84話 災厄降臨
静かな日であった。
絶凍に降り頻る雪も今日ばかりはなりを潜め、湿地帯には穏やかな風が流れている。まだ絶凍期の終わりではないものの、少しずつ各地が熱に侵食されてきていることから、徐々にこうした異常気象に見舞われる日も増えていくのだろう。
魔界では数少ない気候の良い日である。
「こんな日は……大抵悪ぃ予感がしやがる。俺の感は良く当たるんだ」
どろりとした紫色の空を窓際から眺めつつ、その者は低く唸った。ボロボロの木机の上には、文書が乱雑に投げ捨てられている。
大層お怒りの様子である――窓際に佇む彼から多大なるストレスの臭いを感じ取り、その部屋に入ろうとした少女は踵を返そうとして。
「入れ。逃げんな馬鹿野郎」
「……野郎ではなく、女の子ですけど」
「うるせぇ。性別を気にして放った台詞じゃねぇんだよ」
おずおずと入室した黒い外套の少女は、目深に被ったフードを取り払った。頭頂部から生える紺の獣耳がピンと天井に向けられ、少女は身震いと共に言う。
「めっちゃ怖いんですけど、少しは殺気を落ち着かせて下さいよオールダン様」
「見た目は落ち着いてんだろうが。殺すぞ」
「見た目以外も落ち着かせてて欲しい……ほら、毛がもうパサつくんですって」
「で何の用だよ。俺から逃げ帰ろうとするってことは大した用じゃねぇ、ってことでいいんだろうな?」
「あー、うんと、そうですねぇ。そうであるかもしれせんし、そうではないかもしれせん。この謎は未解決のまま終わりましたということで」
「アァ?」
適当な事を言って誤魔化そうとする少女はオールダンの一喝に悲鳴を上げる。
しかし逃げるなと言われた手前、そのまま廊下へ消えれば流石に大目玉だ。
「うーん……でもですねぇ、なんと言ったら良いものやら」
「見たまま聞いたままをそのまま話せばいいんだよ。何渋ってんだ」
「分かりました! そのまま話すので信じてくださいね!」
少女は両拳をぐっと握りしめると、大声でこう言った。
「小人族と長命族と盗人族が『俺達は魔王だここを通せ!』って関所で言ってました!」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「小人族と長命族と盗人族が、」
「同じ事を言えとは言ってねぇ!」
オールダンが机の上に拳を落とすと、いともたやすく粉々に砕け散った。
「魔王って言ったか? そんな気配微塵も感じねぇぞ」
「ですから虚言だなぁと思ったんですが、通せってしつこいんですよぉ。でもエレアノール隊長が報告しろって言うんで……一応というか」
「一応だぁ? つうか何だよその面子は、お前の目が腐ってるわけじゃねぇだろうな」
「いやいやいや腐ってませんって。本当のマジの真面目に小人族と長命族と盗人族ですって」
「はぁ……分かった分かった。嘘だったらてめぇの毛刈り取って防寒具にすっからな」
「やだエッチ!」
「アァ!?」
オールダンの威圧に少女は驚き、両耳を押さえてその場に縮こまってしまう。
その直後、背後からまた別の少女が室内へと乱入してきた。黒い外套、外れたフードから覗かせる獣耳は現在進行系で縮こまっている少女と同じ特徴をしている。彼女の前髪が汗で額に張り付き息も大きく切らしていることから、長い距離を全速力で走ってきたことが容易に窺えた。
どう考えても緊急事態。オールダンは関所へ向かおうとした足を止め、報告を待つ。
「た、大変です! 死霊族の魔人が軍勢を引き連れてやってきました!」
「アァ? なんであの野郎が……まさか敵対しようってんじゃあねぇよな」
「そこまでは分かりません。ですがあの魔人はオールダン様を呼べ、と仰っていて」
「ちっ、何用か知らねぇがすぐ行く。イグノラ、てめぇはそこでうずくまってるリブレの馬鹿連れて西方関所へ行け」
小さく舌打ちを鳴らすと、オールダンは部屋の隅に立て掛けてあった大斧を手に持った。
「あー……その関所の方だが、怪しい三人組が魔王を名乗ってるらしく、なんかクセェ。だから途中でランダーゴート拾って向かえ、怪しい動きがあれば即座にぶっ殺しても構わねぇが、慎重に動けよ」
「はっ! 承知しました」
「それと兵も纏めておけ。ボケ老人が何考えてんのか分からねぇからな、念のためだ」
早口に命令を告げ、オールダンは部屋を飛び出していく。
室内に残された二人の少女は顔を見合わせてから、オールダンが消えゆく方向へ視線を向けるのだった。
◇
「分からない奴っすねぇ! ただ先に進むだけって言ってるじゃないっすか!」
「先に進むには通行証がいるんですよ。持っていないでしょう」
「だ~か~ら~その通行証はどう発行するんだって聞いてんですよぉこっちは!」
「というか、盗人族をおいそれと入れるわけがないでしょう」
「はい? 種族差別って奴ですかぁ? この俺が盗みを働くって言うんですかぁ?」
「当たり前でしょう。その名称で括られてる意味が理解できないのですか? 今すぐ殺さないだけありがたく思って貰いたいものです」
――魔人オールダンが持つ領地の入り口、関所にて。
少し離れた木陰の位置で腕組みをしていた俺は、堅牢な門前でカスクードと獣族の兵士が言い争いをしている姿を眺めていた。
何でも、この先のオールダン領へ入るには専用の通行証が必要らしい。
それがない場合はどのような用件であっても通す事はできないのだとか。ではその通行証はどう発行するのかと言えば、オールダンが認めた者にしか渡さないとのこと。
そんなわけで、俺達は盛大な足止めを食らっていたわけだ。
当初は力尽くで押し通る事も考えたのだが……しかしながら魔人を味方に付けようという目的でやって来ておいて、彼の部下である兵士を蹴散らして進むのは論外。
さて、どうしたものか。
何しても通れないと悟ったカスクードが先ほどから舌戦を繰り広げているが、進展は見込めないだろう。獣族の方はうんざりした様子でチラチラとこちらを見てはいるが、特別何かを言ってくることはないようだ。
「……そろそろ止めましょうか」
「そうしてくれ」
言い争いが白熱する最中、カスクードの背後を取ったステラが肩を叩くと、驚くほど静かになった彼は諦めた様子で関所から離れこちらへ戻ってくる。
「ダメっした」
「見りゃ分かる。だが、このまま帰るわけにもいかんな」
通行証が無ければ入れないからといって、魔王城へ帰るのは時間の無駄だ。
オールダン以外の魔人へ会いに行くという手もなくはないが、どちらにせよ彼に接触する必要があるのだ。
俺は腕組みを解くと、腰に差した長剣の柄へと指を掛ける。
これは魔王城を発った際に適当に見繕った得物である。魔王の魔力を抑えておく方針に転換したことで力任せの戦法が取れなくなったため、最も使い慣れている剣を武器として持つことにしたのだ。
だがこの姿は、鏡を見るまでもなく……魔王の装いではない。防寒具を着込んで武器も携え、正面から関所を通るような魔王がどこにいようか。
「二人に聞きたいのだが、この状態で俺は魔王だと言ったら相手はどう受け取る?」
「え、どうっすかねぇ」
「信じないでしょう。アルマ様も知っての通り、魔界の生物にとって魔王は災害と同義ですからね」
「まあそうか……では、関所から以外の通行手段はあるか?」
言って、空を見上げた。
関所の砦から伸びる大きな光柱が天へと伸び、それらが一定の間隔で他の箇所からも伸びていた。光柱の間には薄い膜のようなものが広がっており、オールダン領一帯を囲っているのが分かる。
リザールシックを覆う障壁と似てはいるが、街単位とは規模が異なる代物だ。各地の砦と連携して同時に障壁を展開することで範囲を拡大しているのだと考えられる。
つまり、不用意に空から突っ込めばオールダン領の障壁をぶち抜いてしまうことになり――大混乱は避けられない。
「それも厳しいかと……関所以外からの通行は許されていないと思われますよ。領地へ入る許可がどうやって得られるのか分かれば良いのですが」
「それを教えてくれないっすからねぇ! 聞いても答えようとしねーんで、話にならないっす」
「ふむ、怪しい奴を通さない事自体は不思議ではないんだがな。他の魔人が居る領地もこうなのか?」
俺がそう感じるのは、あくまで人間界ではそうだっただけの話。
魔界でも人間と似たような常識を持っているのが普通なのだろうか。
「いやぁ聞いたことないです。ていうか領地構えてる魔人って他にあんまいないと思いますし、こんな気が狂った魔法障壁を張ってる場所は他にないはずっすよ」
俺と同じく空の障壁を見上げると、カスクードは呆れたように呟いた。
街は外の脅威に耐えるため必ず障壁を張るが、この規模の障壁ともなれば消費量は尋常ではないはずだ。魔物はどの個体も魔力量を多く有しているといっても限界があるはずで、魔石に頼ったところでこの広さではすぐに枯渇するのではないだろうか。
「障壁の原理は気になるが、今は良いか。時間もないことだしここは……」
「アルマ様、何をされるおつもりですか?」
両手にぐ、と力を込めようとした瞬間、怜悧な言葉が横合いから突き刺さった。
「少しの間だけ魔力を解放する。そうすれば、」
「私との約束をお忘れですか?」
――約束。
魔王城からオールダン領へ出立する際、俺はステラととある約束を交わした。
緊急事態を除いて魔力を一切使わない――俺の魔王化進行を少しでも抑えるための措置である。
俺が現状打破の方法より魔人の対処を優先させたことで、ステラから釘を刺されたのだ。
「良いですか、今のアルマ様は侵食を防ぐため意図的に魔力を抑えているのです。一度の解放で掛かる負荷は今までの比ではありませんよ。それでも良いと仰られるのなら止めませんが」
「ぐう……わ、分かった。俺の認識が甘かったようだ」
言葉の節々に凄まじい棘を感じるが、ステラの言い分は最もだ。
握る拳を解き、俺は門前の兵士へと目を向けた。
兵士は微動だもせずにこちらをじっと睨みつけながら、槍の石突部分を地面に突き立てている。
少しでも怪しげな動きをすれば襲い掛かるといった様相だ。握り締めた槍をこちらへ向けないのは、まだ俺達が強引な手段を取っていないからであろう。
こんな時、正規の手段で領内へ入る案は俺には思い付けない。正直なところ、関所や通行証などの人間と同じような警備を魔物が敷いている想定をしていなかった。
ただ、その辺りの事前知識はステラもカスクードも知っていれば先に言っていたはずなので、対策は難しかったかもしれない。
どう動くか悩んでいると、ステラが提案してくる。
「先程の魔王の件ですが、信じて貰わなくてもいいかもしれませんね。魔王だと宣言しても素直に受け取ってくれはしないでしょうが、確実に怪しむでしょう。魔人ならばともかく災害である魔王を騙る理由はないはずですから、それが魔人オールダンの耳に届けば……或いは向こうから動いてくれるかもしれません」
「……戯言かもしれんものに対して魔人自らが動くと思うか?」
「可能性はありますよ。私はあの方の姿を数度しか目にしていませんが、慎重な方だったとお見受けしています。大規模な障壁や関所の設置を見るに、不安材料を放置してはおかないと思いますね」
そういえば、ステラはオールダンを魔王城で見掛けているのだったな。
直接的な面識があるわけではないだろうが、領地の状況を鑑みてもその予測は大きく外れてはいないだろう。
「ううむ。念のため聞くが、オールダンはステラの顔を知らないのか?」
「一方的に私が見ていただけですので……或いは認知しているかもしれませんが、直接私の姿を見なければ分からないほどでしょう」
「ならステラの名を借りるというのも難しいか。よし分かった、ステラの案で行こう」
他に妙案も浮かばないのだ。当たってみるしかなかろう。
俺は二人に後ろから付いてくるよう指示し、兵士の前へと歩いていく。
ところが、兵士の数歩手前まで来たところで足元に槍の穂先が突き刺さった。思わず一歩後退すれば、兵士は突き刺した槍を中段に構え直し警告を放ってくる。
「――動くな。それ以上前へ出ようとするならば、この槍で貫きます」
兵士の魔力が急速な高まりを見せ、凄まじい殺気と眼光で俺達三人を視界の中心に捉えている。
常在戦場というやつだろうか。平時で常駐しているような兵士は士気が低い場合が多いが、あくまで人間界の常識だ。それだけこの関所は危険と隣り合わせなのかもしれんな。
「先ほどはうちのカスクードが粗相をした。謝ろう」
「……それで?」
「だが大人しく帰るわけにはいかない。俺達はこの先に、魔人オールダンに用がある。通せない理由は分かったが、ならば通るための手順を踏ませてくれないか?」
「お前達のような者が何故オールダン様に……? どうであれ通すことはできません」
「俺が魔王だから通せと言っても、お前の意見は変わらないか?」
「は――なんですって?」
兵士は鼻で笑うと、俺の眼前に槍を突き付ける。
「ふざけた事を言う口ですね。閉じましょうか?」
「構わんが、仕掛けるつもりなら反撃するぞ」
向こうは俺が手を出さないから何もしてはこなかったし、俺も同じだ。しかし行動に起こすと言うのならば、こちらも応じる必要があるだろう。
最近剣を握る機会はなかったが、まだ錆び付くほどに腕は鈍っちゃいない。槍さばきは中々のものではあるが、この状態からでも剣技のみで弾くのは可能。
互いに殺気をぶつけ合い――相手はす、と槍を元の位置へ戻した。
「腕が立つのは認めましょう」
「ほう?」
「それが貴方達を通す理由にはなりませんが……要件は?」
会話の傍ら、兵士の視線が僅かに逸れたのを見逃さなかった。石突が二度地面を叩くと同時、関所内の反応が一つ領内の奥へ移動していく。
どうやら、俺達に興味を示したらしい。
これで俺達の情報は伝わるはずだ。
その反応が俺の探知外に出るのを見送りつつ、抜剣の位置に添えた手を放す。こちらも敵意がないと改めて示した上で、俺は返答を返した。
「魔人オールダンへ聞かせたい話があるんだ。直に会えば分かるだろう」




