5・1 拉致から逃れる方法
(最悪のケースは免れたわ。ひとまずはよかった)
揺れる馬車の中でエルゼはヴァルターを見守りながら、密かに胸を撫でおろしていた。
エルゼが策を練らなくとも、行き先はアーデルのもとと決まった。
魔術師がハインツのもとへ行くのを、「『冷酷王太子』と名高い男だぞ? 子供もろとも殺される可能性が高い」と言って拒否したからだ。
(確かに内乱が平定された後に、そのような噂は流れてきたわね。でも状況的にそうならざるを得なかっただけで、彼の本質は違うと思う)
エルゼは初夜のときにハインツから聞いたことを思い出す。
あの晩のことはよく覚えていない。けれど比較的早いうちに語られたその話は、なぜか記憶に残っている。
(ハインツ王子のときおり金色に輝く黒い瞳は、王族だからこそのもの。だけど彼がそれを持ってしまったせいで、王太子のお兄様よりも第二王子のハインツ殿下を推す勢力があって、つらかったと言っていたわ)
彼と兄の仲は大変良好だったけれど、そのせいでハインツは一時期王宮から出て、遠く離れた地で生活をしていて淋しかったとか。
(お母様が早世なさったぶん、お兄様やお父様と力を合わせてがんばっていたというお話だったもの)
それなのにシュピラーに婿入りしたのは、どうしてもシュピラーでしかできないことをしたかったからだとハインツは話していた。それがなんなのかまでは語らなかったけれども、とても大切なことのようだった
この話を覚えているのは、彼の声も表情もやけに切なげだったからかもしれない。
(ハインツ殿下は冷酷ではないはずよ。家族思いの優しい方だわ。けれど偽の噂のおかげで助かったわね)
ハインツに、初夜の相手がアーデル王女ではなかったと知られるわけにはいかないのだから。
(それにこの様子なら、早々に逃げ出す機会があるかもしれないわ)
エルゼはそっと車内に視線を走らせる。
乗っているのは四人。エルゼとヴァルター、ジーモン、魔術師。
ヴァルターは白い寝巻のまま、床に置かれた大きめのベビーバスケットの中で静かに眠っている。背を丸めて狭そうではあるけれど、バスケットは魔法で固定されていて、思いのほか丁寧な対応をしてもらっていた。
(きっと憲兵対策ね。中を覗かれたときに、家族で乗っているように誤解させるためだわ)
エルゼが見た限り、馬車はヒュッツ侯爵家のものではないようだった。恐らく貸し馬車だ。
外見からは中に乗っているのが貴族とはわからない。となれば特別扱いされることもないから、検問所では中を検められるはず。
その際は恐らくはジーモンとエルゼ、ヴァルターが家族で、魔術師は秘書とでも申告するのだろう。
このときが逃げるチャンスだ。
(私は声と動きを魔法で封じられているけれど。できることを探すのよ)
ハインツの元よりは姫様のほうがよいといっても、行かなくて済むのならそうしたい。
幸いフランクやアランたちに怪我はなく、ジーモンがエルゼを連れ去る際に、無事に解放された。
けれどこの件を内密にしなければ、商会を潰すと脅されている。
エルゼも恩のあるフランクたちに迷惑をかけたくなくて、彼らには「大丈夫だから、私たち母子のことは忘れて」と強がってしまった。
だからフランクたちによる救出はない。自力でなんとかするしかないのだ。
(でも、よく考えたらジーモンはどうしてわざわざ私を探しにきたのかしら)
状況に対する覚悟ができたせいか、気持ちが落ち着いたエルゼに疑問が浮かぶ。
(自前の馬車ではないし、護衛も見知った顔がいないから臨時で雇ったのかもしれない。それなりに面倒でお金もかかるわよね)
エルゼの住んでいた町は母国の王都からも、ヒュッツ侯爵家の領地からもかなりの距離がある。往復するならば一ヵ月以上かかる。
(そんなにも名誉回復したいということ? この三年の間に、ほかにもなにかやらかしたのかしら)
エルゼはそっとジーモンをうかがう。尊大な態度は以前と変わりないけれど、表情はずっと暗い。
(嫌な男であっても、愚かではなかったはずなのに)
そもそも裁判で偽証なんてことをしたのが、エルゼには意外だった。権力志向はあったけれど、それまでは実力で勝負をしていたはずだ。
エルゼに対してだってそうだ。モラハラをしていたものの、だからといって浮気することもなく、公の場でのエスコートや誕生日の贈り物といった婚約者の義務は怠らなかった。
だから性格に難はあっても、侯爵家嫡男としての体面は保てていた。
(それすらダメになったのかしら。だとしても自ら乗り込んでこないで、人を雇えばいいのに)
エルゼが不思議に思っていると。魔術師が「不安になってきた」と呟くのが聞こえて、エルゼは目前のふたりに注意を戻した。
「こんなにも強力な魔力保持者の幼児がいるなんて、想定外ですし」
魔術師が困ったような顔でジーモンを見つめている。
「昨晩の魔力暴走。絶対に我々以外にも、この魔力保持者の存在に気づいた人がいますよ。王女殿下の捜索隊も近隣まで来ているのでしょう? 大丈夫でしょうかね」
(え! 姫様は私を探すためにそんな隊まで作っているの? どうしてそこまで……)
アーデルの性格を考えたら、エルゼに初夜の身代わりをさせたことを後悔して探しているという可能性が高い。
けれどその事実は公にできないはずだし、捜索隊を組むとなると費用がかかる。しかもエルゼは反逆者として処刑された一家の生き残りだ。
(ポスターだけならともかく、捜索隊とまでなると姫様も簡単には用意できないはず。よほどの理由があって姫様は私を探している? まさか姫様がいまだ未婚なのは私のことが解決していないからなんてことは……)
アーデルは再婚をしていないし、その気配もない。いずれ女王になる身なのだから、普通ならば『早いところお世継ぎを』と望まれ、結婚を勧められているはずであるのに。
次期女王の婚姻と元侍女の出奔に、どんな関係があるのかはわからない。
(でも私に新しい人生をと考えているよりは、有力な説よね?)
エルゼは穏やかに眠る我が子を見る。
(どうしよう。姫様のもとへ行って大丈夫かしら。姫様本人がよくても、ほかに問題があるかもしれない)
不安になるエルゼ。
彼女の様子などとんと見ていない魔術師が、ため息を吐く。
「まあ、彼らの動向を追っていたから彼女を見つけられたわけですしね」
「そう悲観するな」
面倒そうに相槌を打つジーモン。
「王女殿下の心証を悪くしては意味がないから、隊に見つかったら彼女たちを引き渡す」
(あら?)
エルゼは再び目前のふたりに意識を戻した。
(フランクの屋敷に魔術師を侵入させるなんて暴挙に出たわりには、そこは冷静に対処するのね。やっぱり権力者には弱いのだわ)
ジーモンがエルゼに目を向ける。どこかじっとりとした嫌な目つきだ。
「……ところでエルゼ。お前はやけにきれいに王宮から消え失せたが、手引きした男でもいたのか?」
魔術師が棒を取り出し呪文を唱えた。エルゼの喉はふっと軽くなる。彼女にかけた魔法を解いたようだった。
エルゼが恐る恐る口を開くと、きちんと声が出た。
「……いいえ。偶然うまくいっただけです」
「ふうん。今も男がいる様子はなかったし――」
ジーモンは視線でヴァルターを示した。
「お前の不貞はハインツ王太子だけか?」
「その質問に答える義務はありませんけど、我が愛し子のためにヴァルターの父親だけと神に誓いますわ」
ジーモンは「そうか」と鷹揚にうなずくと、口の端を歪めて暗く笑った。
「ならばすべてが終わったら、お前は私が妾に迎えてやろう」
「は? め……って、なにを仰っているの? 正気ですか?」
「嬉しいだろう? お前みたいな傷物をいずれ侯爵になる私が引き取ってやるのだ」
(ええ? まさかこの人、本気でそう思っているの?)
ジーモンは戸惑っているエルゼに気分を害したのか、表情を険しくする。
「なぜ『嬉しい』と答えない。不貞を許してやると言っているのだぞ!」
「不貞も何もヒュッツ侯爵令息様——」
「いい加減やめろ! わざとらしい!」
突如ジーモンが怒鳴る。
エルゼはなんのことかわからず、魔術師を見た。けれど彼は小さく肩をすくめる。彼にもジーモンの意図はわからないらしい。
「……『ジーモン』だろうが」
ジーモンが脅すような低い声で告げる。
(『ヒュッツ侯爵令息』が気に食わないということ? でも婚約を解消され、いまや平民の私が彼の名前を呼ぶなんて、ジーモンが怒りそうなことなのに)
エルゼの戸惑いは深くなる。
けれど当の本人がじとりとした目でエルゼを見つめて、エルゼが自分の名を呼ぶのを促す雰囲気を漂わせている。
(よくわからないけれど、ここは彼に合わせたほうがよさそうね)
エルゼはそう決めて「ジーモン様と――」と言い直す。
気のせいか、ジーモンのジト目がほんの少し緩んだように見えた。
「——私はなんの関係もないではありませんか。婚約だってとうの昔に破棄されていますし」
途端にジーモンの表情は醜悪なものに変化する。
「ライヒ家は大罪を犯したのだから当然だろう! けれどお前には婚約破棄は不本意だっただろうから、不貞は水に流して妾に迎えてやるとこの私が譲歩してやっているのだ!」
(ちょっと待って、意味がわからないわ。この人の思考、どうなっているの)
エルゼは恐怖を感じて、思わず身を引いた。
それがジーモンの癇に障ったらしい。彼は動く馬車の中だというのに立ち上がると、エルゼの手首を掴んだ。
「痛っ!!」
「うるさい、お前は私の妾になるんだ! 魔術師、例のアレを頼む!」
「やめて、放して!!」
身をよじるエルゼ。
魔術師は呆れたように嘆息したものの、棒を彼女に向けて低い声で詠唱を始めた。
(どうしよう。『アレ』がなにかはわからないけれど、絶対にマズいわ! でも魔法が相手では。――誰か助けて!)




