第十七話
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安倍が伊藤に初めて会ったのは彼が生活安全課に配属された3年前の事である。刑事になりたての安倍は捜査官として右も左もわからぬ状態だったが、その安倍に対し伊藤は刑事としてのイロハを教え込んだ。
被疑者との接触の仕方、取調での対応、相手との会話、経験が少なく対人能力が低い若い刑事にとって伊藤の教えはじつに有用であった。
だが、ここ最近の伊藤はどことなくおかしかった。冴えない中年のおっさんには見えても犯罪事案には鋭いキレを見せるはずの伊藤が現場に顔を出さなくなったのである。『現場百回』とい昔気質の哲学を持つ伊藤としてはありえぬことであった。
『おかしいな……伊藤さん』
安倍は伊藤に対し恩義を感じるだけでなく尊敬の念さえ持っていた。取り調べで見せる伊藤の交渉術が巧みであること、そして刑事としての姿勢に感服するものがあったからである。生活安全課は非行少年や少女の犯罪を扱うことが多々あるが、その時に見せる伊藤の手腕は安倍のような若い刑事にはない懐の深さがあった。
だが、現在の伊藤の様子には覇気がない。安倍も刑事の端くれである、自分の『相棒』に変化が表れていることはすでに気づいていた。
『……伊藤さん……』
小さな地方都市の生活安全課で処理する事件は東京や大阪と比べれば件数は少ない。だがその一方で濃密な人間関係から生じる歪んだ小競り合いは意外と多く、積年の恨みや、少ない公共事業を巡ってのいやがらせから生じた犯罪は毎月のようにある。長く同じ地域ですむことにより生まれたしがらみが犯罪を引き起こしているのだ。
『誰かに……何か頼まれてるのか……たしか……電話で……遺書がなんとかって』
特にその歪みが現れるのがコネと呼ばれるものである。実力よりも血縁や地縁が優先され、地元の有力者にとって都合のいい人間が選ばれるのである。
『伊藤さん……誰と……』
安倍の中で伊藤に対する疑念がわき始めた。
そんな時である。セダンに乗って出かける伊藤が安倍の眼に入った。
『様子を見てみるか……』
安倍はそう思うとその眼を刑事のそれへと変えた。
*
由香は帰ってきた宏と今までの経緯を話し合い、夢魔に関する事がらを確認し合った。
「夢魔の元凶は俺たちの近くにある。きっと発端は中島美紀ちゃんの事故死だ」
由香はそれに強く同意した。
「誰かが夢魔の根に絡みとられていて、それが私たちに伝播した……そして私は精神的に追い込まれ……あんなことに……」
由香が言うと宏が続いた。
「お前と同時期に俺も夢を見るようになった。そして夢の中に夢魔が現れた……事件に直接関係ない人間にも奴らは触手を伸ばす……」
宏は夢魔の持つ力に改めて恐怖を感じた。
「そして副島先生が死んで……今回は絵里ちゃんを中心としてブラスバント部全体に夢魔の触手がひろがった。」
宏と由香は顔を見合わせた。
「あの人がいなかったら……どうなってたんだろ……」
「……俺もそう思う……」
2人はショットガンを片手に夢世界で夢魔を殺戮する少女に思いを馳せた。
「……名前なんて言うんだろうね……」
由香の疑問は宏も同じものをもっていたが、彼女の持つ慄然とした雰囲気はそれを問うことを許さぬものがあった。
宏は話を夢魔に戻した、
「いずれにせよ、近くに夢魔の根になる人物がいるはずだ。」
宏が話を戻すと由香が鈴木絵里の口ごもった内容に触れた。
「絵里ちゃん、言えないことがあるって……それがカギかも……」
「そうだな……」
鈴木絵里が話さない限りは事の本質は見えないが絵里が手掛かりを握っているのは間違いなかった。
「話してくれれば……いいんだけど……」
宏がそう言うと由香が答えた。
「無理だよ、あの様子だと……何か重たいものを、抱えてるんだと思う……」
由香は妙に大人びた表情でそう言った。
宏はその様子を見て由香の精神がかつてと比べ、はるかによくなっていることに気付かされた。
「よかった……由香、あの時はガチでやばかったから……」
宏がポツリと言うと由香は切り返した。
「大丈夫に決まってるでしょ!!」
由香は元気な声を出すと何か思いついたらしく立ち上がった。
「あたし、他の部員の子に色々聞いてみる」
由香はそう言うと着替えだした。宏は兄妹ということもあり別段、配慮することもそれを見ていたがあることに気付かされた。
その視線に気付いた由香は宏に非難の目を向けた。
「ちょっと、お兄ちゃん、出て行ってよ!!」
「あっ、ごめん……」
宏は微妙な雰囲気を嗅ぎ取ると部屋をそそくさと出た。そしてドアを閉めると大きく息を吐き神妙な顔を見せた。
『あいつ……成長してるな……胸が……』
宏は思わぬに変化にたじろいだ。
*
安倍は伊藤の様子を観察していたが、思わぬ展開が待ち受けていた。
『なんでこんな所に……』
伊藤が足を運んだのは浅間公園の緑道であった。浅間公園は3haの広さを誇る緑豊かな公立公園でテニス場や野球場も併設された市民の憩いの場として知られている。だがその一方、緑道に関しては市の予算の関係もあり整備が遅れ、昼間でも薄暗くあまり人が近寄らない道になっていた。
昼間でさえ人通りの少ない場所に向かう伊藤に対し安倍は不可思議な思いを持ちながら尾行を続けた。
『あれ、誰だ……』
伊藤は70歳近い初老の男とコンタクトしていた。小柄な老人で温和な雰囲気を醸しているがそのメガネが妙に不釣り合いな大きさのため表情は読めない。
安倍は会話が耳に入る距離に接近しようと試みた。
『駄目だ、遮蔽物がない……』
伊藤と小柄な老人が話している場所は近づく人間すべてがその視野に入るという位置であった。
『伊藤さんは、計算づくか……』
尾行において重要視されるのは『相手に悟られないこと』以上に『確実に身を隠す場所を見つけること』である。先んじて身を隠す場所を見つけることで相手の死角に入ることができれば発見される可能性が低くなるからだ。だが伊藤はそれを逆手に取った方針、すなわち尾行者が確実に視野に入る場所を待ち合わせ場所として選んでいた。
安倍は何とか近づける場所を探したが伊藤の戦略には及ばず、その場を動くことができなかった。
『駄目だ、これ以上は……近づけない』
ちょうど声が耳に届かない絶妙の距離に二人は位置していて伊藤と初老の男の会話を耳にすることができなかった。
『さて、どうするか……』
安倍は次の一手を考えたが、発想を変える選択を選んだ。
『伊藤さんを尾行してもうまくいかないなら、あの老人をつけたほうがいいかもな。』
ターゲットを変えて尾行することで伊藤の会っていた人間の素性がわかればそれそれで充分な情報になりうる。安倍はそう思うと行動を切り替えて尾行を開始した。
*
小柄な老人は伊藤と違い全くの素人で安倍の尾行に気付くようなことはなかった。
『そのままヤサに言ってくれるといいんだが……』
ヤサとは被疑者の棲家の事だが、小柄な老人は棲家に戻るどころか駅に併設する商業ビルに入りお茶を飲みだした。
『ケーキセットなんか喰いやがって……』
小柄な老人は紅茶とショートケーキを平らげると満足した様子で金を払った。その際、スマホの画面を店員に見せて割引を受けるサービスを活用していた。どうやらなんちゃってスマホ老人(スマホを持っているものの使いこなせない年寄り)とは違うようだ。
安倍はその様子を見ながら小柄な老人をつぶさに観察したが、その様子に不審なものはなく、伊藤との関係も見えてこなかった……
『ひょっとして、俺の勘違いか……』
安倍がそう思った時である、何と小柄な老人はその姿を消していた。
『あれ……』
老人は一瞬にして安倍を巻いていたのである。
捜査官としてのプライドに泥をかけられた安倍であったが、相手の行動があまりに迅速で成す術なかった。
『クソ、しくじった……』
安倍は情けない顔をみせて店を出ると何事もなかったかのように振る舞い、来た道を戻る他なかった。
*
一方、その後姿を路地に隣接した雑居ビルの二階から見ている人物がいた。
「メールを頂けなかったら、気付きませんでした。」
そう言ったのは先ほどの小柄な老人であった。スマートホンに耳を当てて会話している。
「あの程度の尾行なら大したことはありませんよ」
電話の相手がそう言うと慇懃に小柄な老人はこたえた。
「さすが刑事さんですね……本当に助かりました。」
小柄な老人がそう言うと電話の相手は何も答えなかった。
「では、また」
会話が終わると『刑事さん』と言われた男が顔を上げた。
『安倍の野郎……尾行しやがって』
言うまでもなく伊藤であった、だが、その顔には若干の焦りが滲んでいる。
『どこまでつかんでいるんだ……あいつ』
伊藤は若い相棒がもつ自分に対する疑念に対して刑事としての勘を働かせた。
『注意するか……それとも……潰すか……』
伊藤の中で邪魔者を排除する思考がジワリと生み堕とされていた。
安倍という刑事は今までの経緯から、自分の相棒である伊藤に不信感をいだきます。そして、尾行した結果……伊藤が妙な老人と接触している現場を目撃します。
その一方……伊藤は安倍の尾行を看破しています。そして安倍に対して不快な感情を持つことになります。
さて、この二人の関係はどうなるのでしょうか?




