9-18 無様と思うべからず、身共よりはまし
「嘘だろ? 痛いトコ突かれそうになって咄嗟に言ったな? そうだろ」
そうだと言え。
「信じないならそれでもいい。最低でも三周はしたはずだけど、あなたと同じだけの時間を使ったわけではないから……本当の意味でリアルな体験ではないかもしれない。それでも、いつも思うのは、あんたの記憶は再生するのに一番時間がかかるってことだ」
「何やら……興味深い話だな」
「誰かの思い出を遡ろうとする時、そこに含まれている時間がそのまま経過するわけじゃない。密度によるんだ――その人の中に強く残っていればいるほど、画質は高く、音もクリアになる。痛みだって、憎しみだって……。あなたの記憶は重い」
「――なのに、そうやってさっくりと片付けてしまえるのは、君の故郷が、俺にとって先の時間だからなのか? 未来では、そういう考えの方が主流だということか?」
「時間なんて関係ない!」
と分身の方が言った。
「……オレは普通の人間だ。あんたみたいにはなれない」
「そんな言い方をされると傷つくな。確かに俺は普通の人間なんかじゃなかった。そういう尺度で分類される人達に比べると、遥かに多くの事柄で躓いたから」
「――そういう意味じゃない」
「いいや、君は自分の言葉を理解しないまま放り投げているんだよ。意味は含まれている。そちらの時間がどういうものか、ほとんど想像するしかないが、しかし君の言葉で仮定すれば、人については俺のいた時間とそう変わっちゃいないんだろう。思うに君は、」
「ふざけるな! 言葉を並べて煙に巻こうとしたってムダだぞ、あんたのしていることは要するにやつあたりなんだ! ああそりゃ、あんな扱いを受け続けたら、誰の心にだってヒビは入るよ、恨むのも当然だろう。復讐に走らない方が嘘だと言ってもいい。だけど、それはあんたとマイエルさんの間にある呪いだ」
「レギウスとの間にもな」
本体が会話を引き継ぐ。
「そうだ、そして他のエルフは関係ない! エルフの傲慢さや、差別的な振る舞いを咎めたいんだとしても、命まで奪うな! あんたはただ殺し続けるためだけに殺し、戦争を利用している。苦しみを増やして、長引かせている! 敵も、味方でさえ! 誰も彼も巻き込んで――もうこれ以上、それを許すわけにはいかない!」
「やれやれ、本当に俺の心を覗いたのか疑いたくなる台詞だな。俺はエルフを殺したいが、それは手段であって目的じゃない」
「何だと……?」
「俺はね、エルフを破滅させたいんだよ」
「何が違う!」
「似ているけど違うさ。俺が奴らを殺すんじゃない。エルフがエルフを殺している」
意味がわからない、とシンは発言こそしなかったが、表情で十分に伝わった。
「何故なら、奴らが俺を作ったからだ! 関係がないなんて言わせねえ! レギウスとマイエルがあの見世物を考えた。それだけなら君の言う通り個人的な問題になったさ、だが、それが見世物として成立したということが問題なんだ、わかるか? 奴らは飽きずに俺を嘲笑いに来たよ。そうやって俺を育てた。楽しそうだった……。君はあの闘技場にほんの少しだけいる性悪が詰め込まれていたと思うか? 俺達の基準から言ってもでかいハコだ、ごく一部だけが延々とリピーターになって、普通じゃない喜び方をしていたと思うのか! 奴らは俺を風の化身と言った。俺はそれに応えたまでだ。俺は災害なんだよ。奴らは、自分達の生み出した災いの被害に泣いている。自分達のせいで滅びるんだよ! ……俺はそれを証明するためのプログラムというわけだ、殺人プログラムではなく」
処理が終わるまで、止まることはない。
「しかし、これでハッキリした――どうやら君は、本当に俺の全てを知ったわけではないんだな。でなければ人の心を理解する機能に欠陥があると思うが、だとすると魔法の皮肉はあまりに直接的すぎる」
シンから漂ってくるのは憐憫の気配であった。そういうところに、どうしても隠せない隔たりの存在を感じる。共感としての哀れみではなく、半透明な壁の向こうから観察されているような同情。
「オレなら、あんたの心も治せる」
だからこそ、こんなことが言えるのだろうか。
無意識の優越が、そう言わせるのだろうか。
「あんたが言うように、今この世界に生きているエルフのほとんどはひどい。大昔の人達を見てるようで、どうしても打ち解けられないと思わされることばかりだ。仕方なく魔法を使って話ができる状態にすることだってある。オレはそれを変えていきたい」
そこで少し俺の反応を見ようとする。
何の変化も見られないためか、すぐに分身が続けた。
「簡単にはいかないと思う。一生かかっても終わらないかもしれない。でも希望はある。あんたはオレが周りのみんなを洗脳してると思ってるのかもしれないけど、魔法をかけなくても、協力してくれるエルフはいるんだ。エルフと人はわかりあえる。オレはそう信じる! 種族が違っても手を取り合えるように、この世界を良くしていきたい! そのために、まず戦争を終わらせたいんだ」
このささやかな演説をするために俺を生かしているのだとしたら、それはそれで大したものかもしれなかった。
「わかるだろ? こんなことは続けられない。いつかどこかであんたは壁にぶつかる。外側から止められるだけじゃなく、心が疲れ切って動かなくなるぞ。そうなる前に罪を認めて、平和を取り戻すんだ! 自分のためにも!」
俺は大きく息を吸い込み、口からも鼻からも長く吐き出した。
少し時間が欲しかった。考えるための時間が。
「――ああ、よくわかったよ」
分かり合えないってことが。
「あったまきた」
鞭のように撓る風を叩きつけると、大地に裂け目が出来た。
思って即、実行に移したからか、これまでに比べると奴の反応は格段に遅かった。あるいは自分の提案に乗ってくるという自信があったからなのかもしれない。奴にそう認識させるほどの迷いが俺の中で生まれたことは否定すまい。だがすぐにある事実が思い当たり、現実に引き戻された。
板のように捲り上げられた一枚に、奴は分身と共に乗った。そこへさらに風をぶつける。二手に散ったシンはそれぞれ苦悩に満ちた顔のまま、しかしもう遠慮のない足の運びで剣と戟を同時に突き込んできた。
絡みついた魔法の影のせいで、まだ身体には重みがあった。
これで負けたとしても、その方がマシだった。わけのわからぬ甘言に屈するぐらいなら、なけなしの尊厳でも一応守って死にたいという気分だった。だが事実として、俺の身体は難なく翻った。いや、押さえつけられてはいたがそれより強く引き上げたようだった。自分でも驚くほどあっさりと、ブレイクスルーが起こっている。
俺は宙で身を捩りながら本体の方に手をかざした。一瞬早く奴は大剣を盾にし、その陰へ完全に隠れたが、回避されないという時点でこれも大きな進歩になった。
風は剣を折った。
シンは既に二枚目の盾を用意しており、衝撃はそこで止まったようだ。粘液のような物体がかなり激しく波打っていた。あれが吸収したに違いない。
俺は気にしなかった。もう一度翻って分身の方に狙いをつけ、爪のイメージで薙いだ。奴は小さく跳ねると、風と風の隙間に入ってそれをやり過ごした。しかし戟はその限りではなく、両端が切断されることになった。
奴は分身共々使い物にならなくなった得物を廃棄すると、空に上がった。
俺もそれを追って飛んだ。相変わらず影の手は重りのように感じられたが、それを上回る風の後押しが常にあった。それはさらに奴の風が生み出す速度さえも超え、俺は一時的に高度を抜き去ると、反転して降下、破壊のためではなく航行妨害のために広範囲を自分の風で埋め尽くし、奴を押し潰した。
俺は魔法も使って大音量で喚いた。
「俺を治すだと?」
奴は暴風の中を舞っていた。順応しているのか、耐えているのかまではわからなかった。どうでもよかった。空気を漕いで近づいた。偶然、奴の表側、奴の顔が見える。
「俺から怒りを奪うつもりか? 中途半端な施しなら必要ねえんだよ! それにだ、」
思惑を外されて意外だ、という程度の形相しかそこにはなかった。
「いつか俺が……エルフを殺し飽きるとでも思っているのかッ……!」
まだもう少し、底の深さは残していると思っていたが、所詮はクソガキか。
「不足なんだよまるで……!」
ただ、それによって奴の方でも何らかのトリガーが引かれたらしかった。
素早く舵取りのコントロールを取り戻すと、シンはまた俺から逃げるように空を移動し始めた。
しかし今度は俺が誘導する番だった。本隊と分身のどちらも視界に入れながら、絶え間なく接近と攻撃を繰り返すだけで、奴は溺れているも同然だった。戦線から離れすぎていたこともあり、俺はそちらの方へ戻ることにした。
途中、一つの発見があった。影の手が軽くなっていたのである。
魔力が益々充実していたのでそのせいかと最初は思ったが、影の濃さも減っている。魔法陣から離れすぎて、効力が弱まったのか――それとも、時限式で消えるものなのか。どちらにしろ、風に巻き込まれた時点で奴がこれの維持を続けるとも思えないから、起動に使った魔力で勝手に動いてくれるものだということはわかる。
枷もなくなったところで、俺はシンを叩き落とした。ハンマーのような風だ。
予想よりはヒューマン軍団の崩れは抑制されていた。形勢不利に変わりはなかったが、絶望的と考えるにはまだまだ早い。シンは狙った通りにエルフの塊の一つ――まだ元気なやつ――へと危険な速度で墜落していった。俺が地面にめり込みかけた時よりもさらに勢いのあるランディング、被害を出さずにやり過ごせるか見物だ。
着地のその瞬間まで、奴は何もしなかった。俺はあっけない終わりもありうるかと信じた。だがそのようなことはなく、見逃しそうになったものの、シンの着衣が急速に膨らみ――圧倒的に――膨らみまくって、結果、キャラものバルーンアスレチックの如きクッションが展開されたのがわかった。分身も同じことをしたので、皿に饅頭が二つ並んで乗ったような光景が浮かび上がった。着地予定地点の周囲にいたエルフはシンが落ちてくる前から走って逃れようとしていたが、それもクッションに弾き飛ばされた。またしても奴は一瞬でそれを萎ませると、骨折確実と思われるほど上に飛ばされたエルフには風の助けを差し伸べ、安全に地面へと戻した。横に飛ばされたエルフは同胞に突っ込んだので怪我はしたろうが、死者は出そうにもなかった。
俺はゆっくりと本体が落ちた方の現場まで降り立った。
「どうした? 魔力自慢の未来人」
少年は息も荒く、這いつくばったまま、まだ立ち上がることができないでいた。
「こんな……こんなことが……」
「頭ではわかってんだろうが? 君には圧倒的な情報アドバンテージがあった。しかし、俺が何をしてくるかわかっても、それについてくることができなきゃな……。立てよ」
言われて立てるなら、まだ元気の有り余っている証拠だ。
「続けよう」
シンの魔力が形を変え、蛇のようにうねりながら伸びた。
「おおう!」
ついに自前の魔法で攻撃もする気になったか。
だが今更そんなものに触られるようなことはない。これを避けたところに、離れている分身が雑踏の間から同じ触手を伸ばしてくることも読めている。
俺は射線が通っているのを確認すると、指を鳴らして、本体の方にだけ螺旋を付けて風を放った。わざと、小さめのサイズで、速すぎないようにして。
奴は避けた。面白いくらい、反射的に。
ところで、遠巻きにされてるとはいえ、まだ周囲には俺達の戦いを見守っているエルフが大勢いて――運が悪いの、十数匹はもってった。
致命傷にグロテスクな姿を晒して断末魔、それ見て上がる悲鳴。血の飛沫、臓物の欠片、かけられてまた別の意味での悲鳴。シンが振り返ってその様子を見る。
「――あ、ああっ……」
「あっハハ! ぬるい攻撃が嬉しくてつい避けちゃったかなァ?」
「わかってたんだ、わかってたのに」
「駄目だよ受け止めないと」
「もっと離れてくれ! ここから離れてくれ! 早く!」
注意喚起の後、奴は浮き上がろうとしたが、俺は先回りして、奴の真下の地面を風で抉り上げた。できるだけ長く土を巻き上げるような一撃が欲しかったので――真下と言わず、逃げ遅れたエルフも巻き込むほどの強さになってしまったが。
そうして視界を奪ったところを、今度はもう少し指向性を上げて、さらに強く、地面を叩く――石ころまで掘り返されて散弾と化すほど!
「グっ――!?」
どう考えても痛みによって絞り出された声が聞こえた。
これが初のヒットとなったようだ。拳の一つも叩き込んでやりたかったが、心を侵されるリスクが高すぎるので、風の弾ですらない変化球、数出しゃ当たるか。
砂煙の中から現れたシンは、額から出血していた。
「おっ、クリーンヒット!」
ふらつきながら、それでも奴は浮いた。
ちらりとだけこちらを向いたその顔には恐怖があり、今度は明確に逃走が目的で風を起こしているようだった。怪我も久々だったろう。
俺はさせるがままにしておき、代わりに、エルフ狩りを再開した。
途端に奴は顔色を変えて、背中を撃たれるエルフのため土壁を用意したりあの波打つ粘液をかけたりしていたが、魔力の残りに不安が出てきたのか、どれも中途半端で、俺の仕掛ける行動の邪魔になりはすれ、完璧な防衛には程遠かった。
「言ったはずだ、君がノらなきゃ、俺はエルフを殺し尽くすだけだと! ほら、てめえがしっかり守ってやらなきゃ平和なんて来ねえぞ! 逃げ回っていていいのか?」
続く攻撃は分身がその身を挺するまでに至った。
「やめてくれ! もうやめてくれ!」
「いいよ」
戦闘再開の意思ありとみなし、俺は普通に風を二連射した。
一発目は奴も風の壁を作って止めたようだが、二発目が、肩を食い破った。
外れた腕が、地に落ちる。
「――ぁ――」
少年は餌を待つ鯉のように口をぱくつかせている。
叫びたいのに声も碌に出せないパニック状態、といったところか。
「……なんでェ、準備できてないなら声かけんなよ」
これはもう本当に拍子抜けだった。
いくら追い込まれたからといって――。
「もっと苦労するかと……。無意識の攻撃というのを会得しようと試行錯誤したこともあったんだよ、すぐにやめたけど。君との再戦までに無念無想の境地へ辿り着くのは難しかったからな」
軟着陸したシンに、また指を向ける。
「まあ、まだ諦めちゃいないがね……」
「死にっ、たく、ない」
「どうやってるか知らんが、出血止める元気はあるくせに。大丈夫、こんなところで死にゃしない」
「じゃぁ……?」
「お前が生きていていいのはなァ、治癒魔法かけて下さいお願いしますと、泣きながらマイエルのところへ案内し終えるまでだよナルミ君さんよォ!」
その時、爆音が轟いた。
俺は振り返った。離れて世界樹があり、そして一目でそこが発生源だということがわかった。火の手が廻ったというには、あまりにも強烈すぎる炎の腕が根元を取り囲んでいる。
すぐにもう一度、爆音が轟く。
炎の輪がその上にもう一つ噴出する。
また、もう一度の爆音が――。




