#1.追われる英雄志望者
秋の山は、多くの恵みに溢れ、赤、茶、金色の世界を形作っていた。
美しいその景色。しかし、彼はそんな事すら感じる暇なく、過ぎ去るそれらを目に焼き付ける余裕なく。
彼は、カオルは、ひたすらに、走り続けていた。
「はっ、はっ、はぁっ――」
轟音響く山の一角。
もう涼やかになりつつある時期だというのに、カオルは汗みずくのまま、山を疾走する。
その背後には、天を衝くような巨体。
鱗に覆われたその皮膚は、かすった樹々を微塵に散らし。
木の葉の如く山の地形を切り刻みながら、この小さな獲物を追い回していたのだ。
「ちくしょっ、ちくしょうっ!」
――なんで俺がこんなことに。
憎まれ口一つまともに叩けず、ただひたすら、足を取られながらの逃走劇。
しかし、ようやくにして開けた場所が見えたと思ったその時、化け物の大きく割けた口はカオルの前へと先回りし、間近まで迫っていたのだ。
「――あっ」
――ああ、俺、死んだわ。
この世界に来て二度目の即死ポイント。
カオルはなすすべもなくこの化け物に飲み込まれ――
前日。
いつものようにサララと自分の分の夕食を作りながらに、カオルはなんとなく、物足りない何かを感じていた。
その日の夕食は川で釣れた大量の小魚と、マツナガを塩焼きにし、レモンで風味付けしたものと、夏野菜をすりおろして塩で味付けしたポタージュ、そして葉物とその辺に生えていたハーブのサラダとバンである。
とてもシンプルながらサララは「わぁいタヌマとマツナガだぁ♪」と幸せそうに笑ってくれていたのだが、カオルは難しい顔をしていた。
「……? どうかしたんですかカオル様? 食べないんです?」
早速フォークとナイフを手に取ったサララは、しかし、それを作ったカオルが手を付けずに腕を組んで呻っていたのを見て、再びナイフとフォークを戻してしまう。
「いや、なんか、足りない気がしてさ」
「足りない、というと?」
「最近、釣りを覚えて安定して魚を確保できるようになったんだけどさ」
「ああ、そうですね。私は毎日お魚が食べられて幸せです」
村の若い衆に頼んで釣りのやり方を教えてもらったカオルは、半月ほどかけて失敗を繰り返し、最近になってコツらしきものを掴み始めていた。
そのおかげか、ここ数日は二人分の魚を確保できるまでに上達していたのだが……カオルは、一つの閉塞感に悩まされていた。
「野菜とかがなあ……なんか足りてない気がするんだよな。魚も、毎日毎日焼き魚って、なんか芸がない気がしてさ」
カオルの悩み。それは、料理のレパートリーが依然増えない事にあった。
肉があれば焼いて塩とハーブ。
魚があれば焼いて塩とハーブ。たまにレモン。
野菜はポタージュにするかそのまま煮込むかでスープ。
そして堅パン。
その日受けた頼み事の相手によって料理の材料となる何がしかはいくらか左右される。
だが、大体毎日作っている食事はそう変わりない物ばかりになりつつあることに、カオルは気づいてしまっていた。
確かに最近ちょっと足りてない気がしたのだ。
毎日のように同じ料理を作ってしまうのは、別にカオルに創意工夫する気がないからではなく、どちらかというとサララの反応が毎回同じなのが理由として大きかった。
大体毎日、毎食でも魚が食卓に並ぶとサララは上機嫌になる。
その笑顔は村人に向けられているような猫かぶりの笑顔ではなく、素のサララの笑顔である。とても可愛い。
この笑顔が見られる所為で、「これが毎日見られるなら、このままでもいいか」と、妥協してしまっていたのが今までであった。
だが、そんな毎度毎度似たような料理ばかりを作る日々によって、一種の『納得いかない』という感情の萌芽を許すこととなる。
それは、カオルの新たな可能性とでも言うべきものなのか。
最初こそ二人分の料理を作るのが面倒に感じていたカオルであったが、次第にそれが楽しく感じてしまっていたのだ。
皮肉なことに、自分の作った料理をこの可愛らしい猫耳少女が「美味しい」と笑顔で褒めてくれるのが、カオルの向上心へと強く影響を与えていたのだが。
そんな経緯があった上で、カオルは今、ようやくそれを口に出すことができたのだ。
自分の中でたまりにたまった「もっといろんな料理を作ってみたい」という願望が、ようやくにして露出した形となった。
「はあ……つまり、カオル様はもっといろんな料理を私に食べさせたい、と?」
「いや別にお前が食べるのメインじゃなくてもいいけどさ。折角こうやって作ってるんだから、上達したいじゃん? 毎日毎度同じような事ばっかじゃ、なんか達成した気になれないんだよな。慣れてはいくんだけど」
斜め上な方向に解釈するサララをそのままに、カオルはフォークを手に取り、マツナガに突き刺す。
「確かに、こいつら美味いんだけどな」
パクつき、もしゃもしゃと味わって、それから飲み込む。
「そうですね。マツナガもタヌマも美味しいですよ。冬になると食べられなくなるから、私としてはそれまで毎日でもオッケーだったんですけど……カオル様が飽きてきたのなら、山の方に行って『シラカワ』とか獲りに行っては?」
「シラカワって?」
「知らないです? 上流の、綺麗で冷たい水の中でしか棲めない魚で……これくらいのサイズなんですけど」
聞かない名前が出てきたので首を傾げていたカオルであったが、サララはそのサイズを身振りで説明していた。
大体サララのほっぺたから反対側のほっぺたくらいの大きさ。
マツナガと比べるとやや大き目であった。
「縄張り意識が強い魚で、岩影とかに指を突っ込むと噛みついてくるんです。水の中から出さない限り絶対に離そうとしないので、それを利用して空いた手で掴み取ったり、魚かごに入れて捕まえるのが一般的かなあ」
「美味いのか?」
「ええ。タヌマなんかと違って、上流の、泥の少ない川の魚ですから、臭くないのがポイントですね。焼き魚にしてもそれなりですけど、煮魚にするとプルプルになって食感が楽しかったりします。ハチミツ酒とかお砂糖を入れてぐつぐつ煮込むんですよ」
私あれ大好き、と、幸せそうに魚知識を語るサララ。
今の話でカオル的に大切なのは、サララがその魚を大好きなのと、煮魚にできるというポイントであった。
そう、この辺りにはいない、煮魚向けの魚なのだ。
「いいなそれ。そういうのが欲しかったんだ」
「後、山に入るなら山菜もいいですよねぇ。今ならネジマキ草とかバネ草とかフシブシの木の芽とかが旬ですし」
そういえば、と、山菜を話題に出されて、カオルは以前レスタス老に教えてもらった『山菜の取り方・見分け方』を思い出していた。
食い物に関しての知識なので、ひと際鮮明に覚えていたのだ。
この辺り、カオルもそれなりに食いしん坊であった。
「山、入ってみます?」
首を傾げながらの、ちょっと誘うような問いに、カオルは思わずどきりとしてしまう。
(……なんか、デートに誘われたみたいな)
多分そういうつもりじゃないのはカオルにも解っていたが、可愛い女の子にそういう風に聞かれると、ついそんな風に感じてしまうのだ。
こればかりは、カオルも自分ではどうにもできない事であった。
変な方向に思考が振りきれる前に、カオルは目の前の魚をもう一度頬張り、適当に噛んで飲み込む。
油っ気のない、川魚の引き締まった身が、いい感じに塩味で味付けられ、わずかな苦みの後に、ピリリとした小気味のいい風味を感じさせてくれていた。
それが、カオルの思考を正常に戻すのだ。
「よし、行くか。山」
「はい。山に入るなら、サララもお供しますよ」
当たり前のようについてくる宣言。
どうせ大して役に立たないのに、カオルはどうしてか、それがとてもうれしくて、そして、照れくさくもあった。
当たり前のようについてきてくれるのだ。女の子が。
こうして、カオルとサララは、山にシラカワと山菜をとりに行くことになった。




