53話 本能と理性の間
――魔王を殺すために旅をしている。
彼女は俺の目を見て、確かにそう言った。
それに対して、俺は未だその言葉の全てを飲み込むことができていなかった。
彼女は過去の魔王ではなく、俺達以外がまだ知らないはずの魔王を殺すと言っているのだ。
そして何より飲み込めなかったのは――理解ができなかったのは。
その言葉をどこか違和感なく受け止めようとしていた自分が、心の片隅にいたことで。
そんなはずがない。
彼を殺す理由などどこにもないのに、納得しそうになるなど……。
「どうした?」
「いや……正気ですか?」
ひとまず、そう返しておく。
「正気だからお前に声を掛けたんだろうが。勇者になれなかったんなら、アタシ一人じゃ無理ってことだ」
「えっと、つまり?」
「――お前の旅にアタシを連れて行け」
彼女はそれだけ言うと、カップの残りを一口に飲み干した。
「……」
俺は彼女の提案に答えることができず、黙るしかなかった。
――きっと。
俺という存在が世に現れていなければ、勇者という力を引き継いだのは彼女のような誰かになったはずだ。
俺はただこの力が俺にあることを世に知らせるために活動しているだけであって、魔王を倒そうとはしていない。
だから彼女と仲間になって、世界を旅することは絶対にできない。
魔王を倒そうとしているのであれば、彼女は俺にとって味方には成り得ない。
――けれど、そんな事を口にできるはずがなく。
「……アタシじゃ役に立たねぇってか?」
「いいえ。リーズリースさんは、どうして魔王なんてものを倒そうとしたんですか」
「あぁ? 理由が必要なのか?」
呆けた顔をし、彼女を疑問符を口にする。
いや違う。
必要なのではなくて、俺は彼女が魔王を殺そうとする本心が知りたいのだ。
普通はそこに理由なんてない――そうだ、魔物は、魔王は人を殺す。
今までそうだったものに対して、逆に殺さない理由など本来あるはずがない。
食事や睡眠と同じレベルの本能。
それらと一つだけ違うのは、やるのが自分でなくてもいいということだ。自分がやらなくても、勇者がやってくれること。それでも自分が倒そうと志すからには相応の理由があるはず。
俺はそれを知りたかったのだ。
彼女は少し退屈そうに、こう答える。
「師匠だったアイツの遺言だからだよ。今代の魔王がこの世界を滅ぼす、だからお前が止めろってな」
「……なんだって?」
「ほら答えたぞ。てか断る理由ねーだろ、はっきり言ってアタシより強い奴なんざいねーと思うぜ」
「俺が言いたいのはそうじゃなくって……それどういうことなんです?」
「言葉のまんまだろ。このまま順調に進んだらお前は魔王に殺されて、人間は滅びる」
「いや……そんなはずは」
それ以上はいけない、と俺は口を閉ざす。
怪訝そうに首を傾げた彼女から視線を外し、俺は思考を重ねた。
リーズリースは、何を言っている?
彼女は明確に今代の魔王と口にした。
つまりは魔王アルマが人の世界を滅ぼすということである。
しかし彼がそんな事をするはずが――あるはずがない。
彼の本心は知っている。俺が持つ彼の記録は魔王だった頃のものまで含まれている。
肉体と心を二つに分かつまでの彼の心に、そんな所業を実行する意思は欠片もなかった。
「……あの。リーズリースさんの師匠って預言者か何かなんです?」
「預言者かどうかは知らねーな。まぁ自分を魔女だとは言ってた気がするけど」
「――魔女?」
ここに来て突拍子もない解答が飛んできて、俺は思わず叫んでしまった。
それは俺が持つ数ある記録の中で、絵本の中にだけ登場する単語の一つだった。
魔女とは一般的に良い意味で使われることはなく、絵本の中で魔物と同列に扱われる恐怖の存在だ。
その一節によれば魔女はあらゆる魔法に精通した不老不死で絶世の美女であり、人間の子を食らってそれを実現しているのだとか。魔女は普段は森の中に隠れ住んでいるのだが、悪い子が夜に出歩くとたちまち現れて攫って食ってしまう――。
そんな、親が子に一人で危険な外を歩かせないために言い聞かせる迷信にもなっている。
師匠とやらが絵本の魔女通りの存在だとは思えないが、ことこの場で彼女に言われると、師匠が只者だとは思えなくなってくるというものである。彼女の魔法の腕を見る限り、師匠と呼ばれる人間は実際かなりの実力を持っていたのだろう。
或いは、未来を予知する魔法でも会得していた可能性はあるかもしれない。
「いや……じゃあ、その言葉を信じて魔王を倒そうって?」
「別に信じてたワケでもねーけど、頼まれてたからな。それにお前が現れてアイツの言ってたことが適当でもねーなってことが分かったし。だいたいお前こそなんで旅してんだよ、アタシよりガキの癖して勇者になりやがって」
「……俺は――」
俺は。
彼女の質問に、俺は答えられない。
だって、俺には何もない。
だって、俺は究極的には何者でもない。
生まれた時から勇者で、最初から役割を持った何かだった。
なんでと聞かれたら、それは言葉にできる類のものではない。
俺は本能で今こうしている。そして本能から抗ってこうしているのだ。
勇者だから――魔王を倒さなくてはならない。けれど魔王はもう一人の俺で、そのもう一人は俺だから悪い奴じゃなくて、でも俺は勇者の本能で彼を殺す焦燥に駆られていた。
でも――俺は彼を殺したくはなかった。
だから彼の傍を離れて、彼が生き永らえる唯一の道を取った。
今でも本能は殺したほうが良いと言っている。
なんで? どうして? 何故そんなことをする必要がある?
だからそれは俺の心じゃない。
心が――ぐちゃぐちゃになっていく。
「少し、考えさせて下さい」
頭の中に掛かる靄を振り払うように言って、俺は一人立ち上がった。
「明日返事はします」
「はぁ? お前ちょっと待……いや、じゃあそれでいいわ」
そのまま彼女に背を向け、俺は酒場の入り口へと逃げるように歩を進める。
彼女は俺を一度は呼び止めようとはしたものの、何故かそれを取りやめたようだった。
その方が助かる。今は、彼女に正式な返事をするのは難しい。
頭の中を整理するのは時間が必要だったし、ちゃんと考える必要がある。
明日返事をする――か。
口をついて出たとはいえ、心にもないことを言ってしまった気分だ。
到底明日になんて返事できるものじゃないだろう。
けど、このまま逃げるわけにはいかないよな……。
何も心が纏まらないまま、俺は酒場を後にした。
◇
「どうするの? アーサー」
外に出てから少しして、肩の上に座るアリヴェーラがそんな事を聞いてきた。
とぼとぼと暗がりの路地を歩いていた俺は、小さく首を振る。
「どうしようかな。何も考えられてない」
「明日答えるんでしょ?」
「そうだね……まさかこんなことになるだなんて、考えもしなかった」
「私もびっくり。でも意外だとは思わなかったかな」
「……予期してたってこと?」
「うん。あなたは勇者なんだから、仲間はいつか集まるものでしょ」
まるで最初から知っているかのように、アリヴェーラはそう呟く。
「ちゃんと考えないと、アーサー」
「分かってる」
「分かってない。私は言ったよ? 私は〝魔王〟が嫌いだって。この言葉の意味をもっとちゃんと考えて――本当は気付いてるんでしょ? アーサーも。ううん、アーサーだからこそ」
いつの間にか俺の眼前に回り込んでいたアリヴェーラ。
彼女の透き通った両目が、俺を射抜いている。
――そうだ。
俺がこんな意味のない焦燥に駆られている以上、それは魔王とて同じなのだ。
彼が魔王アルマだから安心であるとか、前魔王ディエザリゴだから危険であったのではなく。
魔王である以上――いつかこの役割に飲み込まれる可能性がある。
「ああ、そうだね」
小さく頷き、俺はアリヴェーラの頭を人差し指で撫でる。
「でも……だからどうしたという話じゃないか。俺は彼とした約束を反故にするつもりはないよ」
「そうやって何もかもが手遅れになってもいいって言うの?」
「ならないさ。俺は彼を信じる」
「……そっか」
指を離す。
そこにある彼女の瞳は険しさを失わないまま、けれど俺の言葉を飲み込むように優しげに頷いた。
「アーサーが決めたのなら、もう何も言わないよ」
「ありがとう。アリヴェーラに発破掛けられなきゃこの感情も多分定まらなかった」
「あっそ。私はそんなつもりじゃなかったんだけど……」
「じゃあどういうつもりだったのさ?」
「言わないってさっき言ったばかりじゃん」
「けどアリヴェーラは俺に納得してないんだろ? なら我慢して欲しくない」
「そう。ならぶっちゃけるけど」
呟いて、彼女は一拍間を空けてから。
「私はちゃんと殺す決意をして欲しかったの! アーサーの言うようには絶対ならないから」
「なんで断言できるのか分からないけど、未来でも見たのか?」
「未来は見てない、けど過去は見てる」
「……それは」
「ステラも気付いてるよ? 分かってて残りの命を捧げているの」
俺はアルテの人生を覗くことで数々の知識を知っている。
それでも、アリヴェーラの――ステラの過去は知る由もない。俺が知っているのは、彼女が過去に魔王から酷い仕打ちを受けているということだけ。
きっと言葉で表現するのも烏滸がましいような、そういう過去があったのだ。
けれど、彼女が忌避しているのはそれだけじゃないのか?
「――私はステラとは違う。でも、アーサーがそう決めたんなら私はもう何も言わない。だからこの話はこれでおしまい」
ぴしゃりと言い切ってそっぽを向いた後、彼女は鞄の中へと引っ込んでしまった。
俺は一つ息を吐いて、歩みを再開する。
どこへ行くでもないけれど、月明かりの道をただ進む。
とりあえず一夜を明かせる野宿先は探さないといけないのだし、まさか大通りで眠りこけるわけにもいかないだろう。
「アリヴェーラ」
鞄の外側からそっと手を置いて、俺は彼女へ声を掛ける。
きっと返事はない。
彼女が終わりだと言った話をこれから勝手に蒸し返すのだから、それは仕方のないことだろう。
けれど不安がっているなら言うべきだ。
その場限りの出任せではなく、俺の覚悟を。
「俺は彼を信じてる。だからこそ、約束が果たされなかったのなら斬るよ」
彼が彼でいる内はそうしないだけで、本物の魔王となったのなら役目を果たすだけ。
俺が勇者だから、ではない。彼が望まない災禍を振りまく前に、せめてこの手で終わらせてやりたいから斬るのだ。
俺の中にはただの記録しかないけれど――裏切られてなお人に刃を剥かなかった彼が魔王化して世界を滅ぼすなど、死ぬより嫌だろうからさ。




