10-8 退きの際
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その日も十三賢者は揃わなかった。
本日の議題は、議題というよりは――ここ最近の会議はほとんどそうだったが――催促と糾弾であった。
「いい加減、負けと退却以外の報告を貴様の口から聞きたいところだな、え?」
内務代表が、力なく発言する。ジェリー・ディーダ元帥へ向けてのものだった。
後に続く者はない。賢者の森が囁きかけてくることもない。
欠席者は教育代表と生産代表だけだというのに、まるで古式な葬儀のように重苦しく沈んだ雰囲気が場を支配しており――これも最近の会議によく見られる特徴である――その静けさが誰の物でもない強烈な圧迫感を持って、賢者のほとんどを苛んでいた。
ディーダはただ非難を受け止めるがままにしている。反論することもなく、謝罪をすることもなく。最早そのような言葉をかけたところで、何の慰めにもならず、仲の悪い内務代表が溜飲を下げる材料にすらならないということを知っているからか。
それとも、
「方針は変えない。退けるところまで退く。説明したはずだ」
ディーダ自身は撤退を繰り返す今の状況を一応の正着だと考えているからか。もちろんその選択を強いられている時点で最悪だが、どう戦おうとしたところで敗北の目が見えている以上は、今ある戦力の大部分を温存、いや保護するしかないというのはマイエルにさえわかる道理ではある。このような情勢では仕方がない部分はある。
だが、この男の決断がマーレタリアという国の大部分を消したのは事実なわけであり、それはこうして輪になって座っている今この瞬間にも続いている。意図を敵に悟らせないよう、多少の押し引きこそしてはいるものの、それとて明確な捨て駒を出す用兵術である。ディーダ元帥の判断は素早く、ある意味敵よりも非情と言えるものだった。
彼は、軍属以外の、いわゆる一般市民を全て見捨てる方針を打ち出した。
正確には、行軍について来れない者は容赦なく置いていくというものだが、通常の倍近い速度での撤退事業の中で、それは見捨てたも同然だった。難民として後方に逃れることさえできないのが何を意味するか――ヒューマンの軍勢に追いつかれることが、何を意味するか。あの国々で、今何が行われているか。知らぬ者も少なくなった。
口減らしだ、とディーダが説明した時のことが、まだ印象に残っている。
現在支配している土地さえ先に放棄しての撤退である、当然、これまでその土地から得られていた利益さえも諦めなければならない。
セーラム首都の目と鼻の先にあった都市、メイヘムを取り返された頃は、またすぐに押し戻して奪えると考えられていたため徹底されていなかったが、現在ではほとんどの街や村は、放棄される前に焼かれる。資材や財産は持ち出せる分だけ確保し、それ以外もやはり焼く。備蓄されていた食料も、軍に供出し、出発の前には食べられるだけ食べ、旅の糧として背負う。背負い切れない分は、やはり焼く。
それでも、脱落者が出る。
否、脱落者が出るように退く。
むしろ――脱落者が出るまで退くのだ。
夥しい数の難民を生き残らせて、それで一体、彼らに何を施せよう?
暮らし続けろと言えるのか? どうやって、という言葉が必ず返ってくるのに?
武器を取って戦えと言えるのか? 魔法使いですら殺戮される戦場で?
耐えるしかない状況下、彼らは本当に不満を何らかの形で表現しないと言えるか?
その事実を無視して彼らを生かそうとした場合、待っているのは、反攻の狼煙さえ風に吹かれて消えるほどの、迅速な破滅である。
篩にかけるというのですらない。初めから生存を許されるのは軍隊のみであり、生産力も潤滑力も失った民は、残酷な言い方をすれば、ただの重りに成り下がったのである。彼ら難民は――本当に悲劇的としか捉えようがないが――エルフ民族の重りとなってしまったのである。その重りが、歴史上類を見ないほどに膨れ上がっていたのである。
皆、それは認めていた。国という船の舵を取る指導者の集団として、それを認めないわけにはいかなかった。国は民によって構成されているが、全ての民ではない。全ての民を救おうとして全ての民が破滅するのであれば、多くの民を破滅させてでも残りの民を守り抜こうとするのは道理である。
ディーダの言ったことは正しい。出せないものは出さない。
絶対に出せないものを出そうとすることの方がよほど狂気である。
特に生産代表と流通代表はそのことをよく心得ていたようだが、ディーダと違っていたのは、少なくとも――それが例え演技であったとしても――動揺を表に出したということだった。それほど恐ろしい考えを、民を食わせる専門家である両名より先にディーダが示したのが信じられないとも取れた。
あるいは専門家でないからこそ、元帥はいち早くその冷血な案を検討したのかもしれなかった。どのみち、他の代表に比べると、ディーダは何の葛藤もなく問題を取り扱っているように見えた。心を覗く手段は限られているということを差し引いても、身を切るような思いを軍務代表からは感じられなかった。時に賢者は非情にならねばというのは古くからの教えでもあるが、それは情というものを捨て切れないからこそ押し殺さねばならぬ時を覚悟しろという意味である。それこそ演技でもいいから、苦渋の決断を下したふうに装ってもいいのではないかと思われた。
実際に事が始まってみると、そうした、以前の印象がはっきりと輪郭を持って立ち上がり、影響してくるのである。
「結局、身内がかわいいだけだろう」
内務代表が詰るのも当然であった。
「最近は、貴様にエルフの血が通っているかどうかわからなくなってきたよ」
最大級の侮蔑にも、ディーダは動じない。
「これでは、何のために貴様を椅子に戻したかわからん」
――世界樹の一件は、悪夢としか言いようがなかった。
今でこそ、おそらく誰がやっても、あの構図に突入した時点で勝利を手にすることはできなかったと言えるだろうが――ともかく、敵の数を見誤ったという点を責められ、ラフォード・ゼイラブは就任早々、元帥の位から降りることを余儀なくされた。
まさかディーダを降ろした直後にそれ以上の大損害が発生するなどとは、誰も、夢にも思っていなかった。オーリンでの戦いはヒューマン側にも相当の死傷者が出たはずだが、今日の状況を考えれば、それは奴らにとっては許容できるものだろう。
ゼイラブはあまりに運が悪かったとマイエルは思う。敵軍が予想より多かったというのは問題の本質ではない――だが、運の悪さがそのまま結果の悪さにも繋がった。マイエルはここへ出入りするようになって、賢者もヒステリーを起こすことを知った。
ある代表の言葉を借りれば、認められない、と――そういう類の結果だった。
矛先は召喚代表であるギルダとマイエルにも向かった。鳴り物入りで登場させた客人の活躍は、期待を遥かに下回っていた。特にシンの戦績に問題があった。
だが、マイエルにとっては他代表から責められることなど何でもなかった。言われるまでもなく、状況の深刻さを肌で感じてきたのだから。もっと直接的な恐怖に睨まれていれば、どれほど口汚く罵倒されても、勢いを削がれて聞こえるものだ。まだ少女であるギルダを庇わなければ、という以上の認識にはならない。
あの展開から、オーリンで94番と出くわさなかったのは奇跡という他ない。
「退いて、退いて、いつ攻勢に出られる? 一体いつになったら、我々は住処を奪われた同胞を元の場所へ戻すことができるというのだ?」
それを聞いてディーダは何か言おうとしたが、内務代表は先回りしてそれを制した。
「僅かしかいなかったとしてもだ!」
その響きには、普段の軋轢を越えた痛ましさがあった。
「いつになったら、風使いの脅威を取り除ける? 奴はもうずっと、やりたい放題ではないか!」
今や、道化の風使い、94番の悪名は遍くエルフの知るところとなっていた。
竜巻を引き連れて戦場に現れる死の象徴、天を支配する災厄。
ただ強力過ぎる空気の動きが全てを防ぎ、全てを貫く。
口笛の音色は絶望をもたらす。
「奴を倒さん限り、未来はないのだろうが……! いつだ、いつ仕留めるつもりだ?」
ディーダは簡潔に返した。
「彼の調子次第だ」
「――またそれか……!」
歯ぎしりの音がここまで聞こえてくる。
「そうやって、あの小僧を客扱いして何になる!? 今すぐにでも出撃させて道化の首を取って来いと命じるべきではないか! 違うのか!? 炎使いだけでもそうさせろ。何のために飼っているのか忘れたとは言わせんぞ……94番に引導を渡せると言うから、我らはあれの存在を認めたのだ。そうでなければヒューマンの餓鬼になど頼るものか! 戦に役立たないなら、ゴミだ! 本来ならば処刑して当たり前なのがわからんのか?」
この場にシンを連れて来ないようにしたのは正解だった。
「彼らは役に立っている。間違いなく。ただ、94番にはぶつけられない。まだ早い。そうだな? アーデベス卿」
「……その通りです」
「遅すぎるのだ! 何もかもが……いつまでもヒューマン共の蛮行を見過ごすつもりなのか……?」
久々に出席していた財務代表が、我慢できないといった様子で後に続いた。
「奴らは、その、我々の同胞を処理……する施設を建てたというではないか」
「なんておぞましい……!」
環境代表も頷き、恵まれた体躯に似合わぬ震えを見せている。
「どうにも、ならぬのか?」
疲れたように、法務代表の老婆がそう呟くと、ディーダは答えた。
「俺達エルフの力をもってしても、災害には立ち向かえんということだ。災害に対しては……避けるか、耐えるしかない」
いくら喚いてみたところで、そこに帰結する。手段と言えるものがない現実。
圧倒的な暴力の前に、マーレタリアは試されていた。
「貴様は無能だ」
呪詛のような内務代表の言葉を、ディーダは肯定していく。
「そうとも。俺達は無力だ。今更確認するまでもないことのはずだが」
内務代表は目を伏せた。
「さあ、いつまでもここで管を巻いているわけにはいくまい。仕事が終わっていないのは俺だけではないはずだ。終わりようがないだろう?」
解散した後の去り際、マイエルはバーフェイズ学長と目が合ったが、老エルフは小さく首を振ると行ってしまった。誰も彼もが一気に老け込んだように思えた。
学長はシンが94番に敗北したという報告を聞いた時、明言こそしなかったが、深い失望を示していた。負けた事実そのものよりも、94番がシンの成長性を折ったように感じたのが堪えたのかもしれない。帰還直後のシンの精神状態はひどいものであった。
「早くシンのところへ帰ってあげないと」
会議では一言も発さなかったギルダが、やっとそれだけ言った。
「そうだな。……一応言っておこうと思うが、他の客人の面倒を疎かにするなよ。君は賢者の一員だ。召喚したものを管理できなければ、すぐに元帥のように糾弾されるぞ」
「わたしが、みんなに注意を払わなかったことがありますか?」
「ないよ。ないが……」
「大丈夫です」
ギルダがこの若さでよくやっているのは確かだった。
シンの精神魔法の助けもあるとはいえ、未知の事業を前に、膝を屈さず立ち向かっている。気がかりなのは、あくまで、相手はヒューマンだということだ。もうずっとそうではあるが、入れ込み過ぎは、エルフとしてよい傾向とは思えなかった。
「シンはまたあの怪物と戦える。それまではみんなで代わりをするしかないんです」
シンは、もちろん死にはしなかった。その最低限だけは守っていた。
だが目的はあくまでも94番を倒すことだったはずだ。シンは94番を釘付けにすることさえできず、竜巻を起こさせた。完全な敗北だった。言葉少なに語ったところを分析すると、途中まで優勢にも思えたようだが、最終的には圧倒されていた。94番の怒りが、シンの恐怖をも呑み込むほどだったのだろうか?
シンは自分を責めた。大きな使命を持って臨んだものの、94番を抑えられなかったことで味方が蹂躙されたのだから、当然であった。彼は目の前で兵達が風に撃ち抜かれ、引き裂かれていくのを目撃した。
隣界隊が大打撃を被ったのも、尚一層シンを絶望の淵へと追いやった。中でも地の化身たるコノハを失ったことは、ハナビにも重大な影響を与えた。敵の客人部隊があれほどの能力を持ち、世界樹に侵入を果たすとは――94番とシンの交戦結果よりも驚くべき出来事だった。
思えばあの少年には、成功体験がまだ無い。
いつも期待は膨らむが、最後には結果が歪んできた。
オーリンの戦い以後、シンは全く戦場に出なくなったわけではない。むしろ94番が現れないと予測される戦いでは、積極的に投入されている。ハナビと合わせて暴れた戦いも確かにあった。そこでは戦果を挙げている。
それはシンの慰めにはならないようだ。
シンの魔法の源とは別の感情が、彼を支配してしまったようだった。
やはりあの道化に一杯食わせてこそだろうか。
苦すぎる思い出を払拭しなければ、彼の調子は回復しないのではないか。
だが、94番と、奴を取り巻く客人部隊との意図的な交戦回避は続けられている。これはディーダ元帥の方針でもあるが、何より、シンが94番の影を感じ取った時の危うさを無視できないためであった。様々な証言も出ていた。心を読んでいたのにそれを力で上回ってくる――その体験がシンに深く爪跡を残したのは間違いない。
「アーデベス卿」
一番最初に森を出て行ったはずのディーダが、待ち構えるように立っていた。
「元帥閣下……」
「少しいいだろうか、召喚代表」
ディーダはマイエルとギルダを交互に見た。
「わたしは先に戻ります」
とギルダは言った。
「ああ。話の内容は後で報告するよ」
彼女が歩き去ると、ディーダとマイエルは散歩をするかのように別の方向へ向かって足を進めた。
「その後、経過はどうか」
前置きもなく、ディーダはそう切り出した。
「一時よりは、ましになったようです」
軍務代表の再就任を、ディーダは引き受けた。
普通ならその面の皮の厚さに憤死しかねない要請であったが、彼は気にしなかったようだ。返り咲いて何か得があるとも思えないのだが、ともあれ、そうした。
「近いうちに全く見込みなし、というわけではないんだな」
「彼自身に会って確かめてもよろしいかと考えますが」
「いや、やめておこう。俺は少年の神経に抵触しやすいように思う」
「……そうかもしれません」
「少年はどれほど休みたいのだろうな」
それは、この軍務代表でさえも苦言を呈したかのようにマイエルには聞こえた。
実際には違うのだろうが、それほど待たせている。
「つまり、俺はあとどれだけ時間を稼げばいいのかということだが」
「――今年は、どうにも……」
昨年と同じ台詞を吐く情けなさをマイエルは感じた。
「そうか、では、大陸からは完全に引き揚げることになるか」
さらりと、なんでもないふうに、元帥は言った。
「そうなって……しまうのですか」
「仕方がない。天災が相手ならばこちらも天然の要害を持ち出さなくては話になるまい。海を隔てれば、見えてくるものがあるかもしれん」
「しかしそんな……栄華を誇ったマーレタリアが、そこまで……この短い間に」
「元いた土地に収まっただけという考え方もある」
「軍務代表のお言葉とも思えませんな」
「らしくないのは承知だ。それでも俺にやれと言うのだから、わからん。……まあ、そういうことであれば、できるところまではやらせてもらうと言うしかないな。何にせよ、少年を風使いにぶつけるしかないのだからな。それしかない」
ふと、マイエルは訊ねてみたくなった。
こんな条件でも投げ出さず、平然と職務を続けようとするディーダを不思議に思うことは少なくなかった。
「貴方は、彼のことを信じているのですか?」
「いや、それは大変な誤解だ。俺は他に手段がないからそうしているだけにすぎない。もしギルダ嬢が彼よりも強力な魔法使いを召喚できたなら、それを新たな兵器として投入した方がいいだろうとも思うし……」
「しかし、供給される金剛石の質は落ちる一方です。数も……」
ディーダは足を止め、
「ならば、信じるも信じないもない」
しっかりとマイエルの瞳を覗き込んでそう言った。
「違うか?」
沈黙が降りた。気まずさはないのだが、それはマイエルを縛った。
ふとレギウスの顔が思い出される。完全に言葉の繋ぎようを奪われる。
ディーダは二回マイエルの背を叩くと、孤独に先へ進んでいった。
しばらくしてから、マイエルは魔導院へ帰るべく元来た道を引き返した。




