9-24 倒れゆく中で
~
「あの中にまだ、いるのか……?」
言葉少なに語られたところによれば、姫様は時間を稼ぐために残ったのだという。
炎使いを抑えようとして。
隊の皆を、なるべく無事に逃がそうとして――。
うなだれるジュンに、俺はそれでも言わずにいられなかった。
「どうして……」
世界樹が燃えている。今も燃え続けている。
一夜にして出現したマーレタリア軍の拠点が、今度は日暮れも待たずに落ちようとしている。やはりアクシデントが起きていたのだ。妙だ妙だと思っていたが、あの中に潜んでいた怪物は、いよいよ沙汰の外であるらしい。
声を荒げるようなことにはならなかった。絞り出すので精一杯だ。
「どうしてっ、置いてきた……?」
逆だろうが、と続けそうになるのを堪える。
これはおかしいんだ――いざという時になってしまえば、身を挺してでも生き延びさせねばならん女じゃないか。本人から何と言われようが、どのような犠牲が出ようが、あれほどの危険の中に置き去りにして、一体何の益と義がある?
ヒューマンの勢力にあってあくまでも余所者の俺達が、大した不自由もなくやってくることができたのは、異界からの来訪者に利用価値を見出したゼニア・ルミノアという人が、その名声と権力、魔法でもって保護したからにすぎない。厳密には同じ種なのかもあやしい俺達を、なんとなく同胞だと思える範囲の枠に引き込んだのだ。俺達の立場は後ろ盾に保証されたものであって、決して自分達で勝ち取ったものではない。
良くも悪くも、もたらされたものだ。
こんな道半ばであの女がいなくなってみろ――俺達は間違いなく宙ぶらりんだ。
それは路頭に迷うのと変わらん。
勝負に勝って試合に負ける、というような言い方があるが、今の俺達は目的を達して手段を失おうとしている。そして、その手段はこれからも大いに利用しなければならないものだ。言い過ぎだろうか? でも、少なくとも微妙なところに立たされるのは簡単に予想できることじゃないか。
ただ、皆を責めることはできない。できるわけがない。
ここで、どんな犠牲を払ってでも姫様を連れ帰るべきだったと――死ぬべきはお前らだったと――はっきり言うことで悪者になるのは簡単だ。しかし現実として姫様はもうここに居らず、天高くそびえる火柱に囚われている。それに何より、俺は今回、彼らと肩を並べて戦っちゃいない。
エルフの巣で、どんな戦いが繰り広げられたのかを俺は知らない――実感がないという意味でだ。彼らは片道に限りなく近い任務の中で命を懸けて、想像を絶するような苦難にも直面しただろう。実際に対価として全てを差し出した者もいる。
俺は、それを共有することができない。
皆、よくやったに決まっていた。
手を尽くした結果の現場判断が、これなのだ。
俺が何か言ってみたところで、説得力はあるまい。その気もない。
仕方がないことだった。それを認めよう。
「――行かないと」
さて、だからといって、受け入れるかどうかは別の話だ。
あの女なら、平気な顔して帰ってくる可能性はある。魔法の性質を考えれば、安全な脱出は難しくないはずだ。むしろ火消しなんて楽な部類に違いない。
そう、魔法が使えれば。
「行かないと、って……」
「ああ、迎えに行った方がいい」
もし姫様が気兼ねなく魔法をブッ放せるとして――あのように炎を野放しにしておくだろうか?
「わ、わたしも行きます!」
責任を感じているのだろう、ジュンは意気込んでそう言ったが、俺は訊ねた。
「お前、魔力まだあるのか?」
「それはあり、あ、……う……」
「やっぱそうか」
ジュンは特に、今回の作戦では通り道を作成する大役を担っていた。
「いえ! ほら……、ほら……!」
何度か魔力を練って見せてくれるが、明滅するだけに終わる。再び樹に階段をかけることはできないだろう。本当は余力を残しておきたかったのだろうが、隊をここまでしっかり下ろしたところで、力尽きたか。
「いいよ、もう無理すんな。頑張りすぎたくらいだ」
それと同じように、一人殿軍となった姫様も、魔力に余裕などあるまい。彼女の底をまだ見たことはないが、あるとすればここだ。安否はともかくとしても、あそこまで好き勝手されているのだから、許容量を超えた、とするのが自然。
「わたしはっ……!」
ジュンがさらに何か言おうとしたが、それを上書きするように、聴覚が一音で塗り潰される。
「またか!」
――花が咲く。世界樹の幹を、半分以上覆い尽くすほどの、熱で出来た花。腹を食い破って出てきた回虫、いや、蛇のようにも思えた。
皆、唖然とするほかない。
これまでで一番大きな爆発だった。
あれでは――。
その考えを肯定してくれるかのように、ついに、世界樹に微かな傾きが発生した。
「そん、な……」
ジュンも、すぐに察する。
世界樹が、根元近くから倒れようとしていた。
それはとてもゆっくりとしたものに見える。しかし、そうでないことはわかっていた。見えている対象が巨大だから、そのようにしか感じることができないだけだ。世界樹の先端は、ものすごい速度で空を切り裂き始めている。
あのままでは、惨事は免れない。
姫様が戻ってくる気配もない。
猶予がない。
俺は浮き上がり、加速した。
望ましいスピードではなかった。思っていたよりも伸びが悪い。俺もシンとの戦いで相当魔力を消耗している。その影響が間違いなくある。
空中で振り返ると、あのジュンが、とても信じられないといったような目で俺を見ている。
「何する気――?」
かろうじて聞き取れたその問いかけに、俺は風を介して返答した。
「支える」
姫様でもどうにもならないかもしれない――その思いに突き動かされている。
いくらなんでも、あのハコで重力のガラガラポンはまずい!
仮に彼女の魔力が残っていたとしても、災害そのものの中に放り込まれて、一体どのように身を守る? あの木が倒れ切った時、その衝撃にどこまで対応できるか?
どうする。
俺はどうするか?
――倒れゆく世界樹を押し止められるだけの風を当てるしかない。
だが、近付くにつれて、いかに自分の考えが無謀かということが明るみに出てきた。
大きいというだけで脅威だったものが、燃えていることによりどれだけ危険度を増すか。しかもそれは絶えず動いているのだ。俺は何度も軌道を修正しながら、どこにどう風を吹かせるか考えたが、上手く行く気がしない。足りると思えない。
振り落とされているのか、散っていく火の粉の量が、比べものにならないほど増えている。さらに、遠目には火の粉のように思えるものでも、いざ降りかかられると人よりも大きい、燃え盛る枝だったりする。それをやり過ごすだけで風が要る。
どこから出ているのかもわからない、軋むような音も絶えず空気を震わせていた。
世界樹はますます速度を上げて荒野を叩こうとしている。
そして、ああ――くそ、俺はさらに悪いことに気付いた。
倒れる方向だ。
完全に直撃コースではないが、竜巻から退避したヒューマン軍の一部に倒壊予定面が被っている。点々としたエルフの残存勢力にさえも。誰もがこの状況には気付いているので、なんとか避けようとしているが、全部が間に合うとは思えなかった。それどころか――その先の、オーリンの村まで潰しかねない。
これを防げるのか?
無理だ。
無理だろ。絶対に無理だ。
無理だ。
――やるしかない。
「いくぞ……いくぞォッ!」
自分を鼓舞するために叫び、全開で魔力を出す。
残らず風に変換、世界樹の陰へ潜り込み、殴りつけるようにぶち当てる。
手応えは、ある。
倒れるスピードが遅くなった。
「――やっぱ、り……」
だが、それだけだ。
炎の柱が迫ってくる。勢いが弱まっているだけで、依然として、支えを失っている。
重い――。
残り少ない魔力が通常よりも低い沸点で蒸発していくのを感じる。
出せる風を全部当てているのに、押し返せる気配がまるでない。
子供の頃にやった腕相撲のようだ。負けた記憶ばかりある。今も同じだ。
もしも逃げられたなら、と思う。
こんなしんどいことからはすぐ退散してやるのに。
さっき決心したばかりでもう折れそうなのは、魔力が尽きようとしているからだ。
心が燃料だから――。
鍋で煮られた紅茶の水分が完全に飛んで、表面に色素だけがこびりついて残る、そんなイメージが思い浮かぶ。
一体俺は何をやっているんだろう。
こんなことをしていたって、最後には飛ぶこともできなくなるのがオチだ。
そもそも、本当はこういう魔法じゃないんだ。俺の風は殺しの技なんだ。こんな大きな規模のことはやれないはずだ。普段はせいぜい空気におまけを付けるか、音に多少敏感になるか、自身を浮かせるかといった程度のものだ。
俺は何のために?
今、何のために魔力を吐き尽くそうとしているんだ?
どういうつもりで心を溶かしているんだ?
よく考えろ。
何かで誤魔化さなきゃ、もう力なんて出ないぞ。
よく考えてみろよ。
――そうか、つまるところ、あの女のためなのか。
ゼニア・ルミノア。
死なれると困るから飛び出して来たんだ。中にいるから。放っておくと死ぬから。
そうだ、俺はあの女に死んで欲しくない――。
助けたい。助けなきゃならない。
そのためには、これまでと同じじゃ駄目だ。
今だけは、今だけはどうか、スーパーマンになりたい。
どこにいる。
あの女はどこにいる。
「――ゼニア! 俺の名前を呼べ!」
細かい調整は捨てて、どこにでも聞こえるように音を浸透させる。
同時に、どんな些細な音も聞き逃さないよう、耳を風で覆う。
まだ生きているなら、返事で居所を割り出せる。
待つ。
待つ。
待つ――。
フブキ。
ゼニアの声が聞こえた。
確かに聞こえた。
~
魔力が尽きた。
相手もそれは同じだった。
ただ、違っていたのは、あの少女には優れた運搬魔法家の仲間がいて、ゼニアにはいないということだった。
彼女は去った――燃焼だけを残して。
ゼニアはまだほとんど燃えていないバルコニーの上で一人、倒れ伏していた。
攻撃を全て捌いた。
全て戻した、というのとは違うが、とにかく生きている。
動けない。
らしくないとわかっていた。そう、ゼニアらしくもない。
どちらかといえば、自分は捨て駒を用いる側のヒューマンであって、犠牲になるような生き方を選択することはないだろう――と思っていた。自分が事実として要人だからというのではなく、そういう性格だからというのでもなく、直接的にしろ間接的にしろ、既にこれまでの人生がそれで成り立ってきたのだから。
だが、気が付けばこうだ。
どこかで嫌気がさしていたのかもしれない。わからない。
こうに違いない、と思えるほどの心も、もう残っていなかった。
また一つ、どこかの何かが燃え落ちて、衝突して破壊される音が聞こえた。
目を閉じても明るい。
腕が痛い。折れ曲がっているせいだ。痛みが続いている時の不快感を、久方ぶりに思い知らされている。足の出血もひどい。背中の火傷もだ。よくこれでまだ全身が焦げていないものだと思う。本当に偶然、運良く、あまり熱に侵されていないこの場所に落ち着けたというだけだが――。
今や、世界樹で燃えていない所など無いのだろう。
おそらく世界一豪華な火葬だ、とゼニアは思った。
呆気ない。
自分が死ぬ時は物語のような締めくくりであると、心の片隅で信じていた。この死に方は派手だが、一つの目的を見据えた一連の行動の途中と考えると、何とも半端な終わりに感じる。少なくともゼニアが思う区切りはここではなかった。
これからというところだったのに――と、そればかり考えている。
効率よく戦力を揃える手段を押さえて、それをどう生かすか、考えるのがちょっと面白いとさえ思えるような、そんな、
平衡感覚が異変を伝えている。
この建物はどこもかしこも音を立てて損傷しているが、いよいよ、本格的な崩壊が始まるのだろうか。無理もない。あの少女がこれだけ暴れて、黒煙に隠されてるが大きな穴まで作った。考えてみれば下の方から火を点けたのだから、先に耐えられなくなるのもそこからだろう。
傾いていく。
ここまでか。
これで本当に終わりなのだと思うと、当たり前だが死にたくないと思った。
しかし碌に抵抗する力が残っていないので、自動的に受け入れるだけだ。
すぐに、ゼニアの身体も転がっていった。
だが、炎の海に落ちはしなかった。傾いたバルコニーの縁が、ここは高く厚めに取られていた。揺りかごのように、ゼニアはそこへ引っかかった。
しばらくそうしていた。
この樹があまりに大きいために、地面に衝突するまで猶予もたっぷりあるのだろう。どうせなら早く片付けてもらいたいところだが、意見のしようもない。
「ゼニア、俺の名前を呼べ」
死ぬ間際には思い出が脳裏を駆け巡ると聞くが、幻聴もまた含まれるのだろう。
しかし声の主から、このように言われたことはなかった。記憶を掘り起こしているのではなく、意識のあるうちに感情やら何やらを整理しようとしているのだろうか。一体自分がどういうつもりで、あの道化に名前を呼んでくれと言われたがっているのか、皆目見当がつかなかったが、要請があるのなら返事をしておくべきか。
最後の言葉が男の名前というのも、どうかと思うが――。
「フブキ」
嫌というわけではなかった。
「フブキ……」
それで疲れてしまった。もう一度何か囁かれたとしても、おそらく無視する。
世界樹が静止したような気がした。




