4 ・1 モラハラ元婚約者、現る
翌日。エルゼは大都市への転居を決めた。
昨晩寝ているヴァルターが魔力を暴走させたのだ。きっと怖い夢を見てのことに違いない。
暴走は今までにない規模で、部屋のガラス製品――窓やランプといったものはことごとく割れた。
ヴァルター自身も魔力放出の負担が大きかったらしい。目覚めたあとはいつになく盛大に号泣し、そのあとは気を失うかのように深い眠りに入った。
今もヴァルターはいっこうに起きる気配がない。昨夜の酷さを考えると、ひとまずは寝かせておいてあげたいと思うエルゼだった。
だけど――
(このぶんだとヴァルに適切な魔力制御を教えられるのは、きっと上位ランクの魔術師だけだわ。もう悩んでいる場合じゃない……!)
荒れた部屋を片づけながら、エルゼはフランク夫妻とのやり取りを思い返した。
転居を伝えるとふたりはすぐに、住み込みで働けるところを探すと約束してくれた。
(でも、転居先でも部屋を破壊してしまうかもしれない。シングルマザーの私に部屋を貸してくれる大家さんがみつかるかどうかもあやしい。それに仕事中にヴァルターを見てくれる人もいないし……)
考えれば考えるほどに、不安が募る。
それを払拭するかのように、エルゼは首を横に振った。
(うぅん、ダメダメ。弱気になっていたら、何も進まない)
「ママァ」
眠そうに目をこすりながら、ヴァルターがベッドから降りてきた。
どうやらようやく目を覚まして起きてきたらしい。
白いワンピース型寝巻を着たヴァルターはとたとたと歩いてくると、「ママ!」とエルゼに抱きついた。
「おはよう、ヴァル。私の可愛い子」
息子をぎゅっと抱きしめて、可愛らしい額にキスを落とす。
「えへへ、ママ大好き」
母親をギュッと抱きしめ返すヴァルター。
エルゼはもう一度キスをすると、ポケットから小さい巾着を取り出した。
今朝がたフランクの妻グレタがくれた護符が入っている。
ヴァルマーの魔力放出を案じて、以前都の魔術師に注文をしたものなのだという。それがちょうど今朝届いたのだとか。
「気休めかもしれないけれど」
グレタは申し訳なさそうに言っていたけれど、エルゼにとっては彼女の気持ちが嬉しい。さっそく首にかけられる巾着型のお守り袋を縫い、中に護符をおさめた。
エルゼはそれをヴァルターの首にかけ、寝巻の下にしまった。
そのとき、廊下に繋がる扉をせわしなく叩く音がした。
すぐに貿易商の事務員アランが顔を出す。
「エルゼさん、大変です! 今すぐ身を隠して!」
早口で言われた言葉に、エルゼはきのうのポスターを思い出し青ざめる。
「どうして……?」
尋ねる声が、ふるえてしまう。
「それがエルゼさんの元婚約者を名乗る男性が来ているんですけど、フランク会長が『絶対にまずい目的があってのことだ』って言って――」
『元婚約者』と聞いたエルゼは息をのみ、思わず我が子にまわす腕に力をこめた。
思い当たるのはひとりしかいない。彼女がまだ伯爵令嬢だったときに婚約していたヒュッツ侯爵家の嫡男ジーモンだ。
彼はモラハラ気質の上に上昇志向の強い、嫌な男だった。
婚約を結んだのは、エルゼが十六歳のとき。ジーモンは一歳年上だったけれど、あまりに性格に難があるせいで何度も婚約を解消されて相手がみつからなくなり、エルゼに声をかけてきたのだった。
結婚するためにあちらが提示してきたのは、破格の婚約支度金で。エルゼの両親は大喜びで、エルゼをジーモンに差し出した。
けれどそろそろ結婚をというタイミングで、エルゼの兄が事件を起こした。当然婚約は破棄。
そこでエルゼとジーモンの関係は終了したはずだった。
なのに野心家のジーモンはこの事件は王家に恩を売るチャンスと捉え、『自分が見聞きした話』を捏造して裁判で披露したのだ。
結局はそれは嘘だとすぐに露呈。彼は世間からの信用を失った。
自業自得以外のなにものでもないのだけど、なぜかジーモンはエルゼを逆恨みしている。
「やっぱり、マズい相手なんですね」
エルゼの青ざめた顔を見て、アランは察したようにうなずく。
「会長が追い返しますから、それまでは――」
「勝手に入らないでください――!!」
アランの声をフランクの怒鳴り声が遮った。
階下から激しくやりあう声が聞こえてくる。
「うるさいぞ、庶民! 私は侯爵令息だ!」
「ですがここはあなたのお国ではございません!」
(ああ、あの声はジーモンに間違いないわ)
エルゼはヴァルターを抱きかかえたまま立ち上がる。
素早く部屋に入り扉を閉めるアラン。
「クローゼットに隠れて!」
「いいえ」
エルゼはアランに駆け寄ると、ヴァルターを託した。
「あなたがヴァルターと一緒に隠れてください。ジーモンは次期侯爵。このままではフランクさんもこの商会も危険です」
エルゼは怯えるヴァルターに「いい子にしていてね」と微笑み、アランに抱かれて部屋の奥に行くのを見届けると素早く廊下へ出た。激しく言い争う声はまだ続いている。
(ジーモンの目的はなにかしら。あんなひとに会いたくないけれど、みんなに迷惑をかけず、ヴァルも守るには私が出て行くほかないわ。でもまさか、ヴァルの存在が知られているなんてことはないわよね)
不安に駆られながらエルゼが足早に階段をおりると、そこでは無理やり進もうとするジーモンと懸命に阻止しようとしているフランクたちが争っていた。
「ヒュッツ侯爵令息様」
エルゼの声掛けにジーモンが気づいて、「ふん! 自ら出てきたか」と顔を歪めるように笑った。
「彼らのふるまいはお許しください。私に責任があります」
エルゼはジーモンの正面に立ち、彼を見上げた。
ジーモンにストレートに意見をするのは初めてだ。少し恐ろしくはあったけれど、エルゼは怯える心を懸命に封印して、しっかりとジーモンの顔を見据えた。
ジーモンは記憶の中の姿より、幾分かやさぐれているような雰囲気がある。
最後に会ったのは三年も前で。ジーモンが変わったように、自分も変わったのだとエルゼは心を奮い立たせる。
「いったい私になんのご用なのでしょうか」
背筋を伸ばし、堂々と尋ねる。
そんなエルゼにジーモンは値踏みするかのような目を全身に走らせ、それを終えると口の端を少しだけあげて嫌味たらしい笑みを浮かべた。
「息災そうだな」
「ヒュッツ侯爵令息様もお元気そうでなによりです。それよりもご用件は」
「用件、ね。お前、ずいぶんと変わったな。強気になって。以前は私にそんな態度は取らなかったじゃないか」
(確かに以前の私はジーモン様に従順だったわ。でも今は守らなくてはいけないものがあるのだもの。強気でいかなくてどうするの)
「三年もたてば変わりますわ。なによりあなた様が私をお訪ねになる理由がわかりません。お教えいただきたいと願うのは当然でしょう」
「なるほど。願うというのならば、教えよう」
そう言うが早いか、ジーモンはエルゼの腕を掴んだ。
「なにをするのです!」
エルゼは振り払おうとするけれど、かなわない。
「一緒に来てもらうためだ」
「なぜです!」
「アーデル王女はいまだお前を熱心に探している。その理由はなんだ?」
「私の方が知りたいですわ!」
「まあ、私も理由なんてなんだって構わないのだ。お前を引き渡せば、きっと評価していただける。それだけで十分だ」
(ということは、名誉回復のために私を利用しようとしているだけ? ヴァルのことは知られていないのね)
エルゼはひとまずほっと胸をなでおろす。
そのときだった。二階から「なんだ、あんたたちは!」という叫び声と、それに続く激しく争う物音が聞こえてきた。




