第4話「薬屋の繁盛とアルファの求愛」
翌朝、雨上がりの澄んだ空気が村を包み込んでいた。
蓮華堂の奥にある簡素な居住スペースで、男――蒼 龍牙は目を覚ました。
意識が戻ると同時に、彼は反射的に体を強張らせた。いつもの激痛が襲ってくるのを身構えたのだ。左肩の古傷、そこから広がる焼き付くような毒の痛み。それは毎朝の儀式のように彼を苦しめるはずだった。
しかし、痛みはなかった。
「……なんだ?」
龍牙は驚きのあまり、自分の左肩を右手で強く握った。
確かにそこに傷跡はある。だが、あの不快な熱や、骨の髄を凍らせるような悪寒が消えていた。体が羽のように軽い。まるで、毒を受ける前の万全の状態に戻ったかのようだ。
「目が覚めましたか?」
部屋の入り口から、穏やかな声がかかった。
昨夜の薬師だ。白衣の上にエプロンをかけ、手には湯気の立つお盆を持っている。
「お前……俺に何を飲ませた?」
龍牙は寝台から身を起こし、鋭い視線を蓮華に向けた。威嚇ではない、純粋な驚愕と疑念だ。王都の最高級の治癒師でさえ匙を投げた毒を、こんな辺境の、しかも若造がたった一晩で抑え込んだのだから。
「毒消しですよ。トリカブトと月光草、それに竜のヒゲを調合したものです。少し味が強烈だったでしょうけど」
蓮華は悪びれもせず、ベッドサイドの小さなテーブルにお盆を置いた。そこには、湯気の立つ白粥と、干し肉を戻したスープが並んでいる。
「毒消しだと? あんな泥水みたいなものでか?」
「見た目は泥水でも、中身は命の水です。それより、お腹が空いているでしょう。消化にいいものを作りました」
龍牙はお盆の上の食事を見下ろした。素朴だが、食欲をそそる香りがする。
昨夜は暗くてよく見えなかったが、改めて見るこの薬師は、不思議な雰囲気をまとっていた。色素の薄い髪に、意思の強そうな瞳。そして何より、自分のような強烈なアルファを前にしても、全く萎縮していない。
「……ふん」
龍牙は短く鼻を鳴らすと、スプーンを手に取り、粥を口に運んだ。
温かい米の甘みと、刻んだ薬草の風味が口いっぱいに広がる。
「うまい」
思わず本音が漏れた。
「それはよかった。薬膳粥です。体力を回復させる効果があります」
蓮華は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、龍牙の胸の奥がドクリと跳ねた。
毒の影響か? いや、違う。もっと根本的な、本能の部分が揺さぶられたような感覚。
龍牙は無言で食事を平らげると、懐から革袋を取り出し、テーブルの上に放り投げた。
ジャラリと重たい音がする。中身は金貨だ。
「治療代だ。足りなければ言え」
「こんなにいただけません! 薬代だけなら銅貨数枚で……」
「俺の命の値段だ。とっておけ」
龍牙は強引に言い捨てると、立ち上がってマントを羽織った。傷ついた鎧は脱ぎ捨てられている。
「また来る」
「えっ? あ、はい。お大事に」
龍牙は振り返らずに店を出て行った。
その背中を見送りながら、蓮華は困ったように眉を下げた。金貨の袋はずっしりと重い。これだけで、当面は生活に困らない金額だ。
「変わった人だなあ……」
しかし、その「変わった人」の影響力は絶大だった。
その日の午後から、蓮華堂には異変が起きた。
普段は村のお年寄りや木こりがパラパラと来る程度だった店に、武装した冒険者たちが次々と押し寄せてきたのだ。
「おい、ここか? 『蒼の龍』が通ってる薬屋ってのは」
「あの龍牙さんが、ここの薬で死にかけの状態から復活したって噂だぜ」
「マジかよ。どんなすごい薬が置いてあるんだ?」
狭い店内は、あっという間に鎧姿の男たちで溢れかえった。
彼らは棚に並んだ薬を手に取り、その見た目にぎょっとしながらも、次々と購入していく。
「なんだこれ、すげぇ色だな」
「おい見ろよ、こっちの軟膏、なんかピリピリするぞ」
「でも龍牙さんが認めたんだ、間違いないはずだ」
蓮華はてんてこ舞いだった。
商品の説明をし、症状を聞き、適切な薬を選ぶ。
一人一人に対して丁寧に対応する蓮華の姿に、最初は半信半疑だった冒険者たちも、次第に心を開いていった。
「なるほど、兄ちゃんの説明は分かりやすいな」
「へえ、王都じゃ見た目ばっかり気にするけど、ここは実用一点張りか。気に入ったぜ!」
夕方になる頃には、棚の薬はほとんど売り切れていた。
蓮華は心地よい疲労感と共に、空になった棚を見つめた。
「すごい……全部売れちゃった」
これが、SSS級冒険者の宣伝効果なのか。
あるいは、実力主義の辺境だからこそ、蓮華の薬が受け入れられたのかもしれない。
その夜、店を閉めようとしていると、再び扉が開いた。
現れたのは、朝に出て行ったばかりの龍牙だった。
今度はきちんとした衣服をまとい、手には大きな包みを抱えている。
「あ、あの……いらっしゃいませ?」
蓮華が戸惑っていると、龍牙はずかずかと店内に入り込み、カウンターに包みを置いた。
包みを開くと、中から出てきたのは新鮮な肉や野菜、そして見たこともない珍しい果物だった。
「差し入れだ。食え」
「ええっ!? でも、朝にあんなに頂いたのに……」
「金は治療代だ。これは俺の気持ちだ」
龍牙はぶっきらぼうに言うと、カウンターに肘をついて蓮華を覗き込んだ。その金色の瞳は、獲物を見定めているようでもあり、宝物を見守っているようでもあった。
「お前の薬、評判がいいぞ。部下たちも喜んでた」
「あ、ありがとうございます。龍牙さんのおかげです」
「礼には及ばん。……それより、飯はまだなんだろ? 一緒に食うぞ」
「え?」
気がつけば、蓮華の小さな食卓に、国最強の冒険者が座っていた。
龍牙が持ってきた食材で、蓮華が手早く料理を作る。
狭い台所に男が二人。不思議な光景だが、なぜか居心地の悪さは感じなかった。
料理を囲みながら、龍牙はポツリポツリと自分のことを話し始めた。
国境警備の任務のこと、魔獣との戦いのこと、そして部下たちのこと。
その言葉の端々から、彼がどれほど仲間を大切にしているかが伝わってきた。
蓮華もまた、薬草の話や、この村に来た経緯を少しだけ話した。実家での扱いは伏せたが、自分の薬作りへの情熱は隠さなかった。
「お前の薬には、魂がこもってる」
食後、お茶を飲みながら龍牙がつぶやいた。
「王都の気取った薬とは違う。泥臭いが、温かい。……俺は、こういうのが好きだ」
その言葉は、蓮華がずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
胸の奥が熱くなり、視界が少し滲む。
「……ありがとうございます」
蓮華が顔を伏せると、龍牙の大きな手が、そっと蓮華の頭に置かれた。
無骨で、温かい手。
アルファ特有の圧迫感はなく、ただ安心感だけがそこにあった。
これは求愛行動なのだろうか。それとも、ただの親愛の情なのだろうか。
オメガとしての経験が乏しい蓮華には判断がつかなかったが、その夜、彼は久しぶりに何の不安もなく眠りにつくことができた。
店の外では、夜風が優しく木々を揺らしていた。
二人の距離は、まだ始まったばかりの物語のように、ゆっくりと、だが確実に縮まりつつあった。




