第百六十四話 喜熨斗悦也
第百六十四話 喜熨斗悦也
本性を現したキメラの力は圧倒的で、とてもじゃないけど、全く歯が立たなかった。このままでは、犬死にすることになると判断したんでしょうね。牛尾さんが一旦退くことを提案したの。私は冷静なつもりで、勝ち目が薄いことも理解していたけど、牛尾さんの案には難色を示した。
「でも、お父さんが……」
今、お父さんと別れたら、もう二度と会うことが出来ないという予感が、どうしても拭えない。そんな想いが絶望的な戦いを強いられるこの場に、私を留めさせてしまうのだ。
しかし、そんな私を牛尾さんが叱責する。
「それこそ後回しで十分だ。お前のお父さん(私にとってはクソ上司だがね)は、キメラにとっても大事な存在だ。頼まれなくったって、丁重に扱ってもらえる。間違っても、危害は加えられないから、心配するな」
「確かに……」
キメラのお父さんに対する忠誠心は本物。仮に私の手が届かないところに、お父さんを連れて行ったとしても、決して、悪いようにはしないでしょうね。
「イルも! この場から逃げることに異論はないな?」
既に恐怖の絶頂にあるイルは、牛尾さんの大声に全身を震わせていたけど、言葉を理解すると、首を大袈裟に何度もブンブンと振っていた。
「よし……。全員納得したな。じゃあ、一斉の「せ」でログアウト……」
「あん? 待てよ。俺はまだログアウトするとは……」
「じゃあ、死んでろ。戦闘狂が!」
「は!?」
牛尾さんの言葉に驚いたのは、私よりも喜熨斗さんだ。
「てめえっ! さっきと言っていることが違うじゃねえか」
「うるせえ。お前のためを想って話しているのに、我がままばかり言いやがって!」
ごちゃごちゃだ。私もイルも呆然として、二人の話に耳を傾けている。この調子だとキメラも……。きっと呆れていると思ったら、冷たい目でこちらを見ている。黙って、牛尾さんがこの場から逃げようと言っているのを聞いている。思わずゾッとしてしまう。こいつ、逃す気なしだわ。
「私の話が分かったのなら、全員でログアウトを宣言するんだ。このゲームの良いところは、いつでも好きな時に逃げられる……」
「好きな時に逃げられる? それは違うな」
瞬間移動染みた速度で、牛尾さんの背後に回りこんだ。キメラが立っているのを見ていたのに、動き出しがまるで目で追えなかった。本当に、どうしようもないわ。これで三回目なのに、対抗策が見つからない。……いや、一つだけある。でも、その方法は使いたくない。
「くそ……。マジで速いな」
「キメラ……」
キメラはそっと右手を牛尾さんの口に添えると、残った左手で脇腹を殴った。「うっ!」と短く唸って、牛尾さんは気を失ってしまった。
「仲間になってくれるんなら、見逃しても良いって言ったんだけどね。どうか僕を恨まないでね。君の選択が招いた未来なんだから」
気の毒そうに呟くと、指をパチンと鳴らした。それに反応したカプセルの一つがガタガタと工事中のような音を立てて、生き物のように口を開けて、牛尾さんを飲み込んでしまった。
「てめえ、牛尾に何をした?」
ドスの利いた声で、キメラを威嚇する喜熨斗さん。それに臆することもなく、返答するキメラ。
「決まっているだろ。カプセルに閉じ込めたのさ。現状では、彼女が一番危険な存在だからね。でも、こうして拘束してしまえば、もう大丈夫」
「そして、牛尾も『アップデート』とやらのモルモットに使うつもりか?」
「勘が良いね。そうだよ。どんな天才といえど、老人になってしまえば、頭の回転は激減するからね。というか、彼女の場合、ショックで自殺してくれるかもしれない」
そんな……。あんなに『アップデート』の副作用を恐れていた牛尾さんがモルモットにされようとしているなんて……。もし、本人にまだ意志があったら、半狂乱で反抗していたに違いないわ。
「てめえ……!」
「しまったね。今の行為は君を逆上させるだけだったか。名案だと思ったんだがね」
「当たり前だ……。人のダチに手を出して、タダで済むと思ってんじゃねえぞ」
「そのセリフ。君が言うと、どうも違和感があるな……」
たちまちキメラと喜熨斗さんの戦いが再開したけど、結果は明らか。実力や能力に変化がないのだ。当然と言えば、当然の流れね。
「はあ……、はあ……」
首を掴まれて持ち上げられた状態で、喜熨斗さんは苦しそうに大きな呼吸を肩でしていた。ピアスのひびも、さっきよりひどくなっている。
「止めろ! 喜熨斗さんを離せ……」
キメラに向かって殴りかかろうとしたけど、『スピアレイン』を浴びて、吹き飛ばされてしまう。
「少し黙っていてね……」
「ぐ……」
全身に力が入らない。これじゃ喜熨斗さんの元に駆けつけるどころか、立ち上がることも出来ない。体力が限界だわ。
「さて。最後にもう一度だけ聞かせてもらうよ。どうしても考え直してくれないのかい?」
「くどい! 何度聞いても同じだ。俺の答えは変わらん。いくらお前でも、これ以上しつこいとキレるぞ」
そう言って、喜熨斗さんがキメラを強く睨む。どちらが優勢なのか分からないくらいね。喜熨斗さんの意志が固いことを知ったキメラは、諦めたように大きく息を吐いた。
「分かった……」
短く呟くと、喜熨斗さんの首を持ち上げている手に力を込めた。グギリと嫌な音がして、喜熨斗さんの首があらぬ方向へと曲がるのが見えた。
「さようなら、喜熨斗。最期はこんな形になったけど、君のことは嫌いじゃなかったよ」
キメラの呼びかけに、喜熨斗さんが薄く笑う。「俺も愉しかったぜ」と言っているようにも見えた。
パキンと乾いた音を立てて、喜熨斗さんのピアスが完全に砕けた。喜熨斗さんの命が尽きたのだ。それを合図に、喜熨斗さんの姿がどんどん薄くなっていき、ついには消滅してしまった。
「あ、あんた……。喜熨斗さんを手にかけておいて、よくそんなことを言えたわね……」
喜熨斗さんを殺された怒りで、キメラに掴みかかろうとした私だったけど、ある光景に思わず右手を突きだした姿勢のままで立ち止まってしまった。
キメラが泣いていたのだ。他の誰が死んでも悲しむ素振りも見せなかったキメラが泣いている。
「戦いには別れは付き物だが、どうしても感傷的になる瞬間がある。僕もまだまだ甘いね」
「戦いを止めないか?」という台詞が飛び出してきそうな雰囲気だけど、生憎キメラの気持ちにブレはなし。
涙を拭うと、再び冷たい視線をむき出しにする。
「待たせてしまって悪かったね。まあ、僕が隙を見せている間に攻撃してくれても一向に構わなかったけどね。とにかく続きをしようか」
「……もちろんよ」
喜熨斗さんを失ったのは悲しいけど、まだ目的を達成出来ていないしね。さっきまではそれでも、逃げるつもりだったけど、牛尾さんがお婆ちゃんになるのを見てみぬ振りには出来ない。
キメラが引かないなら、まだ戦いは終わらないわ。こんな中途半端なところで終わったら、それこそ喜熨斗さんの死が無駄になってしまう。……愉しい戦いが出来ただけで満足だと、喜熨斗さんなら言うかもしれないけどね。
「さあ。最後まで徹底的にやろう。どちらかが滅びるまで、この戦いは終わらない」
滅びるという単語を聞いて、背筋に冷たいものが走った。でも、キメラに弱みを見せる訳にはいかないと、無理やり虚勢を張る。
「私は終始そのつもりよ」
弔い合戦じゃないけど、決着を付けましょうよ、キメラ。




