86話 銀に埋め尽くされし空
多くの兵士は恐怖に身体を震わせ、ただ唖然と空を見上げていた。
紫の空が――眩い銀色に染まり上がっている。
それは漂う雲ではなく、降り積もる雪でもない。
一匹の巨大な銀竜が空を飛翔し、関所へと一直線に突っ込んできていたのだ。
「な……んだ、アレは!」
そんな生物が付近に現れた報告は一度も上がっていない。
仮に発生すれば即座に関所内の警報機が鳴るはずで、しかし空のアレから発されるのは、目を疑うほどの膨大な魔力。
今まで欠片程も感じなかった気配が一瞬で膨れ上がる――まるでそれは、召喚された幻想生物が如く……。
「エ、エレアノール隊長! 危険です、それ以上前に出ては……」
その中で唯一人、恐れることなく前へ足を踏み出す兵士が居た。
関所の兵を率いる隊長であった。
彼女は邪魔だと言わんばかりに兜を脱ぎ捨て、毅然と空を睨み付ける。
「隠れれば安全にやり過ごせると思うか? アレに襲われた瞬間に障壁ごと潰されて、残った私達も砦ごと木っ端微塵にされて終わりだ」
「ですが……!」
「戦う意思がない者は逃げて良い。お前達はその者らを統率し、必ず生きてオールダン様へ情報を届けろ」
背後を見ずにそう告げ、彼女は槍を引き抜く。
竜が障壁の真上でその動きを止める。
風圧でエレアノールの群青の髪が舞い上がり、彼女の周囲が太陽に隠れ、大きく陰った。
真上で静止した竜が次にやることは一つしかない。
進行方向にある邪魔な障壁を壊すために、その喉奥に魔力を凝縮させているのだ。
超高密度の純粋な魔力を凝縮、一方向に放出されるドラゴンブレス――障壁など容易く貫き奥の大地ごと焦土と化す天災が、輝きと共に竜の口に蓄えられていく。
「どこを見ている、こちらは眼中にないとは言わせんぞ!」
その斜線上に飛び上がったエレアノールの姿を視界に捉え、竜の動きが僅かに停止した。
障壁を壊すために向けられていたものがエレアノールへと。しかしその一瞬の遅延を狙いにしていたエレアノールの槍が、大きく横薙ぎに振り払われる。
魔力で強化された穂先が、銀竜の鼻梁を正確に抉った。
突き刺さる刃が内部の肉を食い破って、反対側へと突き抜ける。
「aahAAAAAAAAAAA!!」
激痛に雄叫びを上げた竜が首を逸らし――その瞬間に、ドラゴンブレスが解き放たれた。
一瞬視界が明滅した後、極大の光線がエレアノールの真横の空間を貫き、関所スレスレに地面を抉っていく。
途中で竜が首を振り上げたため、光線は地面から天空へと矛先を変え、空気を灼いて天へと消失する。
「これは……」
エレアノールは首元に脂汗を浮かべ、ぽつりと呟いた。
構えていたハズの槍と――握りしめていたハズの右腕の感覚が、ない。
それが何を意味しているのか、頭で分からぬ訳ではなかった。
けれど見る訳にはいかない。擦り傷も実際に目にするまでは痛みを感じないのと同じように、視界にさえ入れなければその喪失を理解しきらずに済む。
歯を食い縛り、エレアノールは中空に留まるための魔力を足先へと集中させる。
銀竜はエレアノールに向けて大きく咆哮した。
鼻先とはいえ身体の一部を裂かれ、激怒しているのだ。
それなら好都合だと言わんばかりに笑い、エレアノールはそのまま竜の背後へ向かって飛行する。
竜は大きく首を動かし、障壁とは反対方向へと身体を動かした。
その瞳は果てしなく深い怒りを湛えており、正確にエレアノールを捉えている。
エレアノールは関所を一瞥し、そのまま遠くへ飛び去った。
◇
「見張りがいないな。それに、妙な魔力反応を感じる」
通路へ出た俺は、入り口に立っている筈の見張りが居ないことに眉をしかめた。
見張りどころか付近に誰かがいる気配も感じない。
それとは別に大きな魔力反応を遠くに感じるが……原因はそれか?
「戦闘が発生したのか? にしては静か過ぎるな」
「一度外まで出てみないことには分かりませんね」
「あぁ、そのようだな」
俺は背後へ目をやり、ずたずたに破壊された牢屋の扉を確認する。
一度外に出てしまった以上、今更どこまで出ようが変わらないだろう。
「このまま外に出るが……途中で兵士と出くわした場合、会話できる状態なら話を聞く。問答無用で襲い掛かって来るようなら適当にあしらうことにする」
「はい、それで良いかと」
できれば穏便にと行きたいところだが、牢屋を破壊して出てきたのは俺達なのだ。
まあだからといって、最初から戦闘状態にしておくのは良くないだろう。
通常時は剣を収めておいて、あくまで攻撃されてから対応する形にする。
「――いや、ちょっと異様だな」
そんなこんなで兵士に連れられて来たルートを逆走するも、終ぞ誰にも接触することはなかった。
表へ出るための関所横の出入り口にて、俺はその異様さに首を傾げる。
俺達を見張る兵士だけならまだしも、正門でないとはいえ入口に一人も配置されていないはずがない。
何かがあったのは間違いないだろうが、この短い間に何が起きたと言うんだ?
その答えはすぐに得られた。
外に繋がる鉄扉を開いた直後に、大きく抉られた地面が真っ先に視界に飛び込んで来たからだ。
それは関所の門すぐ側の地面から発生しており、視界が途切れる遥か向こうにまで渡っている。
お陰で通り道の木々は全て消滅しており、そこだけ綺麗さっぱりに視界が開けている有様だ。
「この魔力……竜でしょうか」
ぽつりと呟いたステラの反応に、俺は頷いた。
記憶の中にこれと合致するものが一つだけある。
「ドラゴンブレスだ。抉れた地面に濃い魔力の残滓が滞留している。しかしこの規模……直撃していたら関所が丸ごと吹き飛んでいたな」
部屋に居た時に感じた振動は、ブレスによる衝撃だったのだろう。
しかし、幸いにして放たれたブレスは一発だけのようだ。
それにドラゴン本体の気配は俺達がやってきた樹海の方角に感じる。
今も移動中なのか、気配が大きく動いているな。
「竜討伐に兵を動員しているらしいな」
「そのようです。幾つかの小さな気配が竜の周囲に取り付いているようですが……ただ、数が少ないですね」
「竜にやられたか?」
「詳細までは分かりません。それで、アルマ様はどうされるのですか?」
「ふむ――」
竜を倒す選択肢は全く無いわけではない。
だがブレスの破壊力、気配の大きさから考えて、相手はかなりの大物だ。
それこそ過去戦った銀竜クラスである。
今のまま戦うには、やはり力不足であると言わざるを得ないだろう。
力を証明するには良い機会とはいえ、魔王の力を使うなら話は別である。
だがここで動かぬ訳にも行くまい。
「救助に向かうぞ。見過ごせば兵は全滅の可能性が高いが、今後の関係性を考えると避けたい」
「ええっ……相手は竜っすよね!? もしかして俺も行くんすか?」
「いやカスクードは残れ。安全の保証はできないから、くれぐれも兵士に見つかるなよ」
「りょ、了解ッス!」
カスクードは流石に足手纏いだ。
下手に連れ回すよりも、事が終わるまで関所の何処かに隠れて貰っていた方が良い。
さて、あまり猶予もない。
竜の方向へ駆け出し、並走するステラに指示を飛ばす。
「竜は俺が引き付けておくから、ステラは怪我人の手当てを頼む」
「はい。救助が終わり次第私もそちらへ向かいます」
「それと俺だけじゃ竜は火力不足で撃退できん、注意を引くので精一杯だ。合流後は援護も頼むことになる」
「大丈夫です――ありがとうございます、アルマ様」
礼を残し、ステラは別方向へ離れて視界から消える。
俺では察知できないが、その先に怪我人を見つけたのだろう。
ステラなら、死亡しない限りは治療できるはずだ。
しかし……。
先程はああ言ったが、竜相手では分が悪過ぎる。
竜ほどの相手では俺が子供だろうが大人の身体だろうが体格差など関係ないが、振るう得物が小さいのは難点だ。
こんな針みたいな刃じゃ鱗の下に刃が通るかどうか。
とすると、目玉などの特定部位を狙って戦うしかないかもしれない。
後はブレスを防ぐ術がないのも厄介だ。
あれには大量の魔力を消費するためそう連発もしてこないだろうが、使われる場合はせめて誰も居ない方向へ誘導せねば。
全力で走る内、巨大過ぎる姿が遠目でも視認ができた。
それは木々を踏み潰してなお隠せておらず、胴体がはみ出している。
そこまで近付いた時、骨と肉が砕ける異様な音と兵士の絶叫が聞こえてきた。
喰われて咀嚼されている――それに、あの姿形はまさか。
「ちっ……銀竜そのものか」
かつて死闘を繰り広げた竜の姿が、目の前の銀竜と重なって見えた。
俺は走りながら剣を抜き放ち、木々の枝へと飛び乗って竜へ接近する。
その瞬間、竜の胴体が僅かにこちらへ向けられた。
まだこちらの姿は見えない位置だが、俺の存在を知覚したのだ。
となると魔力を抑えている利点はもうない。
剣に己の魔力を注ぎ込み、銀竜の頭部へ突っ込んだ。
「あ゛――タス、け……テ」
小さく、引き絞ったような声がした。
眼下に映ったのは、竜に噛み付かれた兵士の姿。
その鎧は無惨に砕かれ、その場で咀嚼されている。
また恐らくは、頭を最初に狙われたのだろう。
押し潰されたような兜から、鮮血に塗れた深青の髪と、頭部ごと潰れた片目が見える。
だがまだ僅かに命がある。
「離して貰うぞ!」
まずは一閃。
空中から下方へ直進した全身と剣の振り、凝縮した魔力の重さを載せ、竜の眼球を斬り付ける。
が、寸での所で眼球を膜で覆われ破壊には至らない。
俺は瞬時に剣を左手に持ち替え、切っ先を鼻先から奥へと突き刺す。
堪らず大口を開いた竜から兵士が溢れ落ちると同時、竜の顎先を蹴り抜いて剣を抜きつつ、下方へ跳んで兵士を宙空で受け止める。
「……よし、まだ生きてはいるな」
着地からすぐに後方へ大きく飛び退き、横目で兵士の状態を確認する。
マトモな呼吸ができていない。
脇腹ごと抉られた内臓が致命傷になっている。
だが獣人族は生命力が高いようで、まだ生存の目はありそうだ。
が、死の淵に変わりはない。
なるべく丁寧に扱いその場へ兵士を横たえさせ、俺は剣を構え直す。
「なんだ……襲って来ない?」
銀竜は、俺を凝視したまま動かないでいた。
縦長の瞳は俺に固定されたまま。突き刺された鼻を痙攣させつつも、暴れる様子はないようだ。
ドラゴンは非常に頭の優れた生物である。
故に俺の内側に秘めた魔力に反応し、襲うのを止めた可能性は考えられるが……。
けれど急所である目を攻撃され、鼻に剣を突き刺さして来た相手に何もしないなどあり得るか?
しかし、銀竜の姿は見れば見るほど、あの時の銀竜と姿が合致していた。
あの時は撃退するに留まったため、今でも魔界で生きていてもおかしな話ではないが。
睨み合いを続けていると、竜に動きがあった。
何かに驚いた様子で鎌首をもたげ、俺ではない別の方向へと意識を向けたのだ。
俺もやや遅れて、竜が向けた方向へと意識を飛ばす。
その方向の先に感じた一つの魔力。
それと同時に竜は翼をはためかせ、大きく空へと舞い上がった。
「!」
俺に見向きもしない態度に加えて、今の反応。
竜が向いた方向に居るのは、ステラの魔力。
間違いない――コイツは俺を避け、救助に向かわせたステラを狙っていた。




