8・1 モラハラ元婚約者、再び現る
ジーモンは魔術師とともに捕らえられてリーデルシュタインに連行された。
けれどエルゼは厳罰は望んでいなかったし、そもそもエルゼ母子はハインツがなんて主張しようとも書類上では『平民の母子』に過ぎない。
しかもエルゼはシュピラーの王女が捜索しており、貴族であるジーモンはその助力をしただけと言える状況だ。
そのためジーモンと魔術師は無罪放免になり、ハインツの手配で明日シュピラーに向けて出発する――エルゼはそのように説明を受けていた。
だというのにどうして今、ジーモンが窓に張り付いてエルゼを睨みつけているのか。
「ぼんやりしているな、落ちる!」
ジーモンが恫喝するような声を出し、呆然としていたエルゼは我に返ると窓に駆け寄った。
嫌いではあるけれど、転落して大怪我を負えばいいとは思わない。
エルゼが鍵を開けて窓を開くと、ジーモンは室内に転がり込んできた。
「無事か、エルゼリーナ!?」
元婚約者の口から出たのは、思いもよらぬ言葉だった。エルゼはまたも混乱して、目を瞬く。
「ジーモン様、どうして……?」
「ハインツ王子に聞いた。お前に落ち度はなく、あの男に逆らえなかっただけなのだと。信じていたぞ。お前が不埒な女になっていなくてよかった」
(ん? それってもしかして、ヴァルターを授かった経緯のこと? ハインツ殿下は私の名誉のために泥をかぶってくれたの?)
忙しく考えているエルゼの腕を、ジーモンが掴んだ。
「私はロープになるものを探す。お前は必要なものをまとめろ」
「え……?」
「ぼんやりするな、急げ!」
鋭い声で命じてジーモンは部屋の奥に向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください、ジーモン様!」
エルゼは慌てて元婚約者の腕を掴んで引き留める。
「ロープって……」
「なければお前も子供も二階からは降りられないだろうが、バカ者め!」
(まさかジーモンは私とヴァルターを連れて逃げようとしているの!? どうして!? 姫様に差し出すため?)
「ジーモン様、私は降りるつもりなどありません」
エルゼはヴァルターを気にしつつ、小声ながらもきっぱりと伝えた。
「は!?」
恐ろしい形相でエルゼをにらみつけるジーモン。
「怖がっている場合か。このままではあの王子の妾にされるのだぞ!」
「そうではなくて、ここでお世話になるつもりだからです」
「なんだと? そうか、脅されたのだな?」
「違います。自分の意思です! ヴァルターにはここの環境がいいと思うからです」
エルゼの言葉に、ジーモンの表情がさらに凶悪なものへと変化する。
「それでは私の妾になれないではないか」
「なるつもりなど毛頭ございません」
「馬鹿なことを言うな! 私がお前を引き取ってやると言っているのだぞ!」
「遠慮いたします」
「なっ!!」
ジーモンは顔を真っ赤にしこめかみに青筋を立てていた。
あまりの様相にエルゼは怖くなり、一歩下がる。ヴァルターはまだ騒ぎに気付かず、静かに眠っている。
(でもこれ以上騒いだら、馬車のときのように起きてしまうかもしれない)
ハインツによれば、馬車内で突然ヴァルターが魔力暴走を起こしたのは、母親の危機を感じ取ったことによるものだという。
(落ち着いて行動しなければ。もしジーモンがまたなにか仕掛けようとしてきたら、ヴァルターを抱きかかえて廊下へ逃げ出すしかないわ。うまく行くかしら)
ヴァルターが眠るベビーベッドとエルゼの間にはジーモンがいる。廊下は更にその先で、捕まらないよう逃げるのは至難の業に思える。
どうしようかと考えながらエルゼがジーモンを見ると、彼はまなじりあげてなじりあげてエルゼを睨みつけていた。
(ジーモンを刺激しないほうがいいかもしれない。モラハラであっても、昔は暴力をふるうようなひとではなかったけれど。以前とは変わったみたいだし……)
「エルゼリーナ」
エルゼはごくりと唾をのみこんでから、「はい」と答える。
「お前は私を愛しているだろう?」
「え?」
投げられかけた言葉はあまりに予想外で、エルゼは緊迫した状況にあることも忘れてぽかんとした。
「ずっと従順で、婚約破棄をすることもせずに私の隣にいたではないか」
「それは…‥‥」
(私がただの伯爵令嬢であなたが侯爵家嫡男だから、我慢していただけよ。なのにジーモンはそうは思っていなかったの? 私が彼を好きだと?)
エルゼは混乱しながらも考える。
かつてのジーモンはエルゼを粗雑に扱っていたものの、浮気もしないし婚約者としての振る舞いは完璧だった。
(まさかジーモンがここへ来たのは、自分を愛している元婚約者を助けようとしてなの? わざわざ壁をよじ登って? せっかく無罪放免で解放されるというのに、侵入者として捕らわれる危険を冒してまで? どうして……)
あまりに理解しがたいことだったので、エルゼはいったん考えるのはやめてこの状況を切り抜けることに注力すべきだと考える。
自分を奮い立たせ、しっかりと相手を見据えた。
「ジーモン様。助けにきてくださったことには、感謝しております。ですが、ヴァルターのことがなくても私があなたの手を取ることはございません。お許しください」
エルゼはジーモンからなるべく目を離さないようにしながら軽く頭を下げる。
「……エルゼリーナだけは他の女とは違うと思っていたのに」
(え?)
エルゼが顔を上げると、ジーモンは爆発しそうなほどに真っ赤な顔でふるふるとふるえていた。今までみたことのない激怒っぷりだ。
「だから大切にしてやった!」ジーモンはなおも叫ぶ。「助けてやろうと、お前を身請けできるよう王家に媚びまでふったのに」
(え、え、どういうこと?)
ジーモンはぎりぎりと歯ぎしりをしながら、混乱しているエルゼを睨みつけている。
「……もういいっ。愚かな女など私にはふさわしくないっ。冷酷王太子に骨の髄までしゃぶりつくされ利用され惨めに使い捨てられればいい!」
叫ぶやいなや、ジーモンは大股でエルゼの脇を通り抜けて、窓辺に寄った。そのまま桟をまたいで外に出る。
かと思いきや、振り返りエルゼをねめつける。
「ああ、そうか。しゃぶりつくされる前にリーデルシュタインのハイエナどもに、母子共々暗殺されるかもしないな。だが己が選んだ道だ。地獄で苦しむがいい!」
最後にそう捨て台詞を残し、ジーモンは姿を消した。
(いったいどういうことなの……?)
嵐のようなジーモンの襲来に、エルゼはただただ開いたままの窓を見つめることしかできなかった。




