第3話「嵐の夜の来訪者」
その夜は、季節外れの激しい嵐だった。
雷鳴が轟き、稲光が闇を切り裂く。雨は滝のように降り注ぎ、蓮華堂の古びた雨戸をガタガタと揺らしていた。
蓮華は作業台に向かい、薬草の種分けをしていた。
外の嵐の音が気になって、なかなか作業に集中できない。
森の植物たちは大丈夫だろうか。昨日植え替えたばかりの苗が心配だった。
「ひどい天気だ……」
ふと手を止めて、窓の外を見る。
何も見えない漆黒の闇。風の音がまるで獣の咆哮のように聞こえる。
その時だった。
ドォン!
扉に何かが激突したような、重い音が響いた。
蓮華はびくりと体を震わせた。
風で何かが飛んできたのだろうか? それとも、迷い込んだ野犬か?
しばらく様子を窺っていると、再び音がした。
ドン、ドン……。
今度は、誰かが扉を叩く音だ。弱々しいが、確かに人の意思を感じるリズム。
こんな嵐の夜に、一体誰が?
蓮華はランプを手に取り、恐る恐る玄関へと近づいた。
オメガの本能が、かすかな警鐘を鳴らしている。扉の向こうにいる存在から、ただならぬ気配を感じ取ったのだ。それは、圧倒的な強者のオーラ――アルファ特有の圧迫感だった。
「……どなたですか?」
声をかけたが、返事はない。
代わりに、何かが崩れ落ちるような衣擦れの音が聞こえた。
放っておくわけにはいかない。もし怪我人なら一刻を争う。
蓮華は意を決して、かんぬきを外し、扉を少しだけ開けた。
強風が吹き込み、ランプの火が揺れる。
その薄明かりの中に、巨大な影がうずくまっていた。
ずぶ濡れの黒いマント。その下に見えるのは、泥と血にまみれた鎧。
男だった。それも、見上げるような大男だ。
男は扉が開いたことに気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
濡れた黒髪の間から覗くのは、金色に輝く鋭い瞳。
その視線が蓮華を捉えた瞬間、ビリビリとした電流のような衝撃が走った。
「薬屋……か……?」
地を這うような低い声。苦痛に喘いでいるのが分かる。
「はい、そうです。怪我をしているんですか?」
「毒だ……。解毒剤……あるか……」
男はそこまで言うと、力が尽きたように前のめりに倒れ込んだ。
「あっ! しっかりしてください!」
蓮華は慌てて男の体を支えようとしたが、あまりの重さに一緒になって床に倒れ込んでしまった。
鉄の塊のような重さだ。熱い体温が、濡れた服越しに伝わってくる。
そして、濃厚な匂い。
雨と血の匂いに混じって、焦げたような、それでいてスパイシーな香りが鼻をつく。これは、この男のフェロモンだ。
通常のオメガなら、この至近距離で強烈なアルファのフェロモンを浴びれば、恐怖で動けなくなるか、あるいは発情してしまうだろう。
しかし、蓮華は違った。
彼の「欠陥」と言われた体質は、他者のフェロモンに対する耐性も人一倍強かったのだ。
「とにかく、中へ……!」
蓮華は必死に男を引きずり、なんとか店内へと運び入れた。
扉を閉め、男をその場に寝かせる。ベッドまで運ぶのは不可能だ。
ランプの光で男の様子を確認する。
顔色は土気色で、脂汗が玉のように浮いている。呼吸は荒く、うわ言のように何かをつぶやいている。
左肩の鎧が砕け、そこから黒ずんだ血が流れていた。
「これは……」
蓮華は傷口を見て息を呑んだ。
ただの傷ではない。傷口の周囲が紫色に変色し、血管が黒く浮き出ている。
『バジリスクの毒』だ。それも、かなり強力な。
通常の解毒剤では効かない。すぐに毒が心臓に達してしまう。
「待っていてください。すぐに薬を作ります」
蓮華は立ち上がり、作業台へと走った。
迷っている暇はない。
棚から「月光草」の乾燥葉、「竜のヒゲ」と呼ばれる根、そして猛毒を持つ「トリカブト」の粉末を取り出す。
毒を以て毒を制す。
危険な賭けだが、これしか方法がない。
蓮華の手は震えなかった。むしろ、極限状態の中で感覚が研ぎ澄まされていく。
薬草の声が聞こえる。
『もっと細かく』
『熱湯で一気に』
『混ぜて、混ぜて』
乳鉢ですり潰し、調合した粉末を小さな杯に入れ、熱湯を注ぐ。
シュウウウ……と白い煙が上がり、強烈な刺激臭が立ち込めた。
「飲めますか?」
蓮華は男の上半身を抱き起こし、杯を口元へ運んだ。
男はうっすらと目を開け、怪訝そうに濁った液体を見た。
「……泥水か……?」
「特効薬です。死にたくなければ飲んでください」
蓮華は強い口調で言った。
男は一瞬、驚いたように目を見開いたが、ふっと口元を緩め、素直に液体を飲み干した。
ゴクリ、ゴクリ。
飲み干した直後、男は激しく咳き込んだ。
体が痙攣し、苦悶の声を上げる。
「ぐ、うぅっ……!」
「我慢してください。今、毒と戦っているんです」
蓮華は男の背中をさすり続けた。
数分後、男は黒い血を吐き出し、そのまま脱力して深い呼吸を始めた。
顔色が少しずつ戻り、紫色の変色も薄れていく。
「……助かった、のか……」
男のかすれた声。
「はい。峠は越えました。あとは安静にしていれば大丈夫です」
蓮華は安堵の息を吐き、男の額の汗を拭った。
改めて男の顔を見る。
彫りの深い端正な顔立ち。野性的だが、気品のようなものも感じる。
そして、その首元に見える紋章――剣と竜を模した刺青。
蓮華はハッとした。
この紋章は、国境警備隊の隊長クラス、それもSSS級冒険者だけが持つことを許される証。
「あなたは……」
男は重たいまぶたを持ち上げ、金色の瞳で蓮華をじっと見つめ返した。
「俺の名は……蒼 龍牙。……礼を言う、名無しの薬師」
その言葉を最後に、龍牙は深い眠りへと落ちていった。
外の嵐は、いつの間にか小降りになっていた。
蓮華は知らなかった。
この嵐の夜の出会いが、彼を再び表舞台へと引き上げ、やがて国中を巻き込む大きな物語の始まりになることを。




