12-15 星々の瞬き
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もう一度直視すれば、間違いなくシンは嘔吐するだろう。
それはギルダだった。布の中身はギルダだった。
面影の大部分を削られていたが、それは――ギルダなのだった。
こんな発想があるのかとシンは思った。こんな、おぞましいことを考えつく者が存在するのかと――シンは思った。
無理だ、という自分の声が脳裏に残響している。これを現実と思うのは無理だ。耐えられない。これは悪夢であってほしい。どれだけ長く感じてもいいから、目が覚めれば何もなかったことにしてほしい。
これをどうすればいいというのか。
夢でないのなら、これにどう対処すればいいのか。
どう消化すればいいのか――わからない。
こんなことになるなんて思ってもみなかった。
別れの時間すら与えられないなんて、本当に考えてもみなかった。
そんなことは起こらないと思っていた。許されないと思っていた。
許されないことは実現しないはずなのだ。
世界はそのようにして回っているのだから。いるはずなのだから。
フブキはセーラムの王女に何か話しかけている。
あの背中を刺さなければならないのに、そのための気力が足りない。
今すぐあの人でなしを消滅させなければならないのに、活力が湧いてこないのだ。
打ちのめされている自分を感じた。この事態を前に、活動のための理由を失いかけている自分を感じた。ギルダがこうなってしまっているのに、戦うとか、そういうことに、何か意味があるのか? 自分が何かしなければならない理由が残るのか?
シンは本能的に、取り落とした包みをもう一度掴んだ。
その頭蓋に宿っている精神を探索する。
今まで、ギルダの心を覗いたことはなかった。
もしも、ここで、こんな形で別れてしまうのなら、内側に触れたかった。
欲望がそうさせた。
そこには温度がなかった。
それに何も見えなかった。目が慣れてくるまではそうだった。
音さえ無い。注意深く、膜のようなもので自己をコーティングする。
身を守らなければ、シンの精神も危険な状態になる。
心が始まる前――あるいは終わった後。
そこは引き裂かれた魂の残滓が、宇宙空間に漂う星屑の如く瞬いているだけの場所だった。心を操る術に熟達したシンにとっては、一見、輝きに手が届きそうな気がするのだが、コンマ以下以下以下以下何秒につき何光年という速度で暗黒を駆け抜けても、一向に辿り着く気配がしないという場所だった。
シンがもがいている間にも、それらの輝きは闇に塗り潰されていく。
死んではいない。少なくともギルダの精神は、完全に消滅してはいない。
遠くに見える輝きのある限り、そこにギルダの存在は証明されているはずだった。
あの欠片一つ一つを繋ぎ合わせれば――もう一度、一つに組み直すことが出来れば、ギルダを引き止めることができるのではないか? そう思った。自分が精神を修復し、マイエルが肉体を修復すれば、ギルダは復活できる。その可能性はある――あるということにするしかない。
だが、あまりに広大だった。
人の精神が、いや、もっと高度な構造を持った生物の内面でさえも、最終的にはこの空間で形を保つことはできないと、シンは思い知らされた。生命活動に必要なものがなかった。光、空気、水、熱、土――その他あらゆる、記憶の中にあるべきものが残っていなかった。こういう状態で、そもそも精神魔法の力が及んでいること自体が奇跡のようなものだった。普通、記憶といったものは、どうあれ、何かに満たされている。
ここは空だ。
空に――なろうとしている。
シンは消滅の前の、ほんの一瞬を、自分の魔法でかろうじて観測しているにすぎなかった。それが限界だった。その程度の精神魔法家だった。あの輝きが本当にギルダの欠片なのかどうかも判別できない。手が届かない。
もうすぐ、空間が閉じる。見えていた星々も、一つ残らず潰える。
おそらく完全な闇になった時、既に天地を見失っているシンは、前後どころか、己の輪郭をも見失うはずだ。出る手段も失われるだろう。どこかで見切りをつけて、去らなければならない。
未練しかなかった。
シンは初めて本物の無力さを感じていた。
これまでも、目的を達成できなかったり、フブキに敗北する度に、力が足りないと感じたことは多々あった。だが、自分に何も無いと思うことまではなかった。
シンには、あの北極星のような欠片へ向かって航行する能力すら無いのだった。
今、それは――何もできないのと同義だった。
一つ、また一つと消えていく光を、シンは見続けた。
最後の一つになるまで待ち、そして、現世に戻った。
どれほどの時間が経ったのか、それこそ天文学的なスケールを過ごしたような気がしていたが、どうもまだ戦闘は終わっていないらしかった。周りは騒がしく、形勢も特に変わらないまま、飽きもせず――世界はとっくに終わってしまったというのに。
「大丈夫か? 体調悪そうだけど……」
もちろん、イガラシフブキの目に同情の色はなかった。
シンは魔力を練り、この男の内面を見ようとした。
彼もやりすぎたとは思っているようだった。ただ、それは例えるなら、とんでもない田舎者が都会人の目の前でいきなり鶏をシメてショックを与えてしまったことに対してやりすぎたと感じるようなもので、殺害それ自体はどうとも思っていないのだ。
死にたかった。
この男の存在を許している自分に、生きている価値はないと思った。
この期に及んで恐怖を感じているのも、情けなさを強めた。どうしても、怒りよりそれが先に立っていた。本当なら我を忘れて襲いかかるような場面だが、シンは立ちすくんでいた。
自分が虐待されたというだけのことで、これほどの悪意を撒き散らせる――そんな相手に立ち向かえる気がしなかった。精神構造が違い過ぎる。関わり合いにならない方が身のためだとすら思えた。
「消えてなくなりたいってツラしてんな」
それでも逃げ出さずにいられるのは、ギルダが見ているからだ。
あれを……あの布の中身を、捨てていくことなんてできない。
「でもダメだぜ。仇を取りに来いよ、俺はここにいるぞ」
そう、この男の言うことが正しい。
視界が涙で滲む。
「――こんなことになってしまって、もう、元に戻らないじゃないか」
「そりゃそうだろ」
突風。
砂埃が吹きつけてくる。シンは顔を両腕で覆った。
突き刺すような思念が伝わってくる。無意識に対応してしまう。
風の中に層が見える。爪のように尖った大気のうねり。つまりそれがイガラシフブキの魔法によって仕組まれた攻撃。右上から振り下ろされるそれを後ろに跳んで避ける。地面が抉れ、それがそのまま無数の礫となって飛来する。
氷の大盾を生成。その後ろに隠れてやりすごす……。
「やる気があるのかないのか、はっきりしてほしいね」
「オレはもう……これからどうしたらいいか……わからないよ……」
「ないなら命置いてきな。俺はお前と遊ぶどころじゃなくなったんだ。隠れてやがった奴等もまとめて掃除しなきゃならねえ」
闘志は失せていた。
だがそれ以上に、この災いを野放しにしておくことの不道徳さを認められない。
「どうなんだ? 戦う気があるのかないのか」
「――言っただろ……決着をつけるんだ……!」
恐怖がある。
おそろしいものは、排除しなければならない。
とにかく、フブキが影響力をもっているうちは、マーレタリアが大軍として勝っていてもそれをひっくり返される可能性が常にある。シンが注意を引いておかなければならないし、可能な限りダメージを与えておく必要がある。
浮遊した状態で戦うのは地上の兵士を巻き込まないためにはほぼ必須の条件。
風魔法の専門家である向こうとしても、空は自分のフィールドだという自負があるはずだ。隙があるとしたらそこ――。
正直、頭はあまり回らない。
今の精神状態で複雑な作戦を立てて通用するとも思えない。
力比べに持ち込むのは向こうを有利にするだけだが、今は敢えてそうさせる。空に追って来させる。ありったけの牽制を撃ち出す。氷でも岩でも炎でも六角ボルトでもキャンディーでも何でもいい。その上で、相手の視界から外れるように動く。自分が戦闘機になったつもりで速度を上げ続ける。ドッグファイトを仕掛ける。
「何だァ? 随分ストレートな戦法だな!」
フブキは全てを吹き飛ばしながら迫ってくる。最高速も加減速も旋回性能も何もかもが上だ。すぐに後ろを取られてしまう。思考を読んで先手を打ってさえそうだ。引き離すことができない。
こうなるともうシンに残された手は逃げることだけ――巧妙に、逃げることだけ。
一直線に飛ぶことも、緩やかに弧を描くこともしない。
ひたすらに方向転換を続ける。空の上下がわからなくなるまで、ねじれたルート取りに徹する。フブキが遠くから自分を見ないようにする。できる限り近くで、消えては視界の中に入れ、消えては視界の中に入れるように誘導する。
その感覚を馴染ませたところで、地面へ向かって急降下する。
フブキもそれを追ってくるのがわかる。
魔法を切り替える。
自分の周囲の重力を操作する――最大範囲で影響を及ぼす。
反転させて、空へ落ちていくようにする。
「な――」
自分も空へ振り向く。
フブキがどの方向へ風を吹かせるべきかわからず、混乱しているのがわかる。
何が起こったのか、直感的に気付けたとしても、地面へ向かって飛び上がろうとするのは難しい。
シンの魔法は、フブキほど特化したものではない。しかしレパートリーは上だ。勝負するなら隠し球。
ここで生まれた隙を無駄にはしない。フブキは照準も定められないだろう。この感覚にすぐ慣れるのは不可能だ。シンでさえかなりの訓練を要した。
魔力を集中し、一気に重力を偏在させる。フブキの右腕が吸い込まれるように――もしくは押し潰されるように。
小規模かつ瞬間的だが、手応えはあった。続く破砕音で命中を確信する。
「――がっ、ぐ……うぐォあァアッッ!?」
すぐに脱出したのはさすが。だが、一歩遅かった。
何ヶ所かの開放性骨折が目立つ。フブキの片腕は完璧に叩き壊されていた。まだ肩に接着されているのが不思議なくらいである。
「あぐォ……あア! ぎ……がァああぁ!」
「捕まえたぞ……やっとあんたを……」
「クソがあああッ! ふざけやがってえええええ――いでえ、いだ、い――ぐァ……」
フブキは怒りに任せて致死的な威力の風を出鱈目に撃ちまくり始めた。それはあまりに激しく、地上にまで到達していた。とても追撃どころではなかった。シンは自分の身を守りつつ、エルフに被害が出ないよう立ち回ろうとしたが、ある種無意識の混じったその攻撃を防ぐのは困難を極めた。
ひとしきり空中でのたうち回った後、フブキは殺気に満ちた形相を浮かべた。
「容赦しねえ……もう容赦しねえッ……!」
このアドバンテージが却って道化師の魔力を高めたようにも感じられたが、与えたダメージは本物であると信じて迎え撃つほかなかった。




