8・2 ハインツの過去
しばらく呆然としていたエルゼは、ふと我に返ると急いで窓をしめてベビーベッドに駆け寄った。 中を覗けば、ヴァルターは穏やかな顔ですやすやと眠っている。
(そういえば侍女が、ハインツ殿下が体を動かす遊びをしていたと言っていたわ。それで深く眠れているのかしら)
フランクの妻グレタが、幼児の睡眠に大切なのは遊び疲れることだとエルゼに教えてくれたことがあった。
それをハインツが知っているのかどうかはわからない。
だけどエルゼの母国の貴族社会では、親は子と身体を使うような遊びはしない。そういったものは家庭教師任せだ。
(ジーモンはハインツ殿下のことを随分ひどく詰っていたけれど、良い方、よね?)
エルゼはヴァルターの頬を撫でながら、膨らむ不安を払しょくするかのように自問する。
(気持ちが重すぎるところが気になるけれど、それ以外は私たち母子によくしてくれる。いつも笑顔だし冷酷だなんてことは……)
こんこん、と扉を叩く音がした。
エルゼは飛び上がって驚く。
「エルゼ、私だハインツだ」
「……どうぞ」
胸を押さえながら答えると、廊下に続く扉が開いてハインツが入ってきた。だけれどその表情は険しい。
「君たちだけか? 侍女たちは」
「下がってもらいましたが、いけませんでしたか?」
「部屋に張っておくよう命じたはずの結界が、張られていない」
ハインツはそう言うと、鋭い目で閉じたばかりの扉をにらむ。
「護衛には降格処分をくだした。エルゼ、大丈夫か? 問題はなかったか?」
「降格ですか? それだけで?」
エルゼの脳裏に『冷酷王太子』との言葉が浮かび上がる。
「当然だ。王太子の命に従わない者も、エルゼを軽んじる者も王宮には必要ない。本来ならば解雇にするところだ。だが、ミスをするのは初めてだったからな。その点を考慮した」
ハインツの口調は冷淡で、それまでエルゼにかけられていた甘く優しい口調とはまるで別物だった。
どう捉えていいのかわからず、なんと返すかエルゼが考えていると、それに気づいたハインツが慌てて表情を和らげる。
「すまない、驚かせているな。きちんと話そう」
エルゼとハインツはそれぞれ眠っているヴァルターにキスをして、隣室に移動した。
またしてもハインツは当然のようにエルゼを膝の上に座らせようとする。それでは話しづらいとエルゼが抗議をして、ようやく隣同士の位置にすわった。
「エルゼ。初夜の晩にも少し伝えたが――」
ハインツはエルゼの両手を握りしめ、彼女の目をのぞき込むようにして話し始めた。
先代国王の急逝により、若くして王位を継いだ現国王にはふたりの息子がいる。最初の妃である他国の王女が産んだ第一王子ヨーゼフと、二番目の妃である自国の伯爵令嬢が産んだハインツだ。
ヨーゼフの母は出産後すぐに病没。彼女の侍女をしてい伯爵令嬢が、乳母係となった。
それからすぐに、国王に強く願われて伯爵令嬢は妃になり、ハインツを出産。
令嬢はふたりの息子を分け隔てなく愛し、家族は仲良く穏やかに過ごした。
だけれどハインツが『竜眼』を持っていたせいで、彼を王太子にと推す派閥ができてしまう。もともと年若く、優しい性質の王を侮っていた貴族社会は完全に二分され、争いが勃発する。
ハインツ派閥の筆頭は令嬢の父親だった。そのためやがて令嬢が心労により倒れて逝去。残された三人は、それでも争いに惑わされず結束していたのだが、分裂は激化、ついにはヨーゼフ暗殺未遂事件まで起きてしまう。
「だから私は兄上を守り、王位に興味がないことを示すために王宮から離れた」
「それがコーンウェルだったですのね?」
エルゼの問いに、それまで辛そうな表情だったハインツは僅かに笑みを浮かべた。
「そう。そこで君に出会った。聡明で健気で冬のひだまりのような君に私は――」
ハインツは切なげな顔で、エルゼの手にキスをする。
「瞬く間に恋に落ちた。好きでたまらなかったし、ずっと一緒にいたいと願った。だけど君が大切だからこそ、私の争いに巻き込んではいけないと思った。兄上と同様に、私も何度も暗殺されかかっていたからな」
「……そうだったのですね」
ヘンリヒは、ふとしたときに物悲しい表情を見せることがあったとエルゼは思い出す。
どうかしたのかと尋ねても、うまくごまかされてしまい、表情の理由はわからなかった。
「エルゼの家庭事情は心配だったが、落命の心配はない。別れは辛かったが、コーンウェルから君の幸せを願っているつもりだった」
ハインツはまたも愛おしそうにエルゼの手に唇を押し当てた。
「だが、君が婚約したと知ったときは嫉妬で狂いそうだった。それでも相手が名門侯爵家の嫡男だというから、きっと君の良さに気づけた素晴らしい男との婚約なのだろう、君は幸せになるのだろうと考えて、必死に自分を宥めたよ」
ハインツはこの頃、母国からもシュピラーからも離れた別の国で隠遁生活を送っていたという。そのためエルゼの婚約を知ったのは偶然で、ジーモンがどんな人物かまではわからなかったらしい。
彼が何度も婚約破棄されたモラハラ男だと知ったのは、アーデル王女との結婚のためにシュピラーの王城へ来たときだった。
「私の人生は後悔だらけだ」
兄が倒れたとの知らせを受け、ハインツが数年ぶりに王城へ帰ったところ貴族の派閥争いはまったくなくなっていなかった。父と兄が、心優しいハインツを守ろうとなにも伝えていなかっただけだったのだという。
「兄上が倒れたのも、母と同じ心労だった。このままでは母のように兄上も死んでしまうと思ってね。私を王太子にと推す派閥を一掃した」
にこりとするハインツ。
(なんでもないように言っているけれど、そんな簡単なことではないわよね? ずっと王宮から離れて暮らしていたわけだし……)
それほどまでにハインツのショックは大きかったのだろう。そうと思うとエルゼは、目の前の自信たっぷりでマイペースに振る舞ってばかりの王太子に、ときおりさみしい表情を見せていたヘンリヒの面影が重なった。
「だけどようやく王宮が落ち着いたら、シュピラーの王太子の不祥事にまつわる報告書の中に君の名前を見つけね」
ハインツの顔が苦痛に歪んだ。
「ただただ幸せを願っていた君が処刑されたと知って、己の愚かさを呪ったよ。コーンウェルで君を妃に迎える決断をすべきたっだんだと」
後悔で、またも気が狂わんばかりになったハインツは、エルゼの処刑が妥当なものだったのかを知りたいと考えた。そこにアーデル王女が婿を探しているとの情報が入り、ハインツはそれを利用することを思いつく。
そしてシュピラーを訪れたハインツは、ジーモン・ヒュッツ侯爵令息が何度も婚約破棄されるようなモラハラ男だと知った。
「本当に後悔ばかりで、おかしくなりそうだった」
エルゼの手に愛おし気に唇を寄せるハインツは泣きそうな顔をしていた。
「私が逃げてさえいなければ。兄上も君もこんなことにならなかったのに、と」
「ハインツ殿下……。後悔をしないように生きるのは、とても難しいと思うのです」
「エルゼは優しい」
表情をほんの少しゆるめて、ハインツはエルゼの手にキスをする。
「逃げないことを決めた私がなにをしたか、忘れたか?」




