、一応、俺を殺さないように気を付けてはいるんだよ」
「それはそうだ……苦痛を与えることが目的なのであって、死なせては本末転倒だ」
「そう、それが答えだ」
マイエルの胸がざわついた。
この先を聞くのは望ましくない――本能的にそう感じ取ったが、レギウスの口を塞ぐには実力が足りない。近寄るなと言った以上、その決まりを破ればレギウスは宣言通りにマイエルを痛い目に遭わせるはずだ。
「それらしい理由を聞いて帰ってくれるなら、それでいいと思っていた。でもどうやら、駄目らしいな」
去る以外に、耳に入れないようにする方法は無いのだろう。
そしてマイエルは、それができない。
「お前は多分、心の底から俺のためを思って、ここまで来てくれたんだろう。嫌になるほどの手間を積み重ねてな。それに敬意を表して、俺がここを動かない本当の理由を話そう」
レギウスは目を合わせようとしない。指を組み、そこだけを見ている。
「あいつは俺に、一つの約束をした。――俺は、もし殺すとしたら最後だそうだ」
「……つまり、どういうことだ」
「そのままの意味だ。あいつはエルフという生き物を絶滅させるつもりでいる。それを俺に見届けさせようというわけだ。だから、裏を返せば、俺は少なくとも、全てが終わるまでは生き延びることができる」
「ちょっと待て、」
そんな、
「そんな理由で、94番の手元から離れないというのか……?」
「おかしいか? ここに残るのと、マーレタリアに帰るのと、どちらが俺の寿命を長くしてくれるのか、比べてみた時――結論として、前者が勝った。きっと、あいつはその目標を完遂するだろう。俺を苦しませるために。そして、俺を最後のエルフとして残すつもりでさえいるらしい。それも俺を苦しませるためにだ。長い耳の二足歩行文明が滅びた光景を、記憶する者が必要だということだな。俺自身もその役目を負うつもりだ」
「馬鹿な……」
まさしく、馬鹿な話だった。
「そんな運命を、一個体が受け入れられるはずがない! お前は騙されている! それこそ、用済みになれば虫けらのように消されるぞ!」
「ヒューマンの戦力増強という意味では、俺はもう役目を終えている。それでも生かされているんだから、あいつは、自分で言い出したことを守る気じゃないかな。しかもマイエル、実は、この約束は俺だけのものじゃないんだ――お前も含まれている」
「……何だと……?」
「俺とお前で、寿命分の生き恥を晒す――あいつが望んでいるのはそういうことなんだろうな。ギルダも仲間に入れてもらえる予定だから、まあ……祖国は滅びるが、俺達は生きていられる、と、そういうことになりそうなんだ。だから、下手なことをしてフブキに思い直されるよりは、当初の予定のまま進めてもらった方がナンボかマシかもしれねえわけだ」
信じられなかった。
94番の提案自体もそうだし、それを受け入れるつもりでいるレギウスに対しても、マイエルはどこか遠くの出来事のような――おそらく実際にそうなのだろうが――如何ともし難い隔たりを覚えた。
考えないようにしていたことだが……やはり、あの気の触れた道化師のもとに長期間囚われ続けたせいで、レギウスの精神は崩壊し、発狂に至ったと解釈するしかないのだろうか?
「そんなもの……奴の一時の思いつきに過ぎないじゃないか! 自分の言ったことなど、忘れているに決まっている! 何を縋ろうとしているんだ、目を覚ませ、思い出したように殺されてからじゃ遅いんだぞ!」
「それにな、あいつらは、何だかんだ言って俺の仕事を評価したよ。待遇が良くなるとか、そういうことはありえないが、俺の魔法にどういう価値があって、どういう効果が生まれるのかについては真剣に検討していた。現実に適用する気もあったし、事実そうなった。これはマーレタリアにいた時は起こらなかったことだ」
「レギウス!」
「あいつらは俺を大事に使ったりはしなかったが、それでも重宝がられるのは、悪い気分じゃなかった。もちろん、利用されているだけだということはわかっていたさ。同胞殺しに手を貸しているんだということも。だがな、埋もれてはいなかった。日の目を見ないままということは、なかったんだ」
「やめてくれ! そんなことは言わないでくれ! お前ならいつか成功したはずじゃないか! 奴さえ……あそこで歯車が狂いさえしなかったら、マーレタリアでも、私達はやっていけたはずだろう!?」
「その可能性を論じるには、もう遅すぎだな」
レギウスの笑みは、自虐的なものに変わっていた。
「色々考えたんだ。これでも」
納得などできるはずがなかった。
しかし、その一方で――もうマイエルの待ち望んだ瞬間は来ないのだということを、頭のどこかで了解してもいた。
事が速やかに運ばなかった時点で、成るわけがなかったのだ。
だからといって――、
「ギルダを裏切るのか」
どうしてすぐ、引き下がれようか。
「私よりよほど、お前を、取り戻そうと……」
真実は、ヒューマンの男に転んでしまうような惨状だが、もうマイエルには、このような方向で気を引くぐらいしか、思いつかなかった。
レギウスが何も言わないのは、それを見透かしているからか。
じっと、辛抱強く成り行きを見守っていたメリーが首を振る。
「もうダメ。絶対に動かない。これ以上、ここにいても無駄」
今度こそマイエルを起き上がらせようとする。
「戻らないと……」
「待ってくれ、メリー、まだ話さなければいけないことがある! 山ほどあるんだ」
「悪いが、俺の方にはもう、ねえ。お嬢さんの方が正しい。そのうちマジで巡回の兵が来るかも知れないんだから、ここで切り上げておけ、マイエル」
「駄目だ、駄目だ駄目だこんな終わり方でいいわけがない! 私のやってきたことは、それでは何のために」
「俺は謝らねえぜ、マイエル。その方が俺を憎めるだろうからな。せいぜい、達者で暮らせよな」
メリーが魔力の燐光を発する。
「暴れないで……」
「――レギウス! 私はまた来るぞ! 絶対にお前と再会してみせる!」
「……俺もそう祈っているよ」
懐かしいエルフの輪郭が、景色の中に溶けていく。そして戻らなくなる。




