69話 目覚めと止まる旅路
――ふと、目を覚ます。
全身が水の底に沈んでいるかのように、重たかった。
「……」
目の前が暗いと思ったら、まだ目蓋が閉じていた。
自然に開けようとするも、何かに押さえつけられているかのように目蓋が開かない。
だから時間を掛けて、ゆっくりと目を開ける。
天井のタイルが視界に映った。どうやら室内のようだ。
光源は壁掛けの魔力灯。薄明かりが夕焼けのように周囲を照らしている。
どこからかミントとアルコールが入り混じったような臭いがする。
息を吸う度に、鼻の奥から喉にかけてその臭いで満ちていく。
ここは、どこだろう。
半覚醒の意識の中、手を伸ばそうとして……身体が動かない。
動かそうとした腕が痺れたような感覚だ。
視線を動かしてどうにか身体へ目を落とし、己の腕が見えるのに安堵する。
「……あー、うー……あ」
おまけに、声までまともに出せないようだった。
俺はと言おうとしたが、悲しい呻き声しか出なかった。
「おや、起きましたね。おはようございます」
「……?」
仰向けに寝ていた俺の上の方から、そんな声が聞こえてきた。
無機質で抑揚のない、静かな声だ。女の人のものだろう。
俺は挨拶を返そうとするが、まだ声が出ない。
「そのままで構わないですよ。その内動けるようにもなるとは思いますが、身体と魂が上手く定着していないのでしょう。無理しない方がいいです」
「……は、あ?」
何を言っているのか良く分からなかった。
言葉そのものはしっかりと聞き取れたのだが、内容の意味が分からない。
女性はその後も何かをぶつぶつと呟きながら、足音を鳴らしてこちらに近付いているようだった。
すぐに、女性の顔が視界に映る。
まず、癖で外に跳ねている青い長髪が見えた。
次に小動物のようなまん丸の瞳が、俺をじいっと見つめている。
……あれ、この人。
「ようやく気付きやがりましたね。長い間顔が見えませんでしたが、ひょっとして一日の感覚が人の何倍もある方ですか?」
――ルル・エウルート。
この人は、魔法道具屋の人だ。
でもなんで、この人が俺の前に……。
意識が少しずつはっきりとしていく中で、記憶のモヤが晴れてくる。
ああ、そうだ。俺は戦っていたのだ。
迷宮に入って、マグリッドに会って、聖剣を取って。
そしてラウミガを逃した――。
「マグリ――いづ、う!」
意識が、覚醒する。
跳ね上がるように上体を起こした俺は、全身の激痛に悲鳴を上げた。
高所から地面に落下したような激しい衝撃が身体を駆け巡っている。
「こら! 無理するなと言ったばかりなのに」
「あの、えっと、俺……」
首を少し傾け、怒った彼女に目を合わせる。
妙に表情の機微が窺えないルルの、青い瞳が映る。
それから視線を彼女の背後へと向けて――ここが、魔法道具屋の地下室であることを理解した。
「ふむ。私が誰で、あなたが誰かはちゃんと言えますか?」
「い、言えますが……アーサーですよ、ルルさん」
「ではこの指は何本に見えますか?」
「えっと、え? 三本」
「正解です。もう喋れるみたいですし、大丈夫そうですね」
「あー……」
突然の質問に答えてしまったが――。
なんで、俺はここにいる?
「では、そろそろ私から質問していいですか?」
ぐい、と顔を間近まで寄せてきた彼女は、無機質な顔で問うてくる。
質問とか言われても……俺がここにいることすら分からないんだけど。
「指名手配されてますけど、あなたは何かしたんですか?」
「え――」
突然の質問であった。
俺が、指名手配? 話がまるで繋がらない。
「場合によっては、あなたをころします。なので嘘偽りのない返答をお願いします」
返事ができなかった。
彼女が俺の目に映るように見せてきた紙に、俺の名前と人相書きが載っている。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「懸賞額は金貨3枚ですか。この状態のアーサーを簀巻きにしてギルドに連れて行くだけで貰える額としては、まあ破格ですね」
「え、連れてく気!?」
「いえ大切な働き手なので、私も安々と手放そうとは思っていませんよ。身に覚えはないのですか?」
「働き手って……あ、いや……ないと思いますけど」
覚醒したばかりの頭をフル活動して、今の状況を冷静に見つめ直す。
だがやはり、記憶が抜け落ちていると言わんばかりに不明なままだ。
しかも、手配されてると来た。
捕まえずとも、発見報告だけで銀貨1枚の代物らしい。
心当たりが全くないか? と言われればゼロではないのだが。
だが、貴族を叩き潰した件はギルドも認知していること。
或いはマグリッドに会いに行ったこと自体が……あれ。
最後に俺が知ってる記憶から、どれだけ時間が経過した?
「あの、ルルさんが俺をここまで運んだんですか?」
「違いますよ。エルフの女の子があなたを運んで来ました。最初は驚いたものですが、店番をしてくれるので良い子です」
「ニーエが――は、店番? 何やってんの?」
「言葉が通じないのでどうしたものかと思いましたが、上手くやってくれていますよ」
「言葉通じない奴に店番させてるの!? それ以前にエルフって知ってるのに!?」
「お客様が来たら鈴を鳴らすだけですから。それに、耳さえ隠していれば人間とさして変わりもないでしょう。誰も驚きませんよ」
「いやいや……」
話についていけない。
だが、今はそっちについて深く聞いてる暇はない。
まず俺が意識不明でルルの魔法道具屋に辿り着いている時点で異常なのは確かだ。でもマグリッド達がどうしているかだなんて、ルルに聞いてはならない。
……少しずつだが、事態は理解してきた。
大事なのは、経過した時間。
「俺がここに運ばれたのっていつですか?」
「いつでしたっけ。確か、四日ほど前ですね」
「な……っ」
それは考えていた中で、もっとも最悪のものだった。
俺の脳裏で、マグリッドの台詞が響く。
『つまり、先に魔法都市フェイズラストへ向かわねばならない――』
もう、四日だ。もっと経っている可能性すら考えられる。
俺が今までこの地下室で眠っていたというのなら、何もかもが遅い。
「どうかしましたか?」
「……思ったより日が経過してたので、驚いただけです」
「ふむ。あ、お腹が減ったのなら」
「それは大丈夫です」
「そうですか」
そんなやり取りをしている内、鈴の音が鳴った。
俺から視線を外したルルは天井の方を見上げ、「お客様が来たようですね」と呟く。
「ではアーサー、ちょっと私は対応をしてきますので」
「あ、はい……」
「安静にでもしていてください」
そう言い残して、ルルはぱたぱたと小走りに去っていく。
その背をぼうっと眺めていた俺だったが、彼女が天井に空いた穴へと飛翔して姿が見えなくなったところで、一つ溜息を吐いた。
……今すぐに急がねば、という焦燥感はあった。
しかし、何をしていいのかも分からない。
気持ちに反して身体も動いてくれない。
物理的にも、精神的にも。
「――アーサー! やっと、やっと起きた」
天井の方から、ルルと入れ替わるようにしてアリヴェーラがやってきた。
いないと思ったら、彼女は道具屋の方に居たらしい。
一直線に俺の方へ向かってきたかと思えば、アリヴェーラは俺の目と鼻の先ででぴたりと止まる。
「ねぇ、大丈夫? 身体はおかしくない? 胸は痛くない? 手足はちゃんと動くよね?」
「おわ……っ、どうしたんだよアリヴェーラ」
「どうしたんだよじゃない! 死ぬかもしれなかったんだよ……平気だって、大丈夫だって言ったじゃん」
――泣いていた。
あのアリヴェーラが子供のように取り乱し、俺の顔を叩いてくる。
「ちょ、痛いって……もう大丈夫だから」
「ほんとうに?」
「あー……身体は痛いけど、ちゃんと動くよ」
「そう。ならいい」
少しでも嘘を交えるのをためらって、俺は言い直す。
実際には、あまり大丈夫と言えるような状態ではない。
どういうわけか、俺は弱っている。酷い風邪でも引いたかのような身体の重さだ。
目覚めた時ほど酷くはないのだが、今も動かせば痛みがある。
ルルに言われた通り、安静にしていた方がいいのだろう。
「ごめん……何があったか覚えてない、教えてくれ」
「アーサーはどこまで覚えてるの」
「マグリッドの術式を破壊をしたところまでは、記憶にあるんだけど……」
けれど、その先が俺にはなかった。
既に迷宮の外には出ていたし、あの後に俺がぶっ倒れるような戦闘が発生したとは思えないが――。
「なら、記憶が飛んでるわけじゃないよ」
どうにか思い出そうと後頭部を掻く俺に、アリヴェーラは言う。
「聖剣を引き抜いた直後にアーサーの様子がおかしくなって、大量の血を吐いたんだよ。そのままいきなり倒れて、今まで目覚めなかったから」
「血を吐いた……? そんな怪我は受けてないはず」
「勇者の力、使い過ぎの反動だよ。意識ない間にアーサーを調べたけど、原因はそれしか思いつかなかった。ねぇ、あの時も全然平気じゃなかったでしょ?」
「あー……えっと、問題なかったはずなんだけどな」
「問題がなかったら血吐いてぶっ倒れるわけないじゃん、何言ってるの?」
「ごめんなさい……」
「やせ我慢しないで。助かったからいいけど、いつ死んだっておかしくなかったんだよ」
言われてみれば、俺の身体はあの時から少しおかしかった。
酷い疲れと目眩があったが、戦闘を連続して行ったただの疲れだと本気で思っていたのだ。
「でも、俺の記録にある勇者だってあのくらいは使ってたんだけどな」
「それはあなたの記憶じゃない。同じことして無事でいる保証にはならないよ」
「……そうだな。ごめん」
俺の中に眠っている、覚えていること。
俺が意識的に記録と呼ぶそれらは――俺自身の体験じゃない。
分かっていたつもりで、自分のことをまるで分かっていなかった。
「無事で良かった。ずっと心配してたのに、全く反応もしないし、このまま死んじゃうんじゃないかって……思ったんだよ」
「ごめん。心配させた」
「謝らなくて良い。でも二度と同じことしないで」
頷くと、アリヴェーラは脱力して俺が掛けている毛布の上へことんと転がった。
ここまで狼狽するアリヴェーラを見たのは初めてで新鮮だったが、申し訳なく思う。
俺が死んだら――ここは人間界だ。放り出された彼女達は、生きる術を失ってしまう。
彼女達二人の命も俺が抱えているってことを、もっと重く考えなければならない。
「アーサー。マグリッド達だけど、自分達だけでも救出するって向かったよ。アーサーに頼らなくてもどうにかしてみせるって」
「それは、無茶だろ」
「アーサーが言えた台詞じゃないよね、本当に。今から追おうとか無理だから考えないでよ」
「分かってる……この身体じゃ足手まといだ。日数も経ちすぎてる」
「なら良いけど。それにアーサーは懸賞金掛かってるから、外にも出られないけどね」
……そうだった。
視界の隅、床に落ちている俺の手配書へ目をやり、俺は眉をしかめる。
これに関しては全く意味が分からないものだった。
もっと分からないのは、俺がここで寝ていたことだ。
「なぁアリヴェーラ、なんで俺ルルさんの魔法道具屋にいるんだ?」
「そろそろ聞かれると思ってた……まぁ、消去法。頼れそうなのがここしかなかったってだけ」
アリヴェーラは微妙な顔でそう答えると、魔法道具屋に来るまでの経緯を説明してくれた。
俺が倒れ、マグリッドの術式が解除された後。
二人はサラとルナーリエ救出に向かうマグリッド達と別れ、ニーエが倒れた俺を担いで一旦商業都市レイスにまで戻ったらしい。
しかし、その時既に俺がギルドから手配を受けており、追われた二人は一度森まで逃げ込むことに。
最初は俺が目覚めるのを待つつもりだったが、既にアリヴェーラで一通り治療した上で一向に目覚める様子がなかった。
どころか衰弱が進む一方だったらしく、森の劣悪な環境では他に治療する手段もない。
状況が好転しないと踏んだアリヴェーラは、一か八か最果てに近いエールリまで逃げることに。
まだ手配が他の町に及んでいなかったためか無事に町へと入れたのだが、今度は金がない。
店で薬を購入もできず、最終的に一度接触したことのある魔法道具屋へ逃げ込んだ――というのが、俺が地下室で眠っていた訳だそうだ。
「よく受け入れてくれたね……ルルさん」
「打算もあったんだよ。あの人、私には興味があるみたいだったから」
「アリヴェーラに? なんで」
「特殊な使い魔――って設定でしょ。それに地下室で変なものばかり作ってる人だし、私の存在には価値があると考えた。で、私が研究対象になるのと引き換えに、アーサーを寝かせる場所と治療する薬なんかを貰ったの。ニーエに関しては店番やってもらってる」
「うん……さっき聞いた。本当にごめん」
「謝んなっつったじゃん。その分感謝してよね馬鹿」
言って、俺をじろりと睨み付けてくる。
視線に覇気こそなかったが、もう一度謝った瞬間には目玉に蹴りでも飛んできそうな勢いだ。
話せる事がなくなり、しばらく無言の時間が流れていく。
アリヴェーラは俺の上で寝転んだまま、動かない。
俺も起きているのが辛くなってきたので、仰向けに倒れる。
無機質な天井を眺め、俺はただぼうっとしていた。
こんな状態なのに穏やかな一時だと感じる。
ややあって、アリヴェーラが静寂を断ち切った。
「これからどうするの?」
「……そうだな、どうするかな」
――分からない。
何をするべきなのか、何をしていいのか。
サラはもう、助けに行けない。
きっと全てが終わっている。
もし救出に成功していたのなら、術式の破壊は行うが。
となると俺は指名手配をどうにかするべきなんだろうが、そもそも理由が分からない。
「アーサーのしたいこと、しようよ」
「え……?」
「誰かを助けるとか、そんなの……どうだっていいじゃん。魔王だって、アーサーが以前の勇者みたいになって欲しいだなんて思ってない」
「いや、それは」
「アーサーにとって、マグリッド・アレイガルドは何? サラ・アルケミアは何? ルナーリエは何? あの人達はあなたの仲間でも友人でもない。命を懸けてまで救おうとしなくたって、いいじゃん」
「……」
「――勇者になっちゃ駄目だよ。あなたは、アーサーのままでいて」
「けどそれじゃ俺が人間界に来た意味が」
「違う」
アリヴェーラの叫びが、俺の言葉を遮った。
「勇者として振る舞うなって言ってるわけじゃない。心までそうならないで」
「どういうことだよ……」
「知らない奴のために自分を傷付けてまで戦うだなんて、おかしいよ。何も関係ない他人だって過剰なほど気にかけて救おうとしてる――それはアーサーの意志じゃない」
「……それって」
「術式と同じとは言わないよ、きっと全く別の何か。私にも良く分からないけど……けど、直接アーサーの心を覗いた私は分かるよ。あなたは自覚してないけど、少しずつ勇者という概念に侵蝕されてきてる」
アリヴェーラに、反論できなかった。
違うと言おうとした。全部、確かに俺の意思だと言おうとした。
——でも、兆候はあったのだ。
俺はアルマから分たれたアーサーという人間で、勇者は後付で付与されたもの。かつてアルテだった頃の記録こそ残っているが、俺という存在ではない。
だから、今なら自覚できる。
俺は——勇者でなければ、恐らくニーエを救わなかった。いや、純粋な勇者なら魔物であるニーエを救うことはないが。
それでも助けたのは、きっと魔王になったばかりのアルマがステラを助けたのと——同じ理由。
後悔したつもりはない。
それで良かったと今でも思っている。
しかしあの時、俺は我すら見失った。
でもマグリッドを助けたのは……俺の意志か?
そのはずだ。最初は助けるつもりなどなかったが、彼はアルテを殺してしまったが、そこには理由があった。
だから俺は見捨てたくないと思った。
その、はずで。違う、勇者じゃなくても——救った、はずだ。
今は無理でも、いつかアルマに誤解を解く日が訪れる——そう、思って……思って、いない。アルマは、別に彼らに再会したいとは、全く思ってない。
なら何故、助けた。
別に悪い奴らでもないのは分かってる。
けどそれだけだ。
頭を掻き毟って悩む俺に、アリヴェーラは何も言ってはくれない。焦燥感に駆られたような気がして、俺は何が俺の意志でそうでなかったのかを整理する。
——できない。できなかった。
でも、確実に言えることがある。
俺はおかしくはなっちゃいない。
俺は魔王アルマと、友達だ。
アリヴェーラは、相棒だ。
そう言える内は、俺は俺だ。
後頭部を掻いていた頭から手を離す。
……うわ、血が付いてる。
「ありがとう、もう大丈夫だ。アリヴェーラ」
「何かアーサーは致命的な勘違いしてそうだけど、いいや。私から言うことじゃないね」
「そう思うなら言ってくれよ」
「んー……嫌、自分で気付いて。これ私が言っちゃったら、もう気付けなくなっちゃいそう」
首をふるふると振って、彼女は悲しげに笑む。
その意味が分からないまま、彼女は俺の視界から外れて行ってしまう。
「身体くらい大事にしてよね、馬鹿」
その言葉と同時に、ひりひりと傷んでいた後頭部に温かい感覚があった。
ああ、今の傷を治してくれたのか。
「ごめ……ありがとう」
「いいよ」
俺は天井を見上げたまま、思考を止める。
身体は痛いし、ずっと寝てたらしいのに疲れてるし。
少し休もう。考えるのはその後だ。
「……腹、減ったなぁ」
ぽつりとついて出た言葉に、アリヴェーラが反応した。
「なら——美味しい物でも作ってあげるよ」
勇者視点終了。
更新がばらついて長らく空いてしまいましたが、次章から魔王の話に戻ります。恐らく年内更新はこれでラストですが、余裕があればもう1話更新するかもしれません。
皆様、良いお年を。




