6・1 リーデルシュタインの王城
エルゼの母国シュピラーとハインツの母国リーデルシュタインは、隣りあっている。
といっても国境が接しているのは険峻な山の頂に近いところで、到底通常の旅ができるようなところではない。
そのため両国間を直接行き来することはほとんどなく、ほかの国を通るのが一般的だ。遠回りになるけれど、かかる時間も安全性も段違いによくなる。
それでも多くの日数がかかるし、両王都間となると数週間は必要だ。
ましてやシュピラーの王都を挟んで正反対に位置する別国にいるエルゼにしてみれば、リーデルシュタインの王都に到着するのにいったいどれほどの月日が必要なのか、想像もつかなかった。
だから。ハインツが『リーデルシュタインに帰る』と言ったときにエルゼは、その途方もない旅程を考えて不安になったのだけれども。
エルゼはジーモンの馬車から助け出された数時間後には、ヴァルターとともにリーデルシュタインの王城にいた。
通されたのは小ぶりなサロンで、室内は美しい調度品で整えられ窓からは素晴らしいバラ園が見渡すことができる。
その贅沢な室内でゴブラン織りが張られた長椅子に、ちょこんとすわるエルゼ。傍らの立派なゆりかごの中にはヴァルターがスヤスヤと眠っている。
彼の柔らかな髪を静かに撫でながら、エルゼは壁際に並ぶ侍従や侍女たちに気づかれないように息を吐いた。
(明らかに場違いだわ……)
彼女もヴァルターも、着ているのは平民の服だ。フランク夫妻が裕福な貿易商だから、良い品ではある。けれど、あくまで平民としての基準。豪勢な王宮にふさわしい格好ではない。
(こんなの、やっぱり夢なのではないかしら。だっておかしいもの。ハインツ王子が私を愛しているとかヴァルターの存在を知っているとか。そもそも初夜のときに姫様ではないと気づいていただなんて、ありえない)
エルゼはヴァルターを見つめながら、忙しく頭を働かせる。
(公務が詰まっているはずの王太子が、遠く離れた異国まで私を探しに来るのも理解不能だし、そもそもこの距離を一瞬で移動って、どういうことなの? 王子を騙した没落令嬢に、かける労力ではないわよね?)
馬車で数週間はかかるはずの距離を、僅かな時間で移動できたのは転移魔法を使ったからだった。
けれどエルゼが知る限り、これほどの遠距離を転移できる魔法なんてものはない。というより、不可能だと聞いている。それをハインツ王子は実行したのだ。エルゼ母子を捕まえ、自国に連れて行くために。
さすがにとてつもない魔力と技術を要し、一度に転移できる人数もわずかなようではあった。
ハインツと高位の魔術師数人がかりで、時間をかけて魔法陣を展開したのをエルゼは目撃している。
(どうして私なんかのために。そもそもなぜ私があの街にいることをハインツ王子は知っていたの?)
エルゼはわからないことだらけだった。
というのもまだ、ハインツからなんの説明も受けていないからだ。
エルゼとヴァルターのほかにジーモンと魔術師もリーデルシュタインに連れて行くことになったため、転移魔法は一回では足らず、ハインツはそちらにかかりきり。
代わりにハインツの側近が、エルゼとヴァルターが王宮で滞在するための手筈を整えてくれた。
爆発的な威力の魔力暴走をしたヴァルターには、魔術師と医師の診察の手配を。
エルゼには気持ちが落ち着くようにと、温かな紅茶と美味しいお菓子の手配を。
(ヴァルの診察はありがたかったわ。どこも問題はないとわかってよかったし。でも――)
エルゼはヴァルターを見た魔術師や医師の反応が、恐ろしかった。みな、ヴァルターのときおり金色に輝く瞳に気づくと、それまでの態度を一変させて歓喜に沸いたのだ。
(この国ではあの瞳は、私が思っていた以上に尊ばれるものなのだわ。大丈夫かしら。ヴァルターと引き離されるなんてことは……)
ハインツは優しい人で、そんなことはしない――そう信じたいエルゼだけれど、彼とはたった一夜を共にしただけの間柄に過ぎない。
三年前は好印象であったけれど、先ほど助けられたときは、どちらかと言えば意味不明なことを言っているおかしな人だと感じた。
でも、とエルゼは思い直す。
(フランクさんとグレタさんには丁寧な対応だったわ)
ハインツがエルゼが住んでいた街を見つけた経緯は聞いていないけれど、ジーモンに拉致されている馬車をどうやって特定したかは、聞いた。
今朝、グレタがヴァルターにくれた護符のおかげだった。
エルゼたちと入れ替わりでフランクの屋敷に着いたハインツは、エルゼ母子の状況を聞いて護符の魔力を追跡して彼女たちに辿り着いたのだという。
そのような経緯だったから、ハインツは救出したエルゼとヴァルターをいったんフランクの屋敷に連れて行った。
「あなたたちご夫妻の協力により、ふたりを無事に救出できた」
ハインツはそう言ってフランク夫妻に丁寧に感謝を述べた。
その様子は彼らをジーモンが粗雑に扱ったのとはまるで逆で、敬意を持って接してくれていることは明らかだった。
(やっぱりハインツ王子はいい人よね……? 今すぐは無理でもいずれ、商会とこちらを繋ぐ魔法通信を設定すると約束してくれたもの。……フランクさんたちを『お義父さんお義母さんだと思って接します』と訳の分からないことも言ってはいたけれど)
そんな風に侍従侍女の視線に耐えながら、エルゼがひとりで悩んでいると。扉が開いて、弾んだ声とともにハインツが姿を現した。
「お待たせ、愛しいエルゼ!」
彼は輝くほどの満面の笑みで、すべての悩みを消し去ってしまいそうな神々しさがある。
思わずぽかんとするエルゼ。
そんなことは意に介さないハインツは、彼女に駆け寄ると救い上げるようにエルゼを抱き上げしっかりと抱擁した。
「ああ、ようやく! ようやくだ! さあ、結婚しよう! 愛している、エルゼ! 一分たりともガマンできない。今すぐ夫婦に!」
ハインツはエルゼの額に頭に頬にとあらゆるところにキスを落とす。
突然湧き起こった嵐のような騒ぎに、訳がわからないエルゼ。呆然とされるがままになっていたものの、ややもしてぎゅうぎゅうと強く抱きしめられる苦しさに、我に返った。
「ちょ、ちょっと……ちょっと、陛下! 待ってください! ヴァルターが眠っています!」
「ん?」
エルゼの必死のだけど抑えられた声に、ハインツは動きを止めた。
「……ああ、そうか。我が息子は昼寝中か。つい、嬉しさが勝ってしまって、悪かった」
にこりと微笑み、ハインツはエルゼと同じように声を落とした。
(やっぱりちょっとおかしいけれど、心根は優しい人なのだわ)
ハインツが素直にヴァルターに配慮する様子に、エルゼの胸がトクンと高鳴った。




