19、南の島で浮かれてるバカップル
水族館内は相変わらず溺れそうなくらいの人混みだったが、日花たちは運良く団体と団体のちょうど切れ間を陣取ることができ、人が多くて展示も見えないという事態は免れた。
色とりどりの魚、大きい魚、小さい魚、きれいな魚。
蛍明のシャツの裾を掴んだまま、それらを眺めたり写真に撮ったりする。
「こいつ、昨日釣ったな」
展示のひとつを指さして蛍明が言う。美味しそうだと思っていたら、そういえば確かに昨日蛍明が釣り上げてそして昼ご飯に食べた魚だ。
「え、釣りもしたの!?」
目を輝かせる杏に、日花は頷いてみせる。
「そう。船に乗って」
「お船に乗って!? すごい!」
「兄ちゃんすごかってんで。十匹くらい釣ったし、一番大きいやつで八十センチくらいのやつ釣ったんやから」
蛍明がスマホにその時の写真を表示する。杏が見やすいようにその腕を掴んで引き寄せると、彼女はそれを覗き込んで歓声を上げて蛍明を絶賛した。
「お兄ちゃん、釣りの才能あるんじゃない?」
「才能あるんじゃないかって褒めてくれてるよ」
「やっぱり? 杏もそう思う?」
杏にも褒められ蛍明は完全に悦に入ったようだ。きっと東京に帰り仕事が落ち着いたら、本格的に釣りを始めることだろう。
はしゃいで会話するふたりを見守る。蛍明には杏の声は聞こえないはずだが、何となく話が噛み合っているような気がする。
蛍明も、日花の視線を追いかけ杏がどの辺りにいるのかを把握するのに慣れてきたらしい。時々見えているようにふたりの視線が合う。
杏はそれが嬉しいらしく、ずっと蛍明の周りを跳ね回っていた。
「お、次はでっかい水槽やで」
パンフレットに目を落としたまま蛍明が言う。
「ジンベイザメ!?」
「ジンベイザメもいるみたいだね」
「やったあ!」
日花の返事に、両手を振り上げ歓声を上げながら杏が走り出した。
「あっ、待って!」
声を上げたが、一目散に駆けて行った彼女は止まらない。思わず蛍明の手を取り、その背中を追いかけた。
「なっ、何?」
「杏ちゃんが走って行っちゃった!」
あっという間に見えなくなった背中に焦っていると、「あはは」と蛍明が後ろで笑う。
「お前の話聞いとったらえらい大人びた子やなと思っとったけど、やっぱり十歳は十歳やな」
「もう、笑い事じゃないんだから……」
薄暗い通路から明るい広い空間へと足を踏み入れる。そしてほっと息をついた。
杏はすぐそこ、下り階段の近くの手すりの前に立っていた。その隣に立ち、彼女と同じように顔を上げる。
目の前にそびえ立つのはメインの大水槽だ。
差し込むのは陽の光だろうか。キラキラと揺れている幻想的な青い水に目を奪われる。
その中を、大きなジンベイザメと無数の魚たちが悠々と泳いでいた。
感嘆の息を漏らす暇もない。
聞いていたよりも、ずっとずっと。
「大きいね……」
「大きいな……」
「おっきい……」
ぼんやりと眺めて、いつの間にか開いていた口を閉じた。両隣のふたりの口はまだ開いたままだ。
写真を撮りたいなと考えて、そしてようやく思い出した。スマートフォンが入っている鞄側の手を、まだ蛍明と繋いでいることをだ。
離すタイミングを失ってしまった。掴んだのは日花からだったが、今は蛍明も日花の手を握り締めている。
意識すればするほど手のひらにじわりと汗が滲む。どうすればいいのか悩んでいることを、蛍明に感づかれていないだろうか。
「日花お姉ちゃん」
名を呼ぶ杏の声に、ギクリと体を強張らせて思わず蛍明の手を振り払った。何もなかったふりをして杏を見下ろす。
「どうしたの?」
「あの、近くで見てきてもいい?」
そう言って杏は水槽の前を指差す。
「いいよ、見ておいで」
「うん!」
元気に返事をして駆け出したが、やはり不安なのか彼女は何度も振り返る。振り返るたびに手を振ってここにいるよと伝えていると、ようやく安心したのか大型水槽の前まで走っていって、他の子どもたちと同じように身を乗り出して水槽を眺め始めた。
ふうと息をついて、ちらりと蛍明を見る。
手すりに体を預けている彼はこちらを見ないが、その横顔は特に手を振り払ったことに怒っているようには見えない。安心していると、蛍明もちらりと日花を見た。
「……杏、どこ?」
「今一番前で見てる」
「楽しそう?」
「すごく楽しそう。ちゃんとロープの内側でお行儀よく見てるよ」
遠くなるとその姿は少し黒くぼやけるが、それでもその背中は生き生きとしている。
水槽の上部を泳いでいたジンベイザメが、ゆったりと降りてきて杏の目の前を通る。子どもたちの歓声に混じって、杏の嬉しそうな声も聞こえて口元を緩めた。
「お前の目線追いかけとったら、何となくこれくらいの大きさの子がおるんやろなってのは分かんねんけど」
蛍明が指をさしたのは自分の胸元だ。確かに杏はそれくらいの身長だ。
「うん、ちょうどそれくらい。よく目合ってるよ」
「ほんまに?」
「うん。蛍明って誰とでも仲良くなれるなって思ってたけど、見えない幽霊とも仲良くなれるなんてすごいね」
「仲良くなれとる?」
嬉しそうにヘラっと笑って、それから彼は徐々に眉をハの字に垂らした。
「正直言うと、最初はやっぱり見えへん子に話しかけるのって何か変な感じで……」
そう感じるのは当たり前だ。むしろ、違和感を感じながらもあれほど話しかけていたことがすごいことだ。
「でもお前の顔見とったら、時々ちょっと視線下げていつもと違う笑い方するから、あー、今杏に笑いかけとるんやなって……見えへんけど杏がそこにおって、お前を見上げて笑っとるかお喋りしとるんやろなって思えるようになって。そしたら何となくここにおるような気がするんやけど、でもやっぱり見えへんねんなぁ」
蛍明は屈んで手すりに肘をついて、深いため息を漏らした。
「俺ってほんまに、霊感とか一ミリもないんやろなぁ」
「なくていいんだよ」
これだけは言い切れる。こんな能力必要ない。
蛍明は、幽霊が見える人間は幽霊たちにとって救いだと言った。それは理解できる。もし逆の立場になれば、日花だってそう考えるだろう。
それは、理解できる。しかし。
彼らを救えるものなら救いたいと強く願うのと同じくらい、いやそれよりも少し多いくらい、大切な人がこんな能力を持っていなくてよかったと安堵をしてしまうのだ。
「でも」
それは小さな小さな蛍明の呟きだった。あまりにも小さすぎて、「でも」のあとに続いた言葉は喧騒にかき消され聞こえなかった。
聞き返そうか迷って、結局何も聞こえなかったふりをする。蛍明も聞かせるつもりはなかったのかもしれない。日花が返事をしなかったことに、特に何も言わなかった。
「お姉ちゃん! お兄ちゃん!」
叫ぶ声に、水槽の中を漂っていた視線を杏に戻した。
飛び跳ねながら手を振る彼女に手を振り返す。それを見て蛍明も同じように大きく手を振った。杏から蛍明に視線を移す。
「杏ちゃんのところに行こうか」
「そやな」
前に出た彼の裾を掴もうとしたが、その時、日花の後ろを数人の子どもたちがはしゃぎながら走り抜けていった。よろけた日花は慌てて蛍明の腕を掴む。
「大丈夫?」
「うん、ごめん」
離そうとした手を蛍明が引き寄せる。驚いて顔を見たが、目は合わない。
「狭いとこでは腕掴んどき。あれやし、危ないし」
「……ありがとう」
言われるままに体を寄せ、腕を組む。きっとお互い体温が一度くらい上がった。
また大水槽を見上げていた杏が、階段を下りてきた日花たちに気付いて駆け寄ってくる。
「ただいま!」
「おかえり。すごかった?」
「すごかった! あのね、ずっと上の方を泳いでたジンベイザメがね、杏の目の前を通ってくれたんだよ! 目が合ったの! 魚は杏のこと見えてるのかも!」
「見えてたら嬉しいね」
「うん!」
「何が見えんの?」
蛍明がそう尋ねて、日花は顔を上げる。
「ジンベイザメと目が合ったんだって。魚は杏ちゃんのこと見えてたらいいねって」
「ははは、もしかしたら見えてへんのは人間だけかもしれへんな」
あははと蛍明と一緒に笑っていた杏が、はっと目を見開いた。その視線の先には蛍明の腕を掴む日花だ。
「つっ、付き合うことになったの!?」
興奮しきって叫ぶ彼女に向かって、蛍明には分からないようにゆっくりと首を横に振る。その顔が驚愕に染まった。
「何でぇ!? 何でよ! そこまでしてるならもう付き合いなよ!」
「さあ杏ちゃん、どんどん進もう。イルカのショーが始まるまでに館内を見ちゃおうか」
誤魔化すために早口で捲し立てると、彼女はイルカショーという言葉に顔を輝かせ、それから上手く誤魔化されかけたことに気付いて、少し気まずそうに目を逸らした。
「分かんない、大人ってほんと分かんない。だってお揃いの服着てるんだよ? 誰がどこからどう見ても南の島で浮かれてるバカップルだからね!?」
思わず大きく噴き出すところだった。パンフレットに目を落とす蛍明には気付かれなかったようだ。
否定できずに口元を隠して笑っていると、杏は怒られた子供のように首を竦め、「バカって言ってごめんなさい」と生真面目に謝った。
「いいよ」
「何が?」
蛍明が話に割って入って、「何でもない」と首を横に振る。
「そう? イルカショーさ、十三時やで」
蛍明がふたりの間にパンフレットを差し出して指をさす。
「十三時の次は時間的にちょっと厳しいから、これに間に合うように頑張ろか」
杏が体を屈めて蛍明の腕時計を覗き込む。慌てなければならない時間ではないが、のんびりもしていられない。
「分かった! 行こう!」
また走り出した杏に思わす叫びそうになったが、今度は彼女は少し進んですぐに止まって日花と蛍明を待ってくれた。
口元を押さえてにやにやと笑ったのは、おそらく未だに腕を組んだままのふたりを見てだろう。
そういえば狭い道では腕を掴んでいたらいいと言われたが、今歩いている通路は充分スペースがある。
またしても彼の腕を離すタイミングを見誤り、日花は緊張しきった手のひらで蛍明の腕をぎゅっと掴んだ。




