7・1 ヴァルターとハインツ
「ヘンリヒ……?」
突然告げられた、思いもよらぬ名前にエルゼはぽかんとしてハインツの顔を見つめる。
その名前はエルゼの初恋のひとと同じもの。
燃える炎のような赤い髪も、嬉しそうな微笑みも記憶にある彼と同じだった。
ただ彼と過ごしたのは八年も前。当時のヘンリヒは十五歳くらいの少年だったけれど、今目前にいるのは二十代半ばの青年だ。
エルゼはふたりが同じ人物なのか、確証がもてない。懸命に当時のことを思い出そうとする。
彼へたくさんの話をした。好きな書物や花について。幼き頃によくしてくれた祖父との思い出。
ヘンリヒからは得意な魔法や大好きな兄が語られた。
彼がエルゼを見る顔はいつも優しげな微笑みをたたえていてたし、物腰は柔らかく、声は穏やかで心地よかった。
(ああ、そうだわ。ヘンリヒはハインツ王子であるはずがない!)
エルゼはついに肝心なことを思い出す。
「あなたはヘンリヒではないわ。彼の瞳が金色に輝いたことはなかったもの」
これは絶対に記憶違いでないとエルゼは断言できた。
そんなに珍しい瞳だったら記憶に残っているはず。けれどエルゼに覚えはない。
「すまない。魔法でごまかしていた。身元はどうしても隠したかったから。私は本当にヘンリヒなんだ」
ハインツはそう言うと、ポケットからごまかす際に使っていたという魔道具を取り出した。
一対のイヤーカフ。全体にハインツの瞳のようなオニキスがはまっている。
それを視認するなり、エルゼの古い記憶がより鮮明になる。
赤毛に隠れていることが多かったけれど、確かにヘンリヒは両耳に黒いイヤーカフをしていた。
エルゼは改めてハインツを見る。
「ヘンリヒは私だ」
改めてそう言って、ハインツは微笑んだ。
そのときだった。「うぅん……」とヴァルターの可愛らしい声がした。
エルゼはハインツの膝から飛び降りると、ベビーベッドの傍らに立って我が子を見下ろす。
ヴァルターはしばらくもぞもぞとしていたけれど、やがて目をしっかりと開いて起き上がった。
「……ママ!」
エルゼを見つけると、満面の笑みを浮かべて両手を伸ばす。
「ええ、ママよ。ヴァル」
エルゼも笑顔になって、ヴァルターを抱き上げる。するとハインツが彼女の隣に立って「お父さんもいるぞ」と声をかけた。
エルゼの腕に抱かれながら、きょとんとするヴァルター。しばらくしてから笑顔になり、「あ、おじさん!」と嬉しそうに声をあげた。
「そうだ、さっき会ったおじさんだ」
ハインツはにかりと笑う。
「だが『お父さん』と呼んでくれるとおじさんは嬉しい」
ヴァルターは首をこてんとかしげて「おとうさん・・・?」と考えている。
(そうだわ、ヴァルに父親の話をしたことがないから、お父さんという概念がないのかもしれない)
エルゼはそっとハインツの顔をうかがった。
ハインツはにこにこしながら、ヴァルターの次の言葉を待っている。
(やっぱり優しい人なのだわ。ヘンリヒもそうだったけれど……)
ヴァルターがハインツに右手を伸ばす。
ハインツがその手を握ろうと手を出すと、ヴァルターはハインツを真剣な顔でにぎにぎし始めた。
「どうしたの、ヴァル?」
「すごいおてて」
ヴァルターの返事に、ハインツが「ああ!」と笑顔でうなずく。
「先ほど魔力暴走をおさめたからだな」
「あ……」
エルゼもジーモンに拉致されたときのことを思い出した。かつてないほどの魔力暴走を起こしたヴァルターをハインツが鎮めてくれたときに、手で額に触れていた。
「ヴァルターは苦しかっただろうに、覚えていて賢いなあ」
されるがままになっているハインツは嬉しそうにヴァルターを見ている。
(この人は私のことだけでなく、ヴァルも好いてくれているのだわ)
「エルゼ」
ハインツが、夢中になっているヴァルターに気づかれないよう、小声で彼女に呼びかけた。
「『竜眼』の持ち主は、目以外も多くのことが一般的な人よりも優れている。魔法も身体能力も、頭脳も」
その言葉に、エルゼは思い出す。ヴァルターが生後七か月で歩いて、フランク夫妻が仰天したこと。言葉の覚えも早く、商会のみんなに天才ではないかと言われていること。
だから、とハインツが続ける。
「同じ『竜眼』を持つ私のもとで育つのが、彼にとって一番いい。私が君を愛していて、二度と手放すつもりはないという状況を除いてもな」
ハインツの口調はエルゼとふたりきりだったときのものとは違い、静かで落ち着いていた。それでいて、眼差しや表情はどこか淋しげで――。
エルゼは彼が心の底からそう思い、勧めているのだと感じた。
「私はヴァルにとって一番良い状況で育てたいと思っています」
「ならば、私の元以外ないな」
ハインツが満面の笑みを浮かべる。
「このおてて、好き」
ヴァルターがハインツの手を両手で握りしめて、エルゼに見せる。
「そうね。いいおててみたいね」
「そうだろう、なにしろヴァルターのお父さんの手だからな」
「……おとしゃん……」
ふたたびヴァルターは首をかしげて考えている。けれど自分の中で、なにかしらの納得ができたのか、素晴らしい笑顔を浮かべると嬉しそうに声をあげた。
「おとしゃん!」
ヴァルターもハインツも、眩しいほどの笑みを浮かべて笑いあう。
その様子を見たエルゼは、まだなにひとつ解決していなかったけれど、なんとなく嬉しいような、幸せなような、そんな気持ちを感じていた。




