88話 ラプラスの魔
俺達は部屋を出た後、医務室へと足を運んでいた。
扉を開けて室内へ視線をやると、奥のベッドにて座り込んでいる女性の姿が見える。
その者は右肩を押さえて俯いていたが、俺達の存在に気が付くとその顔をゆっくりと上げた。
晴天のような明るい髪が揺れ、前髪に隠れていた藍色の目がこちらへ向けられる。
この女性は関所を守る兵士達のまとめ役であり、名をエレアノールという。
彼女が俺に槍を突き付けた兵士だそうだが、鎧を装備していない姿は随分と華奢な印象に映った。
さて。
俺がここへ足を運んだ理由は、このエレアノールに呼ばれていたためだ。
こちら側に断る理由はない。それに俺からも用はあるのだし、接触は早くても困らないだろう。
「失礼する。しかし、改めた方が良かったか?」
開口一番にそう聞けば、彼女は小さく首を横に振った。
「いいえ。まずはこちらの非礼を詫びましょう。助力に感謝致します」
「気にするな。腕の傷は――痛むか?」
彼女の右肩から先にあるはずの腕は、そこにはなかった。
肩から先は包帯が巻かれており、痛々しさが垣間見える。
竜との戦いで腕を根本から消失してしまい、治し切れなかったのだという。
「お連れの方に治して頂きました。お気になさらず」
彼女は俺の左後方のステラへと視線を配り、包帯の上から肩を二度強く叩いて見せる。
無事だというアピールのようだが、ステラはどこかやり切れない表情をしていた。
「余力さえあれば、あなたの腕も治せたはずでしたが……」
「我々全員が殺されても不思議ではなかった状況で、死者を出さずに処置してくれたのです。どうか頭を下げないで欲しい」
そこまで言われると、ステラは俯いていた僅かに顔を上げた。
回復魔法による治療の難しさは、当然ではあるが傷の状況で大きく変化する。
擦り傷や切り傷であれば難しくもないが、体に穴が空くような傷になると相応の技術を求められる。ステラはそんな傷も完治させる技量を持つが――それでも、欠損した部位を元に戻すのは困難だ。
例えば心臓を穿たれた致命傷よりも、腕一本の再生が難しい。
何故ならば、回復させるための部位が存在しないからだ。
ないものを再生するには一から肉体を生み出すしか手段はなく、それには技量に加えて膨大な魔力も必要になる。
人間界であれば、複数の高位神官を掻き集めた大規模な儀式が必要だ。
故に欠損した部位を治せるのは一部の大貴族くらいなもので、ほとんどはこのように患部を塞ぐしかない。
「話を致しましょう。わざわざ呼び立てたのは、幾つか質問があるからです」
腕の話を早々に切り上げると、彼女は俺へ視線を合わせてきた。
その際に一瞬だけ険しく歪められ、すぐに戻った眼光を俺は見逃さなかった。
「質問? 答えれば通行許可をくれたりするのか」
「返答次第では」
頷く彼女は、残された方の腕でベッド横の椅子を示す。
どうやら長い話になるかもしれない。俺は言われるがまま椅子の隣まで歩いてから、背後へと振り向いた。
「ステラ、席を外してくれ。二人で話がしたい」
「それは……ですが」
「構わん。お前はカスクードの元に向かってやってくれ。奴も一人じゃ心細いだろう」
目の前の彼女の変化に俺が気付いたのならば、ステラが気付かぬ筈はない。
だが俺の言葉を聞くと、彼女は深々と頷いて部屋から出ていった。
静かに扉が締められると、足音が通路の奥へと消えていく。
彼女の気配が遠ざかるのを感じながら、改めて視線を前方に戻す。
そこには――こちらを睨み据える、一人の兵士の姿があった。
「何故、殺気があると知りながら一人になった?」
片腕がないとは思えないほどの剣幕と、俺へ向ける疑念に渦巻く瞳。
それを必死に抑えるようにしながら、彼女は背に隠した拳を強く握り締めている。
「お前が持つステラへの感謝には誠意があった。だから外れて貰った」
「意味が分からない」
「その方が話しやすいと思ってな。俺に言いたいことがあるんだろう?」
何か凄まじいものでも見るような目をして、彼女は俺を凝視した。
そして困惑げに眉をひそめると、残された左手で俺を指差してくる。
「貴様は一体何だ?」
「随分と大雑把な質問をしてくれるが……」
「正直に話せ! 貴様が何者かは知っている」
いつでも手に取れるように隠していたのだろう。
彼女はシーツを捲り上げると、その下から薄刃の剣を振り抜いた。
だが、俺の首元へ向かう刃が首を抉るものではないと感じたため、回避はしない。
「では逆に訊くが、お前は俺を何だと認識しているんだ」
「――人間」
首筋に当てられた刃から、一筋の赤い血が流れ落ちる。
俺は答えなかった。
敵意と恐怖と困惑とが混ざり合ったような彼女の表情から察するに、まだ俺の正体について断定はできていないのだろう。鎌を掛け、俺の本心を炙り出そうとしているのだろうか。
しかし人間などという名称が出た時点で、通常の思考ではないな。
「人間が生きていると思うのか?」
「――貴様は先の竜を殺したと嘘を吐き、こちらの信頼を勝ち取ろうとしたな。嘘は人間の特徴だ。故に人間の言葉に耳を貸してはならない、人間は常に私達を欺こうとする……貴様もそうだ」
苛烈な物言いとは裏腹に、彼女が剣をこれ以上動かすことはないようだ。
俺が微動だにしないからか、ステラへの恩義で決断に踏み切れないのか、それとも他に理由があるのか。
いずれにせよ話し合う余地はまだ残されている。
「嘘を吐くのは何も人間だけではないだろう」
エレアノールは鼻で笑うように嘲笑った。
「奴らの嘘を言っているようなら、アレは程度が低い戯言だ」
……まぁ、それはそうかもしれないが。
というか何も言及してないのに盗人族の話題が出てくるとは……いや、俺がカスクードを連れていたから話したのか。
「ならば竜に滅ぼされていない理由は何だ。俺が殺していないんだろう?」
「他の者は貴様が竜を殺したと言っているが……私は貴様が竜を呼び戻したのを見ているぞ。貴様が私達を竜に襲わせたのであれば、辻褄が合う」
「ほう、お前には、アレがそう見えたのか?」
あの竜に対する認識の差異。
ステラやその他には俺が竜を倒したように見えたが――エレアノールには違う光景が見えていたようだ。だが、俺を人間だとするには何ら関係がないものである。
「お前、骸骨の魔人と既に接触しているのか?」
「は?」
「直接奴と接触したかは重要ではない。何か、お前が俺と人間を結び付けたきっかけがあったはずだ」
俺は、首筋に当てられた剣身を外側から掴む。
握る指先からも赤い血が流れ、俺の腕を伝って肘から雫が垂れ落ちる。
「お前は始めから強い警戒心を見せていたが、何か予感していたのか? お前が案じているのは何だ? 魔人オールダンの身か?」
「ふざけたことを抜かすな! 貴様のような者に脅かされるオールダン様じゃない」
言い返そうとして……そこで俺は言葉を切った。
ここで俺が何を言ったところで、ほとんど聞く耳は持たれない。
俺は一度、ステラとの会話を振り返リ、顔を歪める。
……俺の言葉のほぼ全ては彼女にとって言い訳に過ぎないが、この場で彼女が耳を貸すに足る返事はある。
例えば、彼女の質問に答えて人間だと認めること。
それは危険な賭けだ。
誰かが人間と判ずるのと、俺が自ら人間と認めるのでは話が違う。
だが、はぐらかしてどうにかなる相手でもない。
彼女には確固たる意思があり、命を賭して俺へ刃を突き付けているのだ。
誰の差し金か言うまでもないが、上手く誘導するものだなと思う。
ステラの危惧はとっくに向こうも気付いているし、使える札を早速切ってきたということなのだろう。アレは妙な根回しと手回しが大好きで、着実に俺に不利な状況を作っている。
人間よりも人間らしい陰湿で悪質な行為に……残念ながら、俺が同じように対抗する術は持たない。
「分かった。お前の質問に答えよう」
俺は眉を下げ、彼女を見つめる。
そして剣を掴んでいた手に力を込め、深く首筋へ押し込む。
彼女が刃を少し引くだけで簡単に首を落とせるように。
彼女は憤怒と恐怖の感情を同時に浮かべながら、俺の行為に狼狽する。
「貴様、何をして」
真実を何もかも話すことはできない。
しかし俺が誠実にならなければ、彼女から心は引き出せない。
「俺は、人間だった」
「――!」
「昔の話だ。今の俺が何であるかは俺にも分からないが、魔王と呼ばれる存在なのは確かだ。だが魔王というものは複雑でな、時折何もかもを破壊したくてたまらない衝動に駆られるんだ。だから魔力を抑え、身体の奥底へ封じ込めている」
彼女の瞳を見つめる。
どこまでも青く澄み切った瞳だ。
今は俺という存在に震えているが、その奥底にある主への忠誠は揺らいでいない。
「ならあの竜は、貴様が暴走して生み出したとでも?」
「違う」
「ふざけたことを……貴様でなければ自然に起きたとでも言うのか?」
「分からない。しかし、あの竜が標的にしたのは俺だ。俺が関所に来たことでお前たちに被害を負わせてしまった。信用できないのなら俺の首を落とし、お前の懸念を取り除いてくれ」
本当のことだけを話す。言葉の駆け引きはしない。
俺が彼女と対話したいなら、それだけの対価を差し出さないとな。
「――馬鹿が。その手を離せ」
俺は言われた通り、剣を掴んでいた手の力を抜く。
剣は俺の首筋からゆっくりと離れ――彼女はそれを後方に投げ捨てた。
「貴様がそこまで命を賭けたのなら、信じてやる」
彼女は疲れ果てた様子で一歩後退し、力なくベッドに座り込む。
「今のは貴様でも確実に殺せる隙だった。馬鹿なのか?」
「お前の信用を得るには何が必要か考えたが、これしかなかっただけだ」
「私が首を斬っていたらどうするつもりだった?」
「だがお前は首を斬らなかっただろう」
「……はっ。貴様は計画性がなさすぎる」
その言葉には言い返せない。
今までのやり取りを見て斬られない打算はしていたが、確実ではなかった。
何かが一歩間違えれば、俺の首から下は無くなっていただろう。
俺の悪い癖だ。過去を省みるなら他者の感情を信じるべきではない。
仮にこの者の誠実さが偽りであれば、今頃殺されていただろう。
そうならなかったのは、今回は俺の運が良かっただけだと言える。
「貴様は――……こほん、こう呼ぶのは止めにする。もう一度聞かせて頂くが、オールダン様に何用でしょう。それを聞かせて頂けないのであれば、話を全て信じたとしても通せない」
「あぁ、いいだろう。最早隠す内容でもない」
ここまで事情を知った相手なら素直に目的を伝えた方が得策である。
「オールダンに話す内容とは、骸骨の魔人との――」
しかし俺は、これ以上の言葉を口にすることができなかった。
赤が散る。
視界を埋め尽くすほどの赤が。
生暖かい液体が、肉の引き千切れる音と共に辺りに飛び散って。
「な――っ、んだ、コレ、は――っ?」
エレアノールの腹に大穴が開いている。
けれど、何の魔力反応もなかった。
突如として異様に膨れ上がった彼女の腹が破裂したのだ。
残された肉と骨だけでは彼女を支えられず、仰向けに倒れ伏した。
辛うじて命は留めているが、その瞳に光が灯されていない。
虚空を見つめる瞳が、開いていく。
「……こいつは」
考えている暇はない。
俺はエレアノールの身体を抱き抱えると、ステラの位置を感知で探る。
ステラなら治せる可能性がある。
エレアノールが死にさえしなければ、まだ。
だが俺が外へ出るよりも前に、部屋の扉が勢い良く開かれた。
室内に飛び込んできたのはステラではなく、白いモヤに包まれた何か。
それを俺は正しく認識することができない。
そのモヤは、言葉にならない大きな叫び声を発して――。
そこで俺の意識は途切れ、暗闇に塗り潰された。




