3・1 三年後
ヴァルターが一生懸命に背伸びをしている。左手ではテーブルの足をつかみ、右手は上に。「うんしょ、うんしょ」とがんばっている様子は可愛い。
だけど彼が狙っているのはクッキーが入ったガラス容器だ。
(しまった、いつの間にこっちの部屋に来たの!)
エルゼは静かに唾を飲みこむと、我が子の後ろ姿に優しく声をかける。
「お菓子はあとでね、ヴァルター。もうすぐお昼ご飯だから」
動きを止めたヴァルターが振り返って母親を見上げた。
ややくせのある柔らかな黒髪に、黒曜石のような瞳をしたヴァルターは頬をいっぱいに膨らませて、不満げな顔をする。
怒った顔も可愛らしい。だけど――
(ああ、もう、自分の間抜けさがいやになるわ)
「片づけておかなかったママが悪いわ。ごめんなさいね」
エルザは謝ると、素早くガラス容器を手に取りキャビネットにしまった。
パタリと扉を閉めて、我が子を振り返る。だけど怒った顔のヴァルターは、母親が彼を抱き上げるより先に大声をあげる。
「やだ――!!」
とたんにヴァルターを中心にして、強い波動が沸き起こった。テーブル上のくだものかごが飛び、椅子が派手な音を立てて倒れる。窓ガラスはガタガタと揺れ、カーテンがバサバサと激しく波打つ。
「ヴァル!!」
波動に押し返されながらもエルゼはなんとか愛息子のそばに寄ると、ぎゅっと抱きしめた。
「魔力はナイナイよ! ヴァルもお部屋も壊れてしまう! ね?」
エルゼはヴァルターの額にちゅっとキスをする。ぎゅっと目をつむるヴァルター。「ふえぇ……」と声を漏らしたかと思うと、「いたい~~~~!!!!」と大声をあげて泣き出した。
(ごめんね、ヴァル。ママがなにもできないから……)
エルゼは申し訳なさに、泣きたい気持ちになる。
ヴァルターは二年前にエルゼが産んだ子供だ。父親はハインツ。姫様の身代わり初夜で授かってしまった。
といっても、そのことを知っているのはエルゼだけ。
エルゼは初夜の翌日に、誰にもなにも告げずにひっそりと王宮を出た。
万が一にでも、ハインツに身代わりに気づかれることがないように。
その身代わりが平民であり、しかも家族が大罪を犯して処刑されたような人間だと知られることのないように。
アーデルだけには、出奔の理由を書いた手紙を残した。『命を救ってくれた恩に報いるには、これが最善なのだと信じている』と記して。
そうしてひとりで旅をしている最中、エルゼは自分が子を宿していることに気がついた。
けれど王都に帰ろうなどとは思わなかった。むしろより遠くに行かなければと決意を新たにする。
アーデルの身代わりで初夜を迎えたことは、大切な恩人を守ることができたという彼女の誇りだった。
妊娠は予想外で不安はあったけれど、だからといって後悔することはない。
それはもしかすれば、初夜の晩のハインツがたいそう優しかったからかもしれない。
(あの晩がなければ、生涯未婚予定だった私が子供に恵まれることはなかったはず。この子は神様が授けてくれた唯一の家族よ。私ひとりでも大切に育てよう)
数ヵ月後、エルゼは王都に帰らないとの決断は間違っていなかったと、確信した。
生まれてきた赤子はハインツと同じ、時たま金色に輝く黒瞳を持っていたのだ。
泣きじゃくるヴァルターを抱きしめながら、エルゼは思わずこぼしそうになったため息を慌てて呑み込む。
(まさか平凡な私の子が、ハインツ殿下の瞳と強大な魔力を受け継いでしまうなんて)
ヴァルターは生まれながらに、その片鱗を見せていた。けれどここ数ヵ月でより顕著になっている。
しかもまだ魔力をコントロールすることができない。
そのせいで感情が爆発すると、身体から魔力が勝手にあふれ出てしまう。それが幼いヴァルターの身体に強い痛みを与えてしまうみたいだった。
仕組みの予想はついているものの、エルゼにはどうすることもできない。魔力を持っていないので、対処方法がわからないのだ。
魔法の能力は遺伝によるところが大きく、エルゼの両親や兄弟、祖父たちも魔力なしだった。
元来魔力保持者は滅多にいない。だから魔法を自在に扱える人間は貴重で、良い条件を提示してくれる王宮や大都市で職に就く。
エルザとヴァルターが住んでいる街にも、魔法を生業としている人間はひとりもいない。
そのためエルゼは自身がヴァルターに対処法を教えてあげることも、代わりに魔法の師をつけてあげることもできなかった。
(だけど、そろそろ限界だわ。魔力が日に日に強くなっている)
いずれヴァルターの身体が魔力の暴走に耐えられなくなるだろうし、物理的な被害も大きくなるはずだ。
実際にこの三ヶ月たらずで、椅子や食器をいくつも壊してしまった。窓ガラスも数回も割れているし、事情を知らない人にはヴァルターが手の付けられない暴れん坊だと思われていることだろう。
腕の中でぐすぐすと泣く愛し子を優しくなだめながら、エルゼは暗然たる気持ちになる。
ヴァルターに師をつけてあげたいけれど、そのためには大都市へ移るしかない。
でもそれは、エルゼにとっては容易ではない選択だっだ。
家族を処刑されたエルゼに、頼れる人はいない。今いるこの街以外に、行く当てはなかった。
しかもアーデルは、いまだにエルゼの行方を捜しているらしい。
(姫様のお気持ちはとても嬉しいけれど。見つけ出されることだけは絶対に回避しなければダメなのよ)
ヴァルターの父親は、女王の夫となるはずだった王子だ。
それがたとえ王女と国を守るために行動した結果なのだとしても、この秘密は死ぬまで隠し通さなければならない。
もし存在が知られることになれば、エルゼが守りたかったものがすべて壊れてしまう。
ヴァルターの身だって、どうなるかわからない。
大都市に行き、もしヴァルターがその桁外れな魔力で注目を集めてしまうと、秘密がバレる可能性が高まる。
当然それは回避しなければならないことなわけで。
そうなると大都市の引っ越しは危険極まりない。
(本当にどうすればいいのかしら。せめて私に少しでも魔法の素養があればよかったのに)
エルゼがそんなことを考えながら愛息子の背を優しく撫でていると、トントンと扉を叩く音がした。
どうぞとの声に扉を開いて顔を見せたのは、この屋敷の主でありエルゼの雇い主であるフランクだった。




