87話 代償の欠如
選択の余地などなかった。
大空に飛翔する竜と、その口元へ集約する極大の魔力。
次に放たれる攻撃が何であるかは明白で、防御手段はごく僅かに限られる。
地形を消し飛ばすほどの威力を持つブレス、アレはただの魔法障壁で防げる代物ではない。
ドラゴンブレスを凌いだのは俺の知る限り過去二例のみ。
一つはかつての勇者一行の連携、一つは魔王の力による圧倒的な耐久力。
いくらステラでも認識外のブレスに対処はできない、身体が消滅すれば治癒などできない。
それに、竜は俺が引き付けると言ったのだ――。
収束する魔力が止み、鳴り響いていた鋭い音が止む。
一瞬の余韻の後、大きく開いた口から銀色の奔流が解き放たれた。
それらは空を埋め尽くし直進し、ステラへ迫る。
思考する時間はない。
俺は身体の内にある魔力を、全て解放した。
「――済まない」
ステラの間に立ち、一言だけ言葉を残す。
既に背後へ振り向く余裕はない。
障壁を全面へ展開し、直後に視界が真白に染まる。
大気すら焼け付くブレスが障壁へ直撃し、弾けた魔力流で視界が潰されているのだ。
しかしブレスの勢いを抑えきることはできず、障壁を食い破って流れ込んだブレスが俺の全身へ喰らい付く。
「――っ」
息が出来ない。身体が燃えるように熱い。
濃密な魔力で視界が潰され、耳鳴りのような高音に鼓膜が破壊されている。
ああ、とんでもない威力だ。大地を綺麗さっぱり抉り取るだけはある。
だからこそ、ここで防ぎ切らねばならない。
俺は咄嗟に後方へと障壁を再展開し、己の身体そのものを障壁を守る盾にした。
大丈夫だ、見えないが五体は無事だ、手足の感覚は残っている。
この身体がブレスの直撃に耐えられるのは、魔人バラカタとの勝負で判明済。
ならば恐れる必要はない。
勢いを増すブレスの中、俺は一歩ずつ前へと足を踏み出した。
目の前は見えずとも、この勢いを逆に辿れば本体へ辿り着けるのだから。
やることは一つだ。
全身に強化を施し。
いつものように拳に魔力を込めて。
圧倒的な力で捻じ伏せる。
「そこだな」
竜の口元に辿り着くのと、ブレスの打ち止めはほぼ同時であった。
大口を開いたままブレスの反動で停止した竜は、ぎょろりと眼を俺の方へと向る。
その眼は、深い恐怖に支配されていた。
ブレスの直撃を受けて生き残る者がいるなどとは考えもしなかったのだろう。
だが俺は生きている。この右手に込めた魔力で以て、今からお前を――。
「何だ?」
しかし、俺は振るおうとした拳を途中で止めた。
怯える竜の鱗がひび割れ始め、身体の節々が魔力の欠片になって空へ還ろうとしていたからだ。
この光景は……実体を保てなくなった魔力体の魔物と同じ消滅の仕方だ。
恐らく、先程の一撃で己の存在を使い切り、身体の維持すらできなくなったのだろう。
俺がトドメを刺すまでもなく、竜は消えていく。
そして始めから何もなかったかのように消え、やがて俺だけがその場に残っていた。
「アルマ様!」
遠くから、ステラの声が聞こえる。
反射的に魔王の魔力を抑え込むと、身体の中心がずきずきと傷んだ。
魔力を全て仕舞った瞬間、全身が激痛という悲鳴を上げ始める。
あぁ……そうだ、今の俺は魔王の力に頼って受けていたのだった。
その魔力を消してしまうのは、少し不味かったらしい。
「ステラ、お前は、無事か――」
それでも弱った所を見せるわけには行かない。
しかし思いとは裏腹に、急速に意識が遠ざかっていった。
◇
次に目覚めた時、そこは既に森の中ではなかった。
仰向けで寝かされていたのだろう、背中と後頭部に柔らかい感触がある。
天井の材質から見るに、魔王城ではない。関所の中だろうか。
反射的に上体を上げ、起き上がろうとすると――目と鼻の先にステラが居た。
「ステ、ラ」
「お身体は大丈夫ですか?」
「あぁ……問題はないが」
それより何故俺の真上に乗って……と、訊こうとする前に理解した。
ステラはベッドに乗り上がる形で俺の身体に触れ、回復魔法での治癒を行っていたのだ。
俺の身体が小さいため、ベッド自体に乗った方が効率が良かったのだろう。
「痛みはありませんか?」
「痛みも……ない」
「ふぅ、安心いたしました……傷は完治できたようですね」
ステラは一歩後退してベッドから降りると、俺の真横へと移動してくる。
「そんなに酷かったのか?」
どれだけの傷を負ったか聞くと、ステラはとんでもない表情になってこちらを凝視してきた。
「なんだ、全身に火傷を負ったのはまぁ、覚えてるんだが……」
「酷い火傷が臓器にまで達していました」
「……ふむ、道理で意識が閉じたわけだな」
「他人事のように仰りますね。普通なら即死どころか、肉体すら残らなかったところでしたよ」
「――だから、俺が前に出たのだ。済まないな、力を解放していないと足止めも出来ないとは思わなかった」
アレは俺の誤算だ。
竜が記憶の中の姿よりも強大であったこと、俺という存在を羽虫か何かのように無視したこと、ステラの方をこそ脅威と見て標的を変更したこと……。
数えればきりはないが、とにかく俺は竜の足止め役としては全くの不適格だったのだ。
最後に見た、竜の瞳の色を見れば痛感させられる。
強大なのは魔王の力であって、生物として俺は無力な存在に過ぎないということを。
これは鍛錬の強度や戦場の経験で埋まる差ではない。ステラが言った通り、人間という種は人間であるから弱く、単体で強くはなれない。
竜にとっての俺は、正に俺にとっての羽虫と同じなのだ。
「いえ……アルマ様が助けてくれなければ危なかったでしょう。でも、使わせてしまいました」
「心配するな。そのことならば、思ったより反動は感じられない」
無事を伝えるために腕を振り回して、胸を叩いて見せる。
自身の魔力を放出してみたが、しっかりと操作もできる。
それに感情がおかしくなっている感覚もない。
「どちらかといえば傷が癒えるまで引っ込めるべきじゃなかったかもしれんな。お陰で死の淵を彷徨ったよ」
「それは私が治したではありませんか」
「……そうだな。もう、動いてもいいのか?」
「はい。ですが数日、戦闘は控えた方が宜しいかと。見た目は取り繕えていますが、内部に蓄積されたダメージは時間経過でしか回復できません」
「あー……ひとまず状態は把握した」
戦わないとは言えず、俺は曖昧な返事で濁す。
ステラも承知の上での発言だったのだろう。
俺の返事に対しては何も言わず、表情に出ることもなかった。
俺はベッドから出て、辺りを見回す。
「どうやら関所内の一室のようだが、アレからどうなっている?」
「騒動は一応、落ち着いたと言っていいでしょう」
ステラの説明によれば、竜被害は甚大だったが致命的な被害は抑えられたらしい。
関所や障壁は無傷、兵士は全てステラが治療したことで奇跡の死傷者0名。
その成果があったために俺達が牢(部屋)を破壊した所業も不問となり、兵士達の宿所を使えるようになったらしい。
それと俺が眠っていた時間も長くはなく、まだ日も落ち切っていないとのこと。
「あの時にアルマ様が竜を倒してくれなければ、兵士の多くを救助できなかったかもしれません。結果的にですが……事は良い方向に運べましたね」
「待て、俺が竜を倒しただと?」
「そのように見えましたが。……違うのですか?」
俺は少し考えたが、やはり首を横に振った。
改めて記憶を辿ってみたものの、俺がトドメを刺す前に終わっていたはずだ。
竜がブレスに威力を込め過ぎて力を使い果たし、自壊する姿は意識を失う前に目撃している。
そもそも俺はブレスの一撃を防いだだけで、拳は振るっていない。
アレを俺が倒したとするならば、間違いではないのだろうが……。
「竜はブレス直後に自壊し、魔力に還った。俺は防御したに過ぎない」
「それは、竜が魔力体だったということですか?」
「そうだ。人間界では迷宮内でしか姿を見なかったものだが、魔界には普通に存在するのか?」
「……いえ、存在しません。竜が魔力体であったとするならば、おかしな話です」
ステラの眉間に皺が寄り、そしてはっきりとそう答えた。
「私の目にはアルマ様が竜を消滅させたように映りましたが……攻撃はしていないのですよね」
「していない」
「――では竜騒動は自然発生ではなく、死霊族の魔人が仕掛けたものでしょう」
「魔人の気配は感じなかったぞ?」
「そうですね。なので私も一から説明できません、まだ直感の範疇です」
そう言うと、ステラはおもむろに俺の頬へと手を伸ばしてきた。
いきなりのことであったが、俺に拒む理由もない。そのまま撫でさせてやる。
「魔人はアルマ様を挑発してきています。竜が私を優先的に狙ってきたことを考えれば、アルマ様に魔王の力を使わせたかったように思えますから……やはり気付いているのでしょうね」
「ということは、奴はこの先何度も襲ってくるということになるな」
「ええ。ですから――もう誰かのために力を使わないでください」
頬に触れた手が後頭部へ回る。
何もしないでいると、俺の身体はそのまま腕の中へと引き寄せられた。
彼女が俺を抱き締める腕が、震えていた。
「俺もそうしたいが、厳しいだろう」
「力に呑み込まれてからでは、遅いのですよ」
「だが、助けなければお前が死んでいた。俺はお前に死んで欲しくはない」
「狙われると分かっているのなら対処できます」
「――その言葉、信じていいのか?」
相手は魔人。それも魔法を得意とするため、力関係でステラの上位存在だ。
俺は魔法が苦手であり、奴の存在は手に余ると考えている。直接追い詰めるのが困難な以上は後手に回ってでも守れるようにしなければならない。
そんな相手を、ステラに全て押し付けてしまっていいものか。
「信じてください」
抱き留めた腕を緩めると、彼女は俺の目を見て、しっかりと答えた。
俺に触れたままの腕に、今は震えを感じない。
「信じるぞ。ならば俺に力を使わせるな」
「承知致しました」
恭しく頭を下げたステラの頭を軽く撫でてやった後、俺は一歩離れる。
そこまで言うなら任せよう。
まぁ、ステラは出任せを吐く奴ではない。
口にしたからには、魔人相手でも対抗する手段を用意できるのだろう。
「ところで、カスクードの姿が見えないが奴はどこだ?」
先程から静かだったが、思い返せばカスクードの姿が見当たらなかった。
仮にもステラの使い魔であるため、基本的に彼女から離れることはない。
しかし部屋にも居なければ、俺の感覚が届く近辺にもやかましい存在は見当たらないようだが……。
「あぁ。彼は武器庫で窃盗の疑いを受けており、別室で尋問中です」
「そんなところに隠れるなよ……何やってるんだ」
知りません。と、どこか突き放すように言って、ステラは苦笑した。




