104話 沿岸の一幕
ルル・エウルートは港の端で、海風に当たっていた。
ニーエは彼女の一歩後ろに立ち、鼻をつまみながらルルと同じ方向をぼんやりと見つめている。
そこは港から照らされる魔力灯の明かりだけで見える、真っ暗な水平線。
もしもこの中に落ちれば、陸に上がるのは難しそうだ……などとニーエが考えていると、やけに上機嫌にルルが呟いた。
「ふむふむ。海の腐敗臭が漂っていますね、良い感じです」
「……腐った臭いが、好きなんですか?」
「死骸が豊富ということですよ、この海はエネルギーの宝庫と言っても過言ではないでしょう。採取しますよ」
「え。研究の材料、ですか?」
「はい。とある水薬の研究に使う宛てがあるんですが、海にはめったに来られないので確保しておこうかと思いまして。こちらが採取用の瓶です」
「用意がいいですね……」
「フィールドワークには用意が大事なのですよ。できれば魚も欲しいですが……あ、生きている魚が良いですね。死んでいるものなら購入で良いですから」
ニーエはなるほどと表面では頷きつつ、その奇行を見つめる。
元からルルは人間としては少し、やや……いや結構アレな部類だった。
研究に勤しむ姿にこそ見慣れたものだが、こうしたルルの姿は珍しい。
珍しいだけで、別段不愉快なわけでもないのだが。
ただ、研究という行動はニーエにとって馴染みがなかった。
魔法の修錬に置き換えると理解できなくもないが、やはり彼女のそれは違う。
少なくとも、彼女の行為が人間の普通ではないことは知っている。
今までも見たことはなかったし、街に出たところでルルと似た人間はいなかったからだ。
これはきっとルルだけの特別なのだろう。
「ニーエ? どうかしましたか?」
「あ、なんでもありません」
「明らかに口に出すのを止めたように見えますが、良いでしょう。海の匂いには慣れませんか?」
「嗅いだことのない感じです。慣れません」
「ふふ、私もです。住んでいれば気にならなくなるのでしょうが……うわっ、とと」
話しながら瓶に糸を巻き付け、海を回収しようとしたルルだったが、糸を垂らしている途中で体勢を崩した。
かつん、と瓶の横面が壁にぶつかる音が聞こえてくる。
「私が取ります」
見ていられない。
このままにさせていると海に落ちて呑まれてしまいそうだ、とニーエは手を目の前にかざす。
魔力を練り上げて指先から伸ばし、遠隔で瓶を掴むだけの簡単な作業だ。
糸で括って垂らすよりよほど安全だろう。
「……わあ。やはりニーエは凄いですね」
「魔物なのでこのくらいはできて当然です」
「人にはほとんどできないんですよ? 魔法の行使には幾つかの手順を踏む必要がありますから、ニーエのようにはいかないのです」
「……不自由ですね」
海の水をたっぷりと組んだ瓶を渡してやると、ルルは両手で受け取り礼を言う。
「不自由……ええ、私もニーエに同意します。私の研究はですね、その不自由さをできる限り取り除くことなんです」
「なるほど……」
「使用条件が多過ぎて、今は売り物にできませんけどね」
ルルが懐から球状の何かを取り出し、手の平に並べる。
しかしそれ以上のことは認識できず、二ーエは小首をかしげる。
「見て何か分からないようなものの普及など、まだまだ先の話でしょうけれども」
「あの、これは何に使うのでしょうか?」
「主に戦闘で使う魔道具ですよ。球体には予め色に応じた攻撃用魔法陣を刻んでいるので、球体一個につき一発の魔法を放てるのですが……まぁ、このままでは消耗品ですね」
今度は自らのローブの袖口部分を捲り上げると、右腕の肘までを露出させた。
その腕は硬質な金属に覆われ、素肌は見えないが……。
「――このガントレット、手首の内側に穴が三つ空いているでしょう? 先ほどの球体を嵌め込むとですね、消耗品ではなく付属部品として魔法を行使できるようになるんです」
「え」
「そして球体三つの組み合わせで、扱える魔法と種類が変化、複合します」
「……それは、とても凄いことなのでは」
「凄いでしょう。ただ、魔力がすぐ枯渇するのが問題ですね。球体に刻んだ魔法はガントレットに充填した液体魔力にしか親和性がないので、個人の魔力には反応しません」
「それなら、対応させればいいのでは」
その質問に対し、ルルは静かに首を振る。
「そういった調整を行うつもりはありませんよ。誰もが同じ水準で魔法を扱えるようにするのが目的ですからね。なので課題はエネルギー効率と圧縮率でしょうか。大型化は避けたいですが、ガントレット自体の容量を増やす余地もありますね」
「――」
二ーエは目を見張った。
ルルが目指す方向性は通常の思考とは大きく乖離している。
魔法が使えないなら、使えるようになるまで研ぎ澄ませれば良いのだ。
人間の魔法水準は二ーエ達に比べるべくもないが、それでも強力な魔法を使える者は存在している。
使える以上、足りないなら研鑽を積むのは自然な流れだろう。
使えなかったのだとすれば、才能が、努力が、環境が、何かが足りなかったことになる。
だが、ルルはそれを道具で補い、誰でも達人にすると言っているのだ。
――仮に。
問題が全て解決されたガントレットを全ての人間が装備し、あらゆる魔法を外部の魔力で行使できるのだとすれば、それは立派な脅威。
もしかすると一人の勇者よりも、よほど危険な存在になるやもしれない。
こんな危険な存在が、野放しでいいのだろうか。
彼女自体が危険でなくとも――彼女の研究は脅威だ。
二ーエの首筋に冷や汗が流れ、どこか体の奥が凍り付いた感覚を抱く。
瓶を掴む時に練り上げた魔力が、切れた糸のように地面に垂れている。
この矛先をルルへと向けるだけで、容易く命を摘むことはできる。
その後自分がどうなるかは火を見るより明らかだっとしても、種族全体の安定を望むのであれば、些細なことで。
「――とても、恐ろしいです」
なるほどと黙って頷くだけのつもりが、そんな言葉が口をついて飛び出してしまった。
しかしルルは驚くでもなく、じっと二ーエを見つめている。
いつも魔法道具屋で話すような、感情の見えにくい淡々とした表情で。
「ええ、これは恐ろしいものです。研究が成就した場合、いつか必ず悪用される日が来るでしょう。ただ、誰かに力と責任を押し付ける今の方がよほど狂っていると、私は思います。ですが二ーエにとってこれが恐怖に映るのも、ちゃんと分かっていますよ」
「ならどうして、私にその話を……」
「対話とはそういうものです。たった今、二ーエが私を攻撃せずに歩み寄ってくれたのも同じではありませんか? ……黙っているままでは良くないと思うので、正直に話しておこうかと」
「でも、止めるつもりはない、と?」
「はい。ですが互いの納得は得られるはずですよ。私はどこかの誰かのような善人ではありませんので、落とし所を持っていないのに打ち明けたりはしません。では、お聞きになりますか?」
――最初から今の話に繋げるのが目的だったのか。
そう言われてしまえば、二ーエに聞く以外の選択肢などあるわけもなく。
そうでなくとも、この人間界で刃を向ける選択肢がほとんどないというのに。
「なら、聞きます」
渦巻いた感情を心の内に仕舞い込んで、二ーエは頷いた。
己の感情に任せて突っぱねることは簡単だ。
けれどそれには意味がない。
第一、今の話題さえ出さなければルルの意図と目的に気付くことはなかったのだから、やはり聞くべきなのだ。
「ありがとうございます――二ーエ、私と共に魔道具を創りましょう。そして二ーエの類まれなる魔法の才を使い、私が分からぬように魔道具に欠陥を施しておいてください。明確な対抗策さえ知っておけるのならば、私の魔道具は恐怖の対象でもなんでもなくなる、でしょう?」
「は――ぁ?」
「珍しく、口をあんぐりと開けて驚かれていますね」
驚かないはずがなかった。
これを言い出したのがアーサーであれば今更なものだが、あくまで論理がはっきりしているルルから飛び出た台詞ではない。
二ーエはくしゃりと顔を歪め、ルルの言葉を飲み込もうとする。
だが、二ーエから答えが出るなどとは最初から考えていなかったのだろう。
ルルは人差し指をピンと立て、どこか得意げな顔でこう言った。
「それで良いのですよ。私にとって、力を振るえる場所は私達の世界だけで充分なんです。侵略の道具としては役立たずである方が都合が良い」
「あ――そういうこと、ですか」
今までの疑問が、二ーエの中から一度に消え去った。
ルルが何を言っているのかを途端に理解してしまえば、単純な話だ。
彼女は人間界に足を踏み入れた魔物の排除がしたいだけ。
それはつまり、魔王と魔人が送り込んだ軍勢だけ――間違っても普通の魔物は人間界には来られないのだから、当然の話。
だから二ーエの仲間には一切関係がないのだと、ルルはそう言っているのだ。
「ですので、これからも手伝って頂けると助かります」
「――ひとつ、尋ねても良いでしょうか」
「? ええ、構いません」
「どうして、私を受け入ることができたのですか」
アーサーやアリヴェーラは良くも悪くも特殊な在り方だが、ルルは普通に人間界で暮らしている。
多少世間とズレていることがあっても、そこは同じ。
しかし二ーエと初めて会った時から、ルルは拒絶しなかった。
店の作業を任せるだけでなく、無防備にも隣で眠るし、言語を覚える手伝いまでしてくれている。
「二ーエは素直で、真面目で、頑張り屋さんだからです」
「え――」
「魔物に知性があることは様々な文献を読めば分かるものです。その上で、初めて対話を試みた相手が二ーエのような女の子なら、私は歓迎しますよ。あぁ、私は女なのでエルフの特色は考慮していませんからね」
どこからそれを聞いたのか――いや一つしか考えられないが――長命族と呼んだ彼女はにこりと微笑むと、二ーエの頭を撫でてくる。
その手は小さかったが、どこか大きく感じた。
二ーエはただその手を受け入れ、視線を下に向ける。
ぽふ、と顔に柔らかな感触と、背中に回されたもう片方の手。
抱き締められているのだと気が付いて、そのまま体重を預けた。
「随分と長居してしまいましたね。そろそろ帰りましょうか、二ーエ」
「――はい」




