9・1 溺愛生活の始り
庭園の一角にある優美なガゼボで、エルゼは楽しそうに笑いながら芝生の上を駆けまわるヴァルターを見ていた。
はしゃぐ我が子に、自然と頬が緩む。
ヴァルターは教育係に見守られながら、同じ年頃の子どもたちと一緒に遊んでいる。楽しみながら体力や社交性を身につけるのが目的らしい。
(ここに来られてよかった。ヴァルターにとっては、とてもいい環境だもの。魔力が暴走しても安心だし、あんなにはしゃぐことができるなんて)
以前はヴァルターが魔力暴走を起こすことを考えると、ほかの子どもと遊ばせるわけにはいかなかった。
だけど今は、専用の教育係が対応してくれる。最高ランクの宮廷魔法使いで、ハインツの師でもあったという。
しかも保育者としてもプロのようで、ヴァルターはすっかりなついている。
(ひどい人見知りだったのに。すごいわ。たったの二週間であの順応っぷりだものね)
ヴァルターは時々フランクやグレタに会いたがって泣く。けれど三日に一度、鏡話の時間をもうけてもらっており、今のところはそれで納得してくれている。
(ヴァルターは偉いわ。それに比べて私はだめね……)
エルゼも、ヴァルター同様に教育を受けている。王太子妃になるためのものだ。挙式まで日がないので、ひとまずは礼儀作法、貴族社会の一般常識、歴史や近隣諸国についての三点にしぼっての授業なのだが、なかなかに大変だった。
さらにはヴァルターと違って、エルゼがリーデンシュタインの人間に歓迎されていないのは明らかだった。態度は慇懃だけれど、内心では見下しているのがそこかしこににじみ出ている。
(私を喜んで迎えてくれたのは、国王陛下とハインツ殿下の側近くらいだけ。私は平民だもの。陛下のご反応のほうがおかしいのだとわかってはいるけれど。……困るわ)
エルゼはため息をこぼした。
(どう扱われても慣れているからやっていけるけど、ヴァルターのことを考えたらそうも言っていられないわ)
今は幼いから、母がどのように扱われているか気づいていない。でもいずれ気づくだろうし、そうなったらいい思いはしないだろう。
(――というよりか、本当に私は王太子妃になるしかないのかしら。ハインツ殿下は良い方だとは思うけれど、彼が私に向ける愛情を同じように返すことはできないし。ああ、でも、殿下はそれでもいいいと言いそうだわ)
エルゼはいまだに、王太子妃になる決心がついていなかった。すでに結婚に向けての状況は整っている。エルゼは公爵家の養女になり、婚約も済んだ。だけれど、どうしても気持ちが追いつかないのだ。
「見つけた、エルゼ!」
エルゼの背後から弾んだハインツの声がしたかと思ったら、次の瞬間エルゼは抱き上げられていた。
ハインツが満面の笑顔で顔じゅうにキスの雨を降らせる。
彼の背後では護衛や近侍がエルゼに冷ややかな目を向けているのだが、ハインツが気にするそぶりはない。
「殿下! 急にはおやめください! 心臓に悪いです!」
エルゼの必死の抗議に、ハインツは笑みをますます深める。
「うんうん、いい傾向だ」
エルゼは『なにがかしら?』と首をかしげる。
「エルゼが困っているのは『心臓に悪い』から。つまり、私のハグとキスは受け入れているということだ」
「っ! そういうわけでは!」
「嬉しいぞ」
再びちゅっちゅっとあらゆるところにキスをするハインツ。
(ああ、もう! くすぐったいし恥ずかしいし、けっして受け入れているわけではないのよ!)
エルゼは心の中で抗議する。口にしたところでハインツ「素直でないところも可愛い」とにやけるだけだろう。この二週間ですっかり彼の言動が読めるようになってしまった。
(……でもやっぱり受け入れていることになるのかしら。殿下の腕の中にいると、守られているような気持ちになるもの。誰かの腕の中って、安心できるのだわ……)
ハインツはけっして屈強な体格をしているわけではない。それでも広い胸はエルゼをしっかり受け止められるし、しなやかな腕はエルゼを簡単に抱き上げられる。ずっと、頼れるひとはいても甘えられるひとがいなかったエルゼには、ハインツがとても頼もしく思える。
「ああ、ヴァルターもいい笑顔だ」
ハインツの嬉しげな声にエルゼが首を巡らせると、ヴァルターは友人たちと輪になってた。教育係が魔法で作り出した虹を見上げて、目を輝かせている。
そんな我が子の姿にエルゼの顔もほころぶ。
息子を愛おしげにみつめるエルゼのこめかみにキスをすると、ハインツは腕をほどいた。
「少し待っていてくれ」
そう言って、ヴァルターの元へ向かう。
どうしたのかとエルゼが見守っていると、ハインツも魔法で虹とシャボン玉を出してヴァルタ―たちを喜ばせはじめた。
「おとしゃん、すごいすごい!!」
興奮して懸命に虹に手を伸ばすヴァルター。そんな彼を肩車するハインツ。
そうやって父子はしばらく遊んでいたが、やがてハインツはヴァルターを教育係に任せてエルゼの元に戻ってきた。
「虹くらい父も出せると、見せておかねばな」
良い笑顔で王太子たるハインツが口にしたのは、子供じみた張り合いで。
エルゼはきょとんとしたあとに、ぷっと噴き出した。
(なあにそれ。ヴァルターにいいところを見せたかっただけなの? 案外可愛いところがあるのね)
「そういう笑い方をすると、コーンウェルにいたころを思い出すな」
ハインツは嬉しそうにエルゼを抱きしめる。
「可愛い、エルゼ。君がとなりにいてくれて幸せだ。王太子なんてやりたくないけど、エルゼのおかげで今日もがんばれる」
(殿下……。そうよね。ヘンリヒはものすごくお兄様を尊敬していたもの。忸怩たるものがあるのでしょうね。お気の毒だわ)
エルゼが聞いたところによると元々の王太子、ヨーゼフは三年前の内乱勃発時に負傷し危篤状態に陥ったのだという。その後命の危機は脱したものの、十分には回復しなかった。そのため自ら位を退き、現在は離宮で静養しているのだという。
そこで仕方なくハインツが王太子になったらしいのだが、本意ではないようでエルゼにスキンシップをしながらよくこぼしている。その姿が飼い主に甘えている大型犬のように思えるエルゼなのだった。
エルゼは思い切って、両腕をハインツの背に回した。彼には散々抱擁されているが、エルゼし返すのは初めてだ。
「ハインツ殿下。がんばってくださいませ」
「エルゼ! 嬉しいよ、君が応援してくれるのなら私はいくらでもがんばれる!」
感極まったハインツは、またもエルゼのあらゆるところにキスの雨を降らせる。そして最後にエルゼをギュッと強く抱きしめると、ようやく彼女を解放した。
「では仕事に戻る」
「行ってらっしゃいませ」
(まあ、なんていい笑顔)
すっきりした笑顔のハインツに、エルゼはなんとなく嬉しさを感じた。
ああ、と大きく頷くハインツ。
「だけどその前に。エルゼに伝えることがあって会いに来たんだ」
「なんでしょうか」
「午後、時間を空けてほしい。兄上の元婚約者を紹介する」
(兄上――第一王子ヨーゼフ殿下の元婚約者様ね?)
ヨーゼフには幼少期から婚約していた令嬢がいた。だが静養が決定したときに、王家のほうから頼み込んで婚約を解消したという。
(本来ならいずれ王妃になるはずだった方だわ。たしか公爵令嬢だったはず。私なんか、きっと気に入らないわよね……)
公務に戻るハインツを頭を下げて見送りながら、エルゼの胸の内には不安が広がっていくのだった。
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