#10.海軍の反乱
「――なんですかその酷い話!? 酷すぎませんか!?」
フランの話を黙って聞いていたサララは、大層激怒していた。
先程まで泣いていたのに、フランの身の上話を聞き、逃げていた理由を聞いたところで、その怒りを爆発させたのだ。
横で補足を付け加えながら改めてフランの話を聞いていたカオルも「コロコロとよく表情変わる奴だなあ」と思わずにはいられないほどで。
そしてその怒りは、フランにとっても驚きだった。
「つまり、そういう事をしないって約束だったのを破って酷い事したんでしょう? その上で自分の物になれって、完全にフランさんの事を自分の都合で振り回してるだけじゃないですか! ただの強姦魔でしょそれ!?」
「いや、まあ、そうなんだけど……ちょっと落ち着いた方がよくないか?」
「何言ってるんですかカオル様! 女の子がよく解らない男に酷い目にあわされてるんですよ!? なんでそれで落ち着けるんですか! 貴方、そういうの許せない人なんじゃないんですか!?」
「カー君にはもう一度説明してるから……別に、そんな気にするような事じゃないし」
「気にしてくださいよ! おかしいじゃないですか!? 貴方もあなたで、何諦めてるんです! もっと怒っていいですよ!!」
カオルが止めようとしても、フランがカオルのフォローをしようとしても、サララは止まる気配がなかった。
むしろ怒りが更に湧き上がるような、噴き上がってくるような、止め処ない怒りの源泉がそこにあるかのような有様で。
だが、カオルにとっても「こんなサララは初めて見るな」と、記憶にないはずの何かが根拠になって、珍しく感じられていた。
「いやまあ、サララの怒りは解るぜ? 俺だって『ひでぇ奴だ』って思ったよ。だから逃げ出したんだし」
「逃げて、それで終わりですか? それだけで許せるんですか?」
「許せないよ。だからサララが怒るのは解るんだって。だけどな、今引き返してあいつ殴りに行っても仕方ないだろう? 上手く巻けたけど、仲間とか連れて来られたら流石に勝てないかもしれないし」
既に一度戦い、フランを連れ去る形でなんとかかわせた相手ではあったが、まともに正面からぶつかり合って勝てるとはカオルも思っていなかった。
二人相手で瞬時に蹴散らせるくらいには、軍人アージェスは強い。
そんな相手と喧嘩するなんて、無謀にもほどがあると思えたのだ。
「とにかく落ち着いてくれよ。あくまで事情を説明しただけで、今は俺達が逃げてきた理由を知ってくれればそれでいいんだから。ともかく、これからどうしようかって、二人で困ってた所なんだよ」
「……解りました」
カオルに諭されて、サララ自身なんとか怒りをコントロールできてきたのか、トーンばかりは落ち着いてきたが。
それでもどこか納得いかないように視線をうろうろとさせ、髪を弄ったりしていた。
「とりあえず、サララ達は今、伯爵から使用許可をもらってこの街にある別館を拠点にしてますから、お二人もそこに移動しましょう。夜街がどうなるかは解りませんが、今戻っても結局その人達に連れ戻される恐れがありますから」
「わ、私もついていっていいの……? お話を聞くと、二人がやってた事って、私が関わっちゃいけない事のような気がするんだけど……」
「んー……大丈夫じゃないですか?」
恐る恐る手を上げながら「ほんとにいいの?」と問うフランに、サララはさほど迷った様子もなくニコリと笑って見せた。
まだまだ心の内の怒りは消えていないようだが、それでも笑うだけの余裕ができたらしく、フランもカオルも安堵する。
「カオル様が記憶を失われたこともゴートさんに説明しなくちゃいけませんし、フランさんの事だって、きちんと説明すれば解ってくれると思いますよ。結構柔軟な判断ができる人ですから」
「そうなのか……役人って言うから、結構堅い人なのかと思ったぜ」
「見た目はお堅そうですけどねぇ。そんな訳ですから、お店の方が心配かも知れませんが、サララと一緒に来てくれますか?」
「……うん。それじゃ、お願いしよう、かな」
少し迷ってはいたが。
それでも、サララがじ、と自分の瞳を見つめ、頷いてくれたのを見て、フランも同じように頷いた。
それを見て、サララは「それでは」と立ち上がり、カオルの傍まで来て……その手をとった。
「おっ……?」
「えへへ……それじゃ、いきましょうか」
手を握ったまま。
もう離さないようにと、遠くに行ってしまわないようにと。
そんな気持ちが込められているのも知らず、解らず。カオルは目を白黒させながら、引っ張られるままに歩きだす。
横並びになる二人を見て、どこか遠い世界に感じられて。
フランは少しだけ寂しい気持ちと、チクリと来る痛みを胸に感じながら、その後を追いかけた。
「――いやあ、この別館に大浴場があってよかったですよ~、一人だけだと寂しいですけど、二人いるといい感じの広さですし~」
そうして着いた伯爵の別館であったが。
着いて早々「お二人ともちょっと汗臭いですからお風呂に入りましょう」と、風呂を勧められ、そのままの流れで入る事になっていた。
そうなると女同士、フランはサララと一緒に入る事になったのだが、あまりにも広すぎる豪華な風呂に、困惑が隠せずにいた。
いち早くシャワーの仕切りの中に入っていくサララとは対照的に、タオルで前を隠しながら、入り口でもじもじしてしまっていたのだ。
「あの……本当に私、こんなところに来ちゃってよかったのかなあ」
「またですか? いいんですよぉ、お風呂は入る為にあるものでしょう? 大丈夫、お風呂に入る人に貴賤なんてありませんから」
「それは……そうなのかもしれないけど……」
「そんな事より! 裸のままで何もせずにいたら風邪をひきますよ! 早く洗って湯船に浸からないと~」
「……うん」
確かに、裸のままで戸惑っていても仕方ない。
それは解っていたので、聞こえてくる声に促されるままにシャワーの前に立った。
ほどなく、水音が仕切りで分けられた隣から聞こえてくる。
使い方そのものは本当に貴賤なく、同じで、店についているものと違いなく、使用に困る事はなかったが。
ほどよい温かな温度に調節されたシャワーのお湯は、浴びていてとても心地よく、それだけでもう、今日あった嫌な事が流されていくように感じられた。
「ああ……なんか、すごいねえ」
「うに? 何がです?」
「ん……シャワーのお湯、す……っごくきもちぃの。心安らぐっていうか」
「あー……解ります。浴びてると気持ちいいですよね。落ち着きますし」
「うん。お店のシャワーだと熱かったり冷たかったりするから、こういうのほんとすごいなあって思う」
使い方には貴賤はなくとも、温度調節機能なんて上等なものがあるこの館のシャワーは、それだけで十分貴寄りなのを感じながら。
それでも、今はそれを自分が享受できている幸せに酔いしれそうになって「またネガティブな事考えようとしてたなあ」と、ため息が出てしまう。
けれど、ため息と共に、水の流れと共にそんなネガティブな考えすら押し流され……やがて、心が安らぎを覚える。
豊かさとは、心の余裕なのだ。
心に余裕があるからこそ、人は心から笑えるようになる。
心に余裕があるからこそ、人は落ち着いていられるのだ。
この安らぎは、やはり豊かだからこそ得られる物だった。
「……勝ち組になりたいなあ」
「勝ち組ですか?」
「うん……私ってさ、いつも負け組っていうか、何かにつけて失敗してるように思えて。何かを選ぶ時も、何かする時も、いつもダメになってる感じになっちゃって、顔はニコニコ笑ってるけど、いつもネガティブな事ばっかり考えちゃうんだよねえ」
「あー、それ、疲れてる時によくありますよね。そして、無理して笑ってると余計に疲れるんです」
「笑ってると、ダメなの?」
「笑ってばかりだとダメですねえ。心を病みますよぉ? 時には怒ったり泣いたりしないと、自分がどんな時にどんな顔をしているのか解らなくなっちゃいますし……心から笑える瞬間があれば違うんですけど、そうじゃないとひたすらに自分が辛いだけですから~」
しきりの向こうからはきゅっきゅとしたスポンジの音と、呑気なサララの声。
だけれどその返答はとてもまじめで、フランにとって参考になる事ばかりだった。
だからか、身体を洗うのも忘れ、スポンジを手に取ったまま、話に耳を傾けてしまう。
「私、ダメだったか……」
「フランさんも結構無理して笑ってましたもんねえ。でも、一番の笑顔を見せたい人を見つけると良いですよぉ」
「一番の笑顔を見せたい、人?」
「そうです。そうして、その人に自分にとって一番の笑顔を見せるんですよ。そうすると、その時は幸せな気持ちになれますから」
「……そっか」
――そういう人が居ればいいなあ。
今までの彼女なら、そう思うだけで終わっていた話だった。
だけれど、フランにとってそれはもう、「居たらいいな」ではなく「居るかもしれない」と思える話になっていた。
(カー君に、そんな風に想ってるってバレたら、カー君は――どうするのかな?)
しきりの向こうの猫耳少女は、誰がどう見ても可愛らしい女の子だった。
華やかで、愛らしく、賢く知性的で、ハキハキとしていて表情豊かな、誰に聞いても美少女と思える女の子。
そんな娘にああまで想われて、そしておそらくこれから先も想われ続けて、男が靡かないはずもなく。
記憶を取り戻せるか否かに関わらず、それこそサララが言っていたように、そう掛からずカオルはハートを射止められてしまうのだろうと、そんな風に思いながら。
それでも、と、わずかな期待を抱きそうになっている自分に気づいてしまう。
(勝ち目なし、かなあ……)
カオルが自分の事をどう思っているのか、自信がなかった。
好意的に見てくれているという希望はあったし、自分の手を取り一緒に逃げて、守ってくれる。
サララと再会しても「それじゃ」とサララの手を取ったりせず、夜街で働く自分こそが今の自分だと言ってくれたのがとても嬉しかった。
けれど、それが恋愛感情によってそうなっているかどうかが、彼女には解らなかったのだ。
解らないから、不安で仕方ない。
先程とは別の意味でネガティブな感情が、フランの中で芽生えそうになっていた。
「サララは、浮気は絶対に許しませんけど――」
「……へっ」
「――でも、女の子が幸せになる為に笑いかけるくらいは、怒らずに見過ごす余裕はありますよ」
それ以上は無理ですが、と、さもシャワーの音に紛れて消えてしまいそうなほどぼそりと呟かれ。
聞き逃してしまいそうになりながら、それでも聞こえた声に、途端に恥ずかしくなって。
(よ、読まれてる……? 私の、気持ち……っ)
赤面しながら、慌ててスポンジで身体を擦ろうとして、スポンジを落としてしまう。
混乱に拍車がかかる。胸がどんどんと高まり、困惑ばかりが広がる。
頭に浴びるシャワーのお湯が、どんどんと温く感じられて――自分の身体が、熱くなってゆく。
「はー、さっぱりしました。それじゃ、お先に入ってますね~」
「えっ!? あ、う、うん……」
それ以上何かを語るつもりはないのか、しきりの向こうから聞こえたシャワーの音は止まり。
そうしてペタペタという足音と共に、向こう側の人の気配が消えていくのを感じ……それでもフランの胸の鼓動は、止まらずにいた。
(今の、牽制……? 私、ライバルだと思われてる……?)
微塵も勝ち目がない女の子に何故そんな牽制をする必要があるのか。
サララは泡沫候補でしかない存在を本気で叩き潰すような、そんな女の子なのか。
首をブンブンと振りながら、スポンジを手に取り、今度こそ身体を洗いながら。
今一まとまらない思考の中、フランの胸は期待で高鳴って止まらず、身体は熱を帯びるばかりだった。
(私なんかでも、ライバルになれるんだ……!)
それは、紛れもない喜びだった。
自分なんて相手にもならない、当て馬にすらならない負け組。
そう思っていたネガティブ少女にとって、サララからの牽制は「対抗者として認められた」という気持ちの方が強く。
さっさと諦めなければいけないと思っていた気持ちを抱き続けてもいいという、そんな許可が下りたように思えていた。
ほかならぬ、恋敵から。
それからほどなく、身体を洗い終えて浴槽の前に立つと、既にサララがふんわりとした顔で「どうぞどうぞ」と手招きしてくる。
フランも誘われるままに片足から入り始め……そうしてサララの隣にしゃがみこみ、ほどよい湯心地を肩まで浸らせ――深い息をつく。
「ああ、気持ちいいね」
「えへへ~、そうでしょうそうでしょう? でもフランさん? 肩までは浸からない方がいいですよぉ?」
「えっ、なんで? 肩まで使った方がぽかぽかして気持ちいいよ?」
「肩まで浸かると、身体によくないらしいんです。なんか、胸がドキドキしちゃって頭がぼーっとしやすいんだとか」
「あ、そうなんだ……確かに胸がドキドキしてきたかも」
「そうでしょうそうでしょう」
ドキドキし過ぎると困りますからねえ、と、線目のままに語るサララに、フランも「そうかも」と頷いて肩をちょっとだけ出す。
自分の胸の高まりを、肩までつかった所為なのだと思い込むようにしながら。
「サララちゃんは物知りなんだねえ」
「ふふっ、サララはお風呂のプロですから~」
「プロなんだ。すごいねえ」
「そうなんですよお。もっと褒めてくれてもいいです」
褒めて褒めてと甘える様な声を上げるサララを見て「本当にこの子は可愛いなあ」と、抱きしめたくなる気持ちを抱きそうになり。
けれど、「流石に裸でそれをやったらまずいなあ」と、別の方向性で危惧を抱き、頬をポリポリと掻く。
ちら、とだけ隣を見れば、線の細いサララの、それでも色気を感じられる鎖骨や胸元が見えて、すぐに視線を戻した。
(あれ……もしかして私って、カー君だけじゃなく――)
「それはそうとフランさん?」
「あっ、う、うん、何かな!?」
「……?」
よからぬ事を考えそうになったところで不意打ち気味に声を掛けられ、つい声が上ずってしまっていた。
サララは不思議そうに首をかしげるが、その所為で余計にフランは恥ずかしくなり、頬を赤らめる。
恥ずかしい所為なのだ。彼女はそう思い込むことにした。
「夜街に戻れないなら、戻れるまでの間、サララ達に協力する気はありません?」
「え……協力って?」
「そんなに難しいことではないですよ。ちょっと聞き込みとか……あっ、フランさんって話すの苦手な人でしたっけ?」
「う、ううん……話すくらいならできるけど、でも男の人は苦手かな」
「それじゃ、別の事で手伝ってもらいましょう」
「私にできることってあるの?」
「あると思いますよぉ。何せ今って人手不足ですし」
困った人沢山いますから、と、眼を細めながら語る。
サララはサララでちら、と、横目でフランを見ながら。
(うーん、華奢な人だと思いましたけど、お胸はそれなりにあるんですね。危ないかも? 私も早く成長期こないかなあ)
小さなため息をフランに見えてない様について。
密かに胸元に手を当て、一向に成長する様子のない自分の身体にちょっとだけ悩みを感じてしまっていた。
「私に、どんなことができるのかな……」
「例えば、伝言役とか」
「それって、どういう……」
「今までって、サララ達が聞き込みに行ってる間、それぞれの情報の伝達手段がなくって、全員集まった時しかやりとりができないんですけど、この館にフランさんが常に待機しててくれると、他の人がいなくても『これ伝えておいてー』ってメモを渡したり、お話しておけば時間を合わせなくても他の人に伝わるんですよね」
「つまり、いつもここに居て、伝えればいいの? それだけでいいの?」
「それだけって言いますけど、実際のところとても重要な役割なんですよ? だから、やってくれる人が必要なんです」
すごく大切です、と、指を向けてじ、と見つめながら。
赤い瞳に吸い込まれそうになりながら、フランは「う、うん」と頷いて見せる。
それがサララには満足だったのか、また視線を元に戻し、フランはホッとする。
「勿論、協力していただけなくても文句は言いませんし追い出すつもりもないです。逆に手伝っていただけるならきちんと報酬も用意しますから」
「それって、雇用になるんじゃ……いいの? タダ働きでも私、文句言えない立場だよ?」
「相手の立場を利用してタダ働きさせるなんて鬼畜の所業じゃないですか。そんな事しませんよぉ」
サララ優しい女の子ですから、と、ほんわかする声でのたまいながら。
さらっと「伯爵かゴートさんに払わせるから大丈夫です」と、えぐいことも呟いていた。
「それとは別に、ここでの衣食住も保証しますし、多分カオル様も当分はここに滞在すると思うので――というか、させるので! どうですか?」
「カー君、ここで暮らすの確定なんだ……」
「仮に夜街での生活が主になるとしても、今の状態は無視できませんからね。だって、夜街が干上がるかも知れない状態のまま戻っても、何もできる事はないでしょう?」
「うん……何かをしたいなら、夜街から出ないと無理、だもんね」
「そういう事です。安心してください、サララ、説得のプロですから」
カオル様相手なら余裕です、と、本当に想い人に対してのセリフなのかと疑わしくなる事を語っていたが。
それが堂々とできるくらいの関係なのだというのが察せてしまい、「やっぱり思い出せないのはフェアじゃないよなあ」と、フランは思ってしまっていた。
例え思い出されたら負け確定だとしても。
例え今の状態で圧倒的不利だとしても。
例え相手が強くとも、それでもこのままの状態で良い訳がないと、そんな良心があったのだ。
さっき見てしまった、サララの泣き顔がそう思わせているのかもしれないと、そんな事を考えながら、フランはサララの申し出を受ける気になっていた。
「……それじゃ、お世話になろう、かな」
「本当ですか? ありがとうございます! こんな状況ですけど、少しでも上手く行くように頑張りましょうね」
よかったよかった、と、フランの手を取り満面の笑みになるサララ。
フランはそんな不意打ちにようやく落ち着きかけた胸が再び高鳴ってしまい、眼がグルグルと回ってくるのを感じてしまう。
(ど……どうしよう……これから、こんな調子で、私――っ!)
「それじゃ、よろしくお願いしますねっ!」
「かわ……あっ、う、うん……よろしく……」
「いやあ、一時はどうなるかと思ったけれど、思いもよらぬ出会いというのはあるものなんですねえ」
(うぅぅ……すごくかわいい娘が、私の手を取ってる……っ)
――抱きしめたい。ぎゅーっと抱きしめたい。
この愛らしい少女が傍にいる事実が、フランの心を大きく揺さぶっていた。
しかし、サララはそんな事毛先の露ほども解らず、呑気に雑談などを始めてしまっていた。
話の内容などロクに解らぬまま、上の空のまま返事ばかり返すようになったフランは、ただただ「早くこの時間終わって」と願うようになっていた。
同時刻、某所にて。
ラナニアには、いくつかの大きな港街がある。
その中にはエルセリアのミリアムにひけを取らぬほどの規模を誇る港もあるが、セレンのような軍港は、表向き存在していない。
ラナニアには、かつてエルセリア海軍と伍すると言われる程の強大な海軍が存在していた。
当時のエルセリアがシーパワー重視の海軍国だったのに対し、ラナニアは現在に至るまでランドパワー重視国家の為、規模としては陸軍ほどではなかったが、それでもラナニア水兵は精強であると言われていた。
ラナニア海軍が強力な理由として、いくつかの秘匿された軍港の存在があった。
エルセリア最大の軍港セレンや、戦時中の軍港だったニーニャのように表立って存在せず、地図上は何も描かれていない地域。
ここに海軍が隠れ軍港を保持し、戦力の維持に努めていたのだ。
この軍港の正確な位置情報は海軍の将校を除いては代々王にしか知らされておらず、同じ軍人であっても陸軍の兵にすら秘匿されている。
この「いつどこから出てくるか解らない海軍」の存在は、外敵にとってはとても攻めにくく、神出鬼没なラナニア海軍は、戦時中、エルセリアをはじめとするシーパワー国家からの攻撃を防ぐ重要な盾としての役目を果たしていた。
そんな隠れ軍港の一つが、コルッセア南の灯台地下にあった。
戦時中、海軍が莫大な資材と人員を割いて開発した地下要塞。
その一室で、この地域を管轄する『提督』と、その部下の士官とが対面していた。
「アージェス君。どうやら計画は順調なようだねえ? 『民主主義運動』は加熱し、民衆の間に政治に関しての不信が広がりつつあるようだ」
「はい……あの悪魔の言っていた事、本当になりましたね」
「うむ。私も半信半疑だったが、事実このように展開された以上は、この先の展開も奴の言っていたようになるのだろうな」
やせぎすな面持ちの海軍提督ベルセリヌと対面していたのは、夜街から帰還したばかりのアージェスだった。
椅子にもたれかかる上官に対し、両腕を後ろに回し、直立したままの会話となる。
ただ、アージェスはやや伏目がちで、どこか納得がいかないようだった。
「――提督。私は悪魔という奴が好きになれません。やはり奴が何を考えているのか、私には解らないのです」
「少なくとも民主主義を望んでいる訳ではないだろうな。奴が何を狙っているのかは、私にも解らん。だが……利用はできる」
話しながらに、提督はアージェスの後ろの扉上、そこに飾られている絵画を見た。
今と変わらぬラナニア海軍の白い軍服を着た、勇壮な男が居た。
眼元ばかりはアージェスと似た顔立ちの、強い意志を感じさせる瞳の男だった。
「我々海軍は、雌伏し続けたのだ。全ては国の為、民の為、守りたい者達の為。その為に我々は、戦時中であっても、いや……戦争が終わった後も、こんな薄暗がりで生きている」
「……はい」
「私の父もそうだった。君のお爺様や父上も……世代をまたいでこの国の為尽くしていた我々が、だというのに、国からは『陸軍ほど役に立たぬお飾り』と言われ続け、ついには予算まで削られた。国防の意味を知らぬ愚かな上層部。政治家。王族。そんな輩がこの国に居る限り、我々はいつまでたっても救われぬ」
「……」
あくまで声は静かに、それでいてよく通る涼やかな声だったが、その声には明確に怒りが込められていた。
アージェス自身思うところあってか、黙ったまま傾聴する。
また、視線をアージェスに戻し、提督は顔の前で手を組みながら、その眼を見つめた。
「アージェス君。君は腹立たしくないのかね? 国によって君のお爺様は『いなかった英雄』にされた。あの方ほどこの国に尽くした者はいなかったというのに! あの方の働きあってこそ現在のラナニア国民の幸福があるというのに!!」
「提督……私も、それは思いますよ。お爺様は偉大な方だったと私も思っている。誇らしい者を誇る事が出来ない……我が一族は、国の都合で誇りを奪われたのです。軍人としての、誇りを」
「私だってそうだ! いいや、私だけではない、海軍の軍人全てが、皆同じ思いのはずだ!!」
「それでも……それでも、提督。我々がそれをやってしまえば、この国はもう――」
「アージェス君! 国など、どうにでもできる」
提督の眼は本気だった。
狂気に染まっている訳でもなく、憎悪のみで動いている訳でもなく。
ただただ、正気の軍人の眼のまま、アージェスを見つめ続ける。
言葉だけでなく、眼でも説得するように。
アージェスはそれを拒みたかった。
これから上官のしようとしている事は、そして海軍が行おうとしている事は、この国の根幹を崩す行為である。
確かに冷遇されていた。陸軍が与えられる予算や人員が10であるなら、現在の海軍は1しかリソースを割いてもらっていない。
たったそれだけで艦隊の維持をするのは至難の業だった。
戦時中ですら、海軍の存在は軽視され続け、その規模の維持に地方の理解ある貴族や富豪らが出資して初めて成り立つほど貧困にあえいでいた。
最初から精強だったのではなく、精強にならなければ維持できなかったのだ。
その上で、国は戦時中の海軍の存在を、ほとんどなかったものとして扱っていた。
彼らの父や祖父といった当時海軍で活躍していた者達の働きも全てなかったこととして、歴史から抹消されていた。
最強の陸軍国ラナニアにとって、次代に伝えるべきは海軍の活躍という『事実』ではなく、陸軍がいかにして敵を圧倒したかという『物語』のみだったのだ。
それが、彼らには納得いかない。
今現在を以て、国内に敵と言えるようなものなどいかほどいようものか。
何故か国は衛兵隊を排して陸軍を残そうとしたが、本来のところ最も不必要なのは陸軍の方で、治安を維持したり民を魔物や魔獣から守る衛兵の方が重要なはずなのだ。
だが、最強の陸軍国という自負から国はいつまでたっても陸軍重視をやめられない。
隣国のエルセリアは近年ますますその勢力を増し、陸軍だけでラナニアと伍する、そして海軍に関してはラナニアをはるかに凌駕する域にまで戦力を増強させているというのに。
今はまだいい。エルセリアの王は何を考えているかは解らないが、一応は平和を求めていると言われていた。
だが、万一後の代の王に野心が育った場合、この強力な隣国相手に、自国は対抗しきれるとは到底思えなかった。
そうなった時に、陸の要塞を海を介して迂回されれば、ラナニアの防備は全くの無意味になるというのに。
国の中ですら分断が起き始めている現在を見れば、他国からの侵略に対しての防衛など、無理に決まっていると思えたのだ。
だが、それでもアージェスは首を縦には振らなかった。
肯定してしまえば、全てが終わりになるから。
「提督。我々はあくまで民を守る事が仕事のはず。確かに……確かに、国に対しての不信感は私も強く抱いております。変わってくれるならその方がありがたい。ですが、その為に民が混乱するのは、私にとっても本意ではありません」
「我々が変えるのだ。不遇な、役立たずと言われた、お飾りの我々が」
「王を廃したところで、我々には政治などできません」
「都合よく、リース姫が囚われているらしいではないか」
「……それも、あの悪魔の話ですな?」
「そうだ! 我々の手で姫様を救出し、そして姫様に、我々の政治的ブレーンになっていただく。あの方も王によって苦労させられている、きっと我々についてくれるはずだ!」
努めて冷静に話しているつもりだった提督だったが、次第に興奮してきたのか、口調がだんだんと強くなってくる。
彼としても、勝算のある賭けのつもりだった。
民衆の活動は大きくうねりを上げ広まり、国の中枢もまた、大きく揺らいでいる。
現状、王さえ排除すれば全てが変革できる可能性があった。
「革命を、今こそ起こすべきなのだよ、アージェス君」
「……提督」
革命とは、限りなく成功する可能性の低いギャンブルだった。
過去の歴史を見れば誰でもわかるほどに、それによって成功した例が少ないのだから。
一時経済を良くしようと王座を奪った者が、それ以外のバランスを欠いて国を崩壊させたこともあった。
頼りない王を排除しようと権威を簒奪した軍人が、結局軍政の果てに民衆に決起され滅ぼされたこともあった。
飢餓にあえぐ民がパン欲しさに王族を皆殺しにし、彼らの機嫌取りのために目先の事ばかり重視した政策を取った政治家が国力を大いに削いで侵略・占領されたこともあった。
とかく、革命は分の悪い、ともすれば失敗しか眼が無いのではないかと思えるほどに外れクジばかりが詰まっている。
目先の事しか考えない理想論者の革命家と、後々の事を考えねばならぬ政治とは、本来相性が最悪なのだ。
だが、人々は目先の辛い現実から逃れようと、革命を望んでしまう。
それによってわずかでもよくなるならと信じてしまう。
その先に、希望などいかほども存在していないというのに。
革命によって革命以前より栄えた国家など、この世界に一つたりとも存在していないのに。
そんな事、提督だって解っているはずだった。
過去の歴史を学べば、革命など望む事すらおかしいと言える。
だから、アージェスはずっと答えを渋っていた。
ずっと参加を誘われ、ずつと拒んでいた。
「アージェス君。君にも、守りたい人の一人や二人はいるだろう? だが、今の王制のままでは、そういった者達ですら悲しい人生を歩むことになりかねん。今だ。今しかないのだ!」
「……守りたい、人」
だが、彼は最近、揺らぐようになってきた。
そんな事をすれば国は衰退し、大陸内のパワーバランスも崩れ、最悪国家は滅亡する。
それでも、それでも今現在、苦しんでいる人達は救えるかもしれない。
彼にもいたのだ、守りたい人が。傍に居て欲しいと願う、そんな女性が。
(……フランシーヌ。こんな時、君さえ傍に居てくれたなら、私は――)
そんな時、彼の頭に浮かぶのは、恋焦がれていた少女だった。
自分の悩みをただ聞いてくれて、自分の辛い気持ちを肯定してくれた、そんな少女。
夜街などという歪んだ後ろ暗い世界ではなく、明るい世界で自分と一緒に暮らしてくれればと、そう本気で願っていた。
同時に、自分の支えになってくれれば、と。
彼には、そんな女性が必要だったのだ。
自分以外の周りが全て革命色に染まっていく中、それでも尚、耐えられるように。
だが、彼は連れ帰れなかった。
翌朝。
海軍提督ベルセリヌは、自らの率いる第一艦隊を中心に独自行動を開始。
直ちに戦闘になった訳ではないが、『かつての英雄』の孫アージェスが賛同した事で、それに影響された他の艦隊も合流するようになり、海軍の構成艦隊の大半が革命側に参加する事になった。




