9-26 手を握る
~
夜中に目が覚めた。
ゴブリンの村、与えられた離れの小屋。
夢を見ていたような感じがあった。実際にはその夢について何も思い出せず、次第に記憶であることがわかってきた。こんな俺でも、何かささやかに大きいことを成し遂げると手応えや充実感を覚えるもんだが……今回は何というか、それこそ遠く掠れていく夢に向けて手を伸ばしているように思えた。
誰かがドアを蹴って入ってきた。ナガセさんだった。
「あ、起きてる!」
包帯を、血に染まったものは左腕に、未使用のものは右腋にそれぞれ抱えている。
「大丈夫ですか、話せます?」
「あ、はい、おはようござ……こんばんは?」
途中で、たまたま様子を見に来たのだろうか。
「細かい傷とか、打撲とかしてたみたいなんで、一応魔法で治療してもらってると思うんですけど」
俺はベッドから降りて、身体の具合を確認した。
全体的に重かったが、不自由はしない。特に破損は無いらしい。
「立って歩けるならとりあえず大丈夫すね。すごいな。じゃあすんませんオレも色々仰せつかってるんで、」
「あの、隊の皆は……」
「休んでますけど、まだ動けるヤツばかりだから、バラバラになってますよ。落ち着いたら集まるんで、その時に」
「――そうですか」
「じゃあ、また」
「ええ、お疲れ様です……」
手伝おう、と言うべきだったのだろうか。
しかし咄嗟にそう言えないほどのしんどさを感じているのも事実だ。
ベッドに戻って座り、力を抜いて、横に倒れる。
腹が鳴った。
昔は寝起きの胃袋に無理して突っ込もうとは思わなかったものだが、こちらの世界で暮らすようになってから、知らず知らずのうちに体質が変わっていた。何か食べたい。
外へ出ることにした。
気配は多数あれど騒がしさはなく、ここでの戦いがひとまず終わったことを示していた。というより、俺自身がそうであってくれと願った。もしあれが前哨戦だと言われたら、流石に打ちのめされてしまうだろう。
ふと空を見上げてみる。点々と瞬く星を塗り潰そうとする影は無い。
通りに出ると、人もオークもゴブリンも忙しく往来している。
戦闘がいつ完全に終結したのかはわからないが、どうやら後始末を済ませるにはまだかかるようだ。始まったばかりということさえありうる。
忙しく物資を供給する味方の波を追いかけていくと、やはり陣地内で負傷兵が寝かされている一画に辿り着いた。多くは看護人がついておらず、治療も終わってじっとしているか、出された食事に手を付けているだけだったが、奥へ行くにつれて、まだ傷が残る者や、意識がはっきりしていない者が目立つようになった。怪我人同士で互いの世話をしているならいい方で、明らかに放置していてはいけない容体の兵さえ混じっている。治癒魔法も応急手当も追いついていない証拠だった。万単位の人間が戦って生じた傷を、全てカバーできるだけのスタッフはいない。優先順位がどうしても発生する。
彼ら負傷兵は、待っている。
もし全く望みが無いのならとどめをくれと叫ぶこともできるが、いつか自分に癒し手の光が回ってくるかもしれないと思うと、死に切れないのだろう。そこには間違いなく希望が存在するが、その希望が苦しみを長くしているとも言える。
中には処置なしに見える人もいて、そうなると並の治癒魔法使いでは手に負えないから、後回しにされている。だが腕のいい魔法家ほど、重要な対象――例えば魔法家、例えば指揮官、例えば隣界隊の客人――を救わなければならない。一度に治せる量には限りがあり、上から順にやっていくだけで魔力が底をつくはずだ。末端の兵である彼らにまで恩恵がもたらされる可能性は限りなく低いとせざるをえない。だが――それがわかっていても、待たずにはいられないのだろう。
何をするでもなく歩き回る俺を見た負傷兵の一人が、声をかけてきた。
「そこの、道化師さん、よ……おれたちを、笑わせに……来て、くれたのかい」
俺は何も言わず、そこに駆け寄って、男の手を強く握った。残っている方の手を。
上手く笑顔を作れたかわからない。
助からない、と一目でわかった。負傷した箇所がそこだけではなかったからだ。顔半分を覆う火傷……足も飛んでいる。極めつけは腹で、抉れていた。まだ生きていられるのが不思議なくらいだった。
少し考え、ジョークを語る。
「ある人が……治癒魔法家にかかりに行きました。どこが悪いんだと訊かれて、もう全身が痛いのだと、指で……一箇所ずつ、丁寧に示していきます。こんなふうに、膝を押しても痛い、腹を押しても痛い、オデコを押しても……痛い。治癒魔法家はそれを見て頷くと、その人の、指だけを……治してあげました」
俺は怒られたかったのかもしれない。
だが、男は笑ってくれた。笑ってくれてしまった。案の定傷に響いて、すぐに表情を歪ませた。
食欲は消えていた。
俺はその場から去り、村に戻っていった。
足は、ひとりでに村長宅へと向かっていた。
家の者がかなり駆り出されて、比較的、静かになっている。
俺は姫様のいる部屋の扉を叩いた。
「――どうぞっ」
返事をしたのはジュンだった。
入った途端、その巨体が突進してきて、いきなりテイク・ダウンされそうになる。
「おおっ? おお……」
相変わらずの体格差だ。
宥めていると、ベッドから半身を起こしている姫様が目に映った。
思わず、安堵の溜め息が漏れる。
不安があったのだ。
いまいち頼りない記憶が、本当にただの夢にすぎないのではないかと心の底では疑っていた。自分は何一つ成し遂げてなどおらず、主人をみすみす死なせただけの大間抜けであるという可能性を捨てきれなかった。
起きて一番にここを確認しなかったのも、そのような現実を突きつけられた時に耐える自信がなかったからだと、今なら認めることができる。
ゼニア・ルミノアを失うことが、俺はこわかった。
「ジュン、フブキを困らせるのもそのくらいにしておきなさい」
「あっ、ごめんなさい」
「いえ……」
見たところ、傷は残っていない。曲がっていた腕も元通りだ。
「もう動けるの?」
「はい。ちょっとだるいですが、疲れのせいでしょう。姫様は……」
「問題ないわ、すぐに治癒魔法を受けられたから。でも、皆がまだ安静にしろって、うるさいのよ」
「当たり前です!」
ジュンが怒ったように言う。
「怪我が治ったといったって……もう!」
やりかけだったのか、ベッドの傍に戻って、謎の果物、ラナロの皮を剥き始めた。
俺も空いてる椅子を運んで、そこに座った。
「……それ、皮付いたまま食べられるんじゃなかったっけ」
「でも剥いた方が食べやすいかなー、って。ちょっぴり苦いですし」
「あ、そう……。……蜜柑の白いとこみたいなもんか」
「言われてみると似てるかも」
サクサクと一口サイズに切り分け、皿に盛っていく。
姫様がそこへ手を伸ばすと、ジュンはそれをぴしゃりと叩いた。
「え、おい」
代わりに串を果肉に刺して、
「はい、あーん」
姫様は応じなかった。
「あーん」
ジュンはそのまま姫様の唇に、汁の滴りそうなラナロをくっつけた。
「ええ……」
姫様は根負けしたかのように、それを啄んだ。
「――こういう調子なのよ」
「はあ。うーん……ま、たまにはよろしいんじゃ……」
それより、
「俺にも一切れくれ」
「はい、あー」
俺は串を奪い取って食べた。
「……もう一切れくれ」
ジュンはくすりと笑って、
「結構、お腹空いてます?」
「さっきまではそんなつもりじゃなかったんだけどな……」
二人の他愛ないやりとりを見て、多少なりとも食い気が復活したようだ。
「じゃあ、もうちょっとお腹に溜まるもの、見繕ってきますね」
ジュンがパタパタと部屋を出ていく。
俺は残ったラナロを串に刺して、姫様の御前に差し出した。
「――あーん」
「どういうつもり」
「いや、引き継いだ方がいいのかなと……」
姫様は串を奪い取って食べた。
しばらく二人でラナロを食べ続け――食べ尽くし、やっと一息つく。
「魔力が出ないよ」
「私もよ。多分、一週間ほどは調子が戻ってこないでしょうね。もっと長いかもしれないわ」
「本当に? 朝から晩まで一日中訓練した時だって、そんなことなかったのにな」
「一度、もう魔力を生成するのが難しいというところまで来て――それでもさらに引き出したでしょう、互いに……そういう時は、二日や三日寝て過ごしただけでは回復しないの。平常時に心が安定していても、激情に発展して持ちこたえられるかどうかは別。だから、出来るだけ刺激の少ない状態で過ごすことが望ましいわ」
「なるほど。……で、俺達はその平穏を享受できるかな?」
「心配しなくても大丈夫、敵軍が完全に退いたという報告が上がってきているから。あなたの竜巻で、被害もこちらに比べると甚大でしょう。もう一度攻めてくるにはまた編成と準備が必要なはずよ。それに、世界樹も倒れたわ」
「ああ、それだよ――被害って、こっちはどうだったんだ? あんまりよく憶えてないんだが、あれだけのものが崩れちゃったら、かなりすごいことになったんじゃないのか。どれだけの人が無事でいられたんだ?」
質量だけでとんでもない脅威になる。
ここら一帯が更地になっていてもおかしくなかったはずだが……。
「木の幹が地面についてから、揺れが強くて……崩れた家もあったようだけれど、大事には至ってないわ。あなたが風で勢いを和らげたのと、方向を逸らせたおかげね。荒れ地に倒れて、燃え広がることもなかった。まだ一部は焼けているようだけれど、じきに消える」
「そうか……」
あの時は無我夢中でそこまで強い意識はなかったが、結果的オーライか。ジャングルが火事になったりしなくてよかった。
それから俺は、強襲部隊が世界樹に突入した後の大まかな流れを聞いた。
世界樹が円筒構造だったこと、ジュンの階段がそこでも活躍したこと、ハギワラ一門は相変わらず頑丈であったこと、本格的な殺し合いにも関わらず隣界隊が奮戦したこと、敵の客人部隊と遭遇したこと、炎使いも、世界樹の主も、どちらも少女であったこと、それを指揮するエルフ――おそらくマイエル――が先にそこを離れてしまっていたこと、戦死者は出たが、予想に比べればその数はずっと少なかったこと――。
そして、
「正直に言うと、自分でもどうしてあんな振る舞いをしたのか不思議だったの。炎の魔法使いに対処することは必要だったけれど、別の犠牲を出すという決断もできたはず。あなたにらしくないと言われた時、耳が痛かった」
「いや、あれはほら、俺も興奮してたからさ……」
「どうして、私はああしたのかしら」
「それは、」
負い目がそうさせたのではないか、と俺は思った。
志願者を募ったとはいえ、所詮は俺達の自分勝手に付き合わせた戦いだ、元を辿ればそもそもここへ強制的に連行してきた。祖国を守るためでも、芯から通した義勇のためでもなく死んでいった人達がいる。俺達は客人を利用した。エゴが故に。
だが、悪の行動に徹するのと、感情が疼くのは別の話だ。
非情であれ、と決めていても、誰かが自分のせいで息を引き取る場面に遭遇すると、人は心動かされる。姫様もどこかで、自分が根っからの人非人であると評価されることをおそれたのではないか? ただ実力によって率いるのではなく、何か徳のようなものを(それが欺瞞でしかなかったとしても)持っていたかったということはないか?
血の通った人間らしさを、行動で示した結果ああなったと考えられないか。
「――わかんねえな」
二面性。
想像だ。
「本当に――よく無事だったものね」
姫様は俺を見つめる。
「ねえ、手を出して」
言われた通りに、利き腕を前に出す。
「……こう?」
すると姫様は、俺の手を両手で包み込むように握った。
「嬉しかった……来てくれて」
その低い声が、珍しく見た目の若さと重なったような気がした。
「ありがとう」
――こんなに、ストレートに、言われるとは……。
「……何か、照れるな」
「そう?」
「うん……」
今は、この体温を素直に受け止めよう。
あった。
意味は確かにあった。
誰かを死なせてしまう一方で、この姫君の命を守ることができた。
それでいい。
所詮、この身は超越ではないのだ。完璧さなど望むべくもない。
少なくとも、俺という個人にとって大切なものがここにある。
「ねえ、あなたも両手で握って……?」
それを喜ぶ。
~
一つ、余談がある。
今回、ヒューマン同盟軍戦死者の中で最も大きな名前として、ルーシアのスレイシュ・マルハザール七世大統領が挙げられる。
そう、実はヒューマン同盟軍は、総指揮を失っていたのである。
エルフとの直接戦闘で殺害されたわけではなく、竜巻発生後から世界樹倒壊開始にかけての混乱の最中、どこかのタイミングで起こった事故により絶命した。
調査はまだ続いているが、現在のところ、詳細は不明である。
ルーシア勢は暫定的に、若いが実務の把握に長け、通信魔法も操るローム・ヒューイックを派遣団の代表に据え、これは当面続いていく様子である。
意義を唱える者はなかった。また、疑問を差し挟む者も。




