第一話
1
少年は追われていた、背後から迫りくる得体の知れない存在に――
『来るな……近寄るな……来るな!!!』
少年は背後から忍び寄るその存在に打ち震えた。
『だから、来るなって言ってるだろ!!』
視覚的に感知できなかったがその気配には明らかな狂気、そして殺気があった。少年はそれを本能で感じると必死になって逃げた。
『もう嫌だ……こんなの……』
すでに何度かこうした状況を少年は経験していたが、その圧力は日に増して増大していた。
『何でだ……何で……こんな目に……』
少年は走った。息を切らし、足をもつれさせて―――そして唐突にその終わりが見えた。
『アレだ、あの光に!!』
少年はわかっていた、その光に触れればこの状況から切り抜けられることを……この一週間、少年は得体の知れぬ存在に追われていたが、その光の中に身を投じることでこの状況を脱してきていた。
『あと……少し……』
少年がそう思った時である、背中から襲い来る狂気の存在が少年の隣に並んだ。
そして……
『追いかけっこは明日で終わりだよ……』
目視できない存在は少年に甲高い声で笑いかけた。少年はその声を聞くや否や、そのまま記憶を失った。
2
気付くと少年はベッドの中にいた。カーテンの隙間から陽光が差し、少年の体を照らしている。
『夢か……』
少年は異様な喉の渇きと下着まで濡らす汗の不愉快さに顔をしかめた、
『なんでこんなにベトベトするんだ……』
汗というより油に近いような体液が体から吹き出している、少年は立ち上がるとシャワーを浴びるためにバスルームに飛び込んだ。少年はべとついた汗をシャワーで流しながら、一週間前から見始めた夢を思い返した。
『一体、何なんだ……あの夢は……』
最初は特にこれといったことはなかった。よくある悪夢と言っていいだろう、誰しもが経験する不愉快な夢だ。だが日に増してその悪夢には妙なリアリティーが付加されていった。
触覚、味覚、嗅覚、視覚、聴覚、それらが悪夢を見るたびに一つずつ付加されていく、時間ががたつごとにその感覚は鋭敏になり、夢の世界でありながら現実と同じ感覚が少年を襲った。
『明日はないって言ってたな……アイツ……』
視覚的にはわからない存在であったが、少年は『アイツ』の存在を感覚的に認知していた。
『ほんとに死ぬのかな……俺……』
少年はその思いを打ち消すようにわざと大声を上げると自分を鼓舞した。
3
少年の通う学校は県内有数の進学校で隣県からの入学者も珍しくなかった。卒業後は名の知れた大学に進む生徒も多く、東京の有名私大に標準を合わせた進学クラスも併設されている。
少年はまだ1年生のため将来の進路は漠然としていたが、進学クラスに入って東京の私立大学に通いたいという希望を持っていた。『地元の国公立大学よりも東京の私立大学の方が華やいでいて、響きがいい……』そんな風に彼は思っていた。
少年は時折、受験の勝利者となった卒業生の近況をSNSを通して見ていたが、そこに張り付けられた写真や動画には都会の雰囲気とその匂いが滲み出ていた。高層ビル、ビッグターミナル、そして大学デビューした先輩たちの身に着けている衣服、どれもが地方の小都市にはないもので少年の心には強いあこがれがうまれていた。
―――だが、現状はそんなことを考えるだけの余裕はなかった。
過剰な睡眠不足は思考を鈍くし、妙な倦怠感が体を覆っていた。
『だるい……頭も重いし……』
少年は生物の時間に教師が言っていたことを思い出した。
≪睡眠は生命活動においてきわめて重要なものである、睡眠時間を削り自律神経に異常が生じると様々な変調が体におこる。頭痛、吐き気、めまい、発熱、さらに睡眠不足が進むと幻聴、幻視、といったものもあらわれる。≫
少年は思った。
『当たってる……』
少年は異様な感覚に包まれた状態で校舎に入った。
4
少年が下駄箱で履き替えようとすると頭を短髪に刈り上げた少年が近寄ってきた。
「よう、宏、どうや!」
声をかけてきたのはクラスメイトの鈴木浩二という少年であった。中学の時、大阪から転校してきたためその言葉遣いは標準語とはほど遠かったが、そのイントネーションは軽快で、クラスの中では盛り上げ役としてのポジションを確立していた。
「何か、最近、元気ないな……どないしたんや?」
「いや、別に……」
宏とは中学から一緒のため浩二は心配して宏の顔を覗き込んだ。
「何か、顔色悪いな?」
宏はそう言われたがそれに対して何も答えずクラスに向かった。浩二はその姿を首をかしげて見つめた。
*
宏のクラスは35人(男子18、女子17)の生徒がいた。平平凡凡なクラスで特にこれといった生徒もおらず、教員たちの間ではボンクラ(平凡なクラスの略)と呼ばれていた。担任の井上も同じく平凡な教師で特筆することのない容姿とクセのない授業で、宏のいるクラスに似つかわしい無味無臭な色合いを醸していた。
「じゃあ、今日のホームルームはこれで終わりだ。それから、田中、あとで話がある」
担任の井上がそう言うと、学級委員は様子を見て号令をかけた。
宏はその後、廊下で待っていた担任の所に行くと先ほどとは全く違う詰問口調で井上に問われた。
「最近、居眠りが多いな……俺の授業だけじゃなく、他の授業もそうらしいが……」
言われた宏は素直に頷いた。
「お父さんが海外で仕事、妹さんが入院中。大変なのはわかるが……授業はきちんと受けておかないと、……2年のクラス替えときは内申点が重要になるから、推薦入試を考えるならしっかりしておかんと」
進学校らしく生徒の成績と授業態度に気を配る担任の態度は一応それらしいが、あまり熱意のこもった感じではなかった。
「何かあれば、いつでも相談に乗るぞ」
井上は淡々とそう言うと教室を出て行った。教師としての建前は見せたもののその背中には『その気はない』と書かれていた。
『面倒事は厄介ってことか……』
宏は井上にその気がないのを感じたが、相談したところで何か変化するわけではないのでそれでいいと思った。
一方、宏には別の想いが浮かんでいた。
『放課後……病院に行かないと……』
そう思うと宏は校舎の窓から見える市民病院に目を向けた。
5
宏の妹、田中由香は一週間前から原因不明の症状があらわれ入院していた。医者はナルコレプシー症(睡眠障害)になっていると宏に言った。
ナルコレプシーとは時間や場所を構わず突然強い眠気に誘われ、そのまま眠ってしまうという特異な病だが、由香の場合はその程度が甚だしく一日のうち20時間近く眠ってしまうという状態に陥っていた。
「心因性の睡眠障害だとおもうんだが、日に増して状態が悪くなっている。ここ2,3日で体力も落ちてきているんだ……食欲も落ちているし……起きても意識がはっきりしなくてね……」
精神科の医者はそう言うと妹の書いた絵を見せた。
「覚醒しているときに精神状態を分析するのに絵をかいてもらったんだけど……少し変わっているんだ……」
宏は妹の書いた絵を見たが、そこには明らかに異形の者が描かれていた。それは動物とも人とも異なる、なんとも形容しがたい形をしていた。
『何だ……これ……』
バイオハザードやサイレントヒルといったゲームに出てくるクリーチャーとは違い、グロテクスクではないが、その存在は見たものに対して明らかな不愉快さと本能が拒否する感覚を与える何かを持っていた。
宏がその絵を見ると担当医が口を開いた。。
「覚醒と睡眠を繰り返すだけなんだけど……明らかに覚醒時間が短くなっているんだ。昨日は20時間以上眠っている」
担当医はそう言うと渋い表情を見せた。
「血液検査、MRI、CT、どれをとっても異常がない……疾患があるようにおもえないんだ。食事もとっているんだけど……体重は落ちているし……」
医者は困った表情を見せた。
「妹は……死んでしまうんですか……」
「それはないと思う……だけどこのままこの状態が続くのは芳しくない……」
中年の担当医はそう言うと病室を離れた。宏はその後ろ姿をみつめたが、その背中には『さじを投げたい』という雰囲気が浮かび上がっていた。
宏は眠っている妹を見やるとその額を撫でた。
『どうしたらいいんだろ……』
病室の椅子に座った宏は途方に暮れた。
『僧侶、辞めます!!』の次章(ベアー編)はこの物語のあとにやるつもりです。しばしお待ちください~(お待ちの方はごめんなさい!)




