第十一話
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宏は由香のいる病院へと向かった。傾きかけた太陽を背に受けながら自転車に乗っているとその視野に副島洋子の住んでいたマンションが飛び込んできた。
『あの人が虐めの元凶だったんだろうか……やっぱり良心の呵責で……』
中島美紀の虐めを看過し、素知らぬふりをした教師が自殺したことは宏の精神に昏い影を落とした。
『でも解放されたいって言ってたよな……死ぬことが解放なのか……』
夢魔という理解しがたい存在に侵食された宏は自分では制御できない精神の深層を覗きこんでいた。
『自我、スパーエゴ、イド……それらが絡み合って人の精神は構築される。だがそのバランスが崩れ、心に隙間ができた時……夢魔が襲い掛かる……副島洋子が解放を望むなら生きることを選ぶはずだ……なぜ彼女は死んだんだ……』
漠然とした疑問であったがその答えは判然としない……
『副島洋子は生きるという選択肢を拒否したのだろうか……』
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宏がそんなことを思っていると病院の正面玄関の前に由香と父の雄太が立っているのに気付いた。
「……父さん……」
雄太はそう言われると疲れた表情で笑った。長旅を無理して帰ってきたのだろう、シャツはよれて無精ひげが伸びたままであった。
「迷惑かけたな。先生に会って話してきたけど……もう大丈夫だそうだ。一時期は危なかったみたいだが……退院の手続きも終わった。」
雄太はそう言うと意味深な表情を浮かべた。
「由香の顧問の先生が自殺したんだってな……」
雄太がそう言うと由香が続いた。
「おにいちゃん……変だよ……先生が死ぬなんて……」
由香は不安な表情を浮かべた。
「ああ、俺もそう思う……」
宏がそう言うと雄太が声を上げた。
「何があったんだ、たまには父親に相談てみろ」
雄太がそう言った時である、2人の男が宏たち3人に近づいてきた。
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「田中宏君だね、話を聞ききたいんですが」
雄太が二人を怪訝な表情で見ると二人が懐から手帳を見せた。
「浅間中央署の伊藤です」
「同じく、安倍です」
伊藤は50歳前後の風采の上がらない男でしわのついたコートに身を包んでいた。もう一人の安倍はまだ刑事としての風格はなくジャケットにチノパンという清涼感のある恰好をしていた。
「うちの息子が何かしたんでしょうか?」
雄太がそう切り出すと伊藤が答えた。
「昨日の晩、マンションから女性が飛び降りまして……その死亡時刻とほぼ同じ時間に女性の部屋から出る宏君の姿を住人が見ていましてね、エレベーターのカメラでも確認済みですけど……」
伊藤はにこやかな表情を浮かべた。その眼はいたって普通の中年男性で一見すると和やかな会話が始まりそうな雰囲気がある。だが雄太はその内容から宏の状況がかなりマズイと踏んだ。
若い刑事はジャケットの懐からビニール袋に入った牡丹の櫛を見せた。
「宏君、これに見覚えあるんじゃないかな?」
既に警察はかなりの事を調べているようで、副島洋子の死に宏が絡んでいると確信している様子がうかがえた。
「聴取に協力してもらえるかな?」
伊藤は淡々とした口調で宏に話しかけた、そこには恫喝や脅しといったものはない。だがそのにこやかな表情の裏には明らかな圧力があった。
それに対し雄太はすぐさま、切り返した。
「任意の聴取ですよね……なら断ってもいいんですよね」
「もろちん構いませんよ、ですが『札』を用意することになりますけど」
『札』というのは逮捕状の事でそれが発行されたとなるとかなり厳しい状態に追い込まれる。宏の人生が『終わり』を迎えることにもなりかねない。
「どうしますか、お父さん?」
警察が逮捕という事態をちらつかせてプレッシャーをかけるのはよくあることだが、伊藤の表情にはそうしたものはなかった。つまり本気で札を取るということである。
社会人としてそれなりにキャリアをつんできた雄太にとっても伊藤の言葉は衝撃的であった。
宏はたじろく父の姿を見て、宏は自ら切り出した。
「いいですよ、僕は何もしてませんから。捜査に協力します。」
宏は後ろ暗いことがないためハキハキトした口調でそう言った。
伊藤はその様子に訝しんだ表情を一瞬見せたが、安倍に車を回すように合図した。
「宏、俺の知り合いに弁護士がいるから、心配するな」
車に乗って連行される宏に雄太は緊張した口調で話しかけた。
「大丈夫だよ……何もしてないから」
宏は事実をそう言ったが、それが警察に通用するかは別である。やはりその表情には不安感が滲みだしていた。
由香の行為が発端となり中島美紀は不幸な事故に見舞われたわけだが、それが転じて顧問の副島洋子が死に、現在は宏がその死亡に関わる被疑者として警察に連行されることになった。夢魔が絡んだ事件は宏の人生の歯車を明らかに狂わせていた……
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宏は浅間中央署の取調室に通されると、早速尋問が始まった。
「ある程度、君のことは調べている。それから妹さんの事も」
切り出したのは安倍である、
「副島先生はクラブの顧問で妹の由香さんを指導していた。だがその指導は別のモノにも向けられていた。」
安倍はそう言うと宏をジロリと見た。
「中島美紀に対する虐めだ。」
宏は安倍を見た。
「副島先生は中島美紀の虐めを見過ごすどころかそれを助長するような行動をとった。先生は君の妹に中島美紀をいじめるようにけしかけたんだよ!」
宏は安倍の推論に驚きを隠さなかった。
「君はそれを知っていたんだろ――そして義憤に駆られた君は妹さんにメールで連絡させた後、副島洋子の家に行ったんだ。そしてそこで副島洋子とトラブルになった!!」
宏は反論をゆるさず詰めてくる安倍の圧力に不快な印象を待たざるを得なかった。
『この人は俺を犯人にするつもりなのか……』
宏が内心そう思った時である、穏やかな声でもう一人の刑事、伊藤が声をかけた。
「違うと言うなら、申し開きしたらどうかね。副島洋子の部屋の中で何があったか自分で説明してみなさい。」
伊藤は先ほどと同じく朗らかな笑顔を浮かべてそう言った。
『飴と鞭か……』
取り調べにおける古典的な方法である。片方が脅すような口調で被疑者の精神をいたぶり、もう片方が被疑者に助け舟を出すような態度をとる。温度差のあるアプローチで被疑者の精神を追い詰めていく戦術である。
2人の刑事は飴と鞭を使い分け宏を籠絡させようと時に声を張り上げ、時になだめ、関係のない話をはさみながら宏の精神を揺さぶった。だがそれは宏を犯人に仕立てようという誘導尋問以外の何物でもなかった。
「宏君、君の指紋が副島洋子の部屋から見つかっている、君が部屋にいたのは間違いない。どうなんだ、本当のことを話したら。正直に話せば少年法が守ってくれる。罪を軽減するチャンスなんだぞ!」
安倍は怒気のこもった口調でそう言うと机をたたいた。
宏は目の前で展開する刑事の圧力がドラマとは違いはるかに陰湿で恐喝めいていることにたじろいだ。
『駄目だ、下手に喋っても揚げ足を取られる……それに夢魔の話をしてもいみがない……』
宏はそう思うととにかく沈黙を続けた。
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しばらくすると、伊藤が安倍との役回りを変えた。
「いいかげんに話したらどうだ、俺たちもガキ相手に遊んでる暇はないんだよ!」
語気を強めた伊藤は今まで見せたことのない目つきで宏を見た。
「警察を甘く見ないほうがいい、俺たちがわざと情報をリークすればマスコミの奴らが嗅ぎ付ける、そうすれば間違いなくお前の親父の監督責任が問われる。週刊誌やフリーの記者はお前と副島洋子の関係を勘ぐり、根も葉もない記事を書くぞ。」
伊藤がそう言うと安倍が続いた。
「あいつらは記事さえ売れれば、内容なんか関係ない。センセーショナルな見出しをつけて煽るんだよ」
安倍が淡々とした口調でいうと今度は伊藤が凄んだ。
「お前の親父は大手の会社に勤めてるだろ、息子が殺人犯だとわかれば会社にはいられなくなる……生活も一変するだろ。経済的に苦しくなるのは間違いない。転職だってうまくいかない…………今はネットがあるから、全国でお前たち親子の名前が晒しものにされるんだ」
伊藤はそう言うとヘビのような目で宏を睨んだ。
「周りからは指をさされて人間扱いされなくなる。今まで親しかった連中が手のひらを返してお前ら親子を白い眼で見るんだ。噂の好きなババアどもが、お前ら親子の事をネタにしてお茶を飲むんだよ……無責任な奴らは情報に尾ひれはひれをつけてお前らを嘲笑うんだ」
伊藤はそう言うと今度は優しげな口調で宏に話しかけた。
「だが、お前が正直に話せば、不幸な事故にできるかもしれない。場合によっては副島洋子がお前を襲ったことにして正当防衛を主張できるかもしれないぞ。」
伊藤は静かだが響く声で言った。
「事件の内容次第ではお前のことを守ってやれる……どうする?」
伊藤は脂ぎった顔で宏を見た。そこには人間性の欠片など微塵もない、夢魔の方がマシだと思えるぐらいの表情があった。だが、被疑者として警察の取り調べを受けたことのないただの高校生にはそれだけでも十二分に脅威である……
「お前の妹をけしかけて虐めを助長する女だ、副島洋子はまともな教師じゃない。そんな女なら裁判官の心象も悪い……うまくやれば執行猶予が付くかもしれないぞ」
伊藤は悪魔のささやきを宏に向けて放った。
「………」
宏は副島洋子の死には一切関係していないが、週刊誌やネットで事件の事が出回れば、宏の存在は間違いなく世間に知れる。顔写真も出回るかもしれない……そうすれば伊藤の言うとおり根も葉もない噂が流されるだろう……
伊藤は宏が精神的に滅入っていることを感じ取ると、ここぞとばかりに押し込んできた。柔和な笑顔を浮かべると悪鬼のような顔から仏のような顔へと変貌させた。
「どうだ……お前が、やったのか?」
1時間をこえる取り調べは宏の思考を停止させ正常な感覚を奪っていた。伊藤はそれを感じ取るとそこにたたみかけ、宏の精神をかき乱した。
「正直に言え、そうすれば『事故』での処理もありえるぞ」
夢魔にも勝る醜悪な表情で伊藤に圧力をかけられた宏は体が震えてくるのを感じた。
『もう嫌だ、こんな取り調べ……』
宏は首がカクンと折れそうになった……
『嘘をついてもいいから、この場所から離れたい……』
宏が内心そう思った時である、その視野に机の上にあった髪飾りが飛び込んできた。そして、それと同時に宏の脳裏に少女の姿がくっきりと浮かんだ。
焦げ茶色のブーツ、紺の行燈袴、赤い矢絣の小袖、そして凛として美しい立ち姿……可憐な少女は宏を見るとその唇に人差し指をあてたではないか……
宏は可憐な少女の意図を理解すると――沈黙戦術を貫こうと腹に決めた。
宏は副島洋子の死に関して警察から殺害の嫌疑をかけられますが……沈黙を守ろうとします。
はたしてこの後はどうなるのでしょうか?




