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ルークは、ゆっくりと、ゆっくりと唇を離した。
薄い唇。性急な口づけは、包み込むような、ゆっくりと味わうような、愛しい男の口づけとは、違った。
レイチェルの体はすっぽりと、この男の腕に包まれたままだ。
腕を離す様子はない。
騎士の堅牢な肉体にガッチリと閉じ込められて、レイチェルはその体を預けるしかなかった。
どのくらいの時が流れたのだろうか。
レイチェルは、ようやく口を開いた。
「。。ルーク様、いつから、、、」
ギュッと、もう一度レイチェルを抱きすくめて、言った。
「聞きたいか?笑うなよ。。」
先ほどの思い詰めたような顔ではなく、甘い、甘い、とろけそうな笑顔をレイチェルにむけて、ルークは子供をあやすようにレイチェルの体をを自分の膝の上に移した。
風が冷たくなってきた。
「。。覚えてるか、お前、俺の制服の袖に悪戯しただろう。」
レイチェルが来て、しばらくしてからの話だ。
娘達に髪飾りを作り始めてから、ルークはレイチェルの部屋によく入り浸るようになった頃。
「。。ああ、そんな事もありましたね、あまり覚えていませんけど。。」
懐かしそうにルークは、昼の月を見つめて呟いた。
「あの日の夜からだ。」
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その日、ルークは、レイチェルの部屋に寄ってから、さる伯爵家の晩餐会に出席の予定だった。
あまり品行のよくない伯爵家の会だ。
訪問すると、必ず潰れるまで酔わされるが、宰相家の長男として、国内の有力貴族の集いに、欠席すると言う選択肢はない。
ルークの仕事の大きな部分は、社交だ。そしてこの男は実に有能に、社交界を渡り歩いて己の地位と、宰相家の立場を確固たるものにしてきた。
あまり気の進まない伯爵家の晩餐会の前、レイチェルの部屋でウダウダと時間を潰して、今から参加する予定の伯爵家の文句を一頻りレイチェルに聞いてもらって、重い気分のまま参加したのだ。
晩餐会はいつものごとくだ。
品が悪い。その一言に尽きる。
けばけばしく飾り立てた男女が、下卑た話に花を咲かせている。
(おかしいな。。いつまで経っても気分が悪くならない。。。)
いつものごとく、伯爵にワインをしこたま飲まされて、いつもであれば相当酷い状態になっていたはずの状況で、ルークは自分の体が軽いままなのを訝しんでいた。
ルークは酒は好きだが、そこまで強いわけではない。豊潤な香りを口に含んで、愛でるように嗜むのが好きなのだ。その結果酔うのであれば楽しいが、今日の会のように、酔うのが目的なような飲み方は好きではない。
宴も終盤だ。
ルークの周りには、ベロベロに酔い潰れた美しい装いの貴人達で溢れている。中にはハメをはずしすぎて、半裸になっている壮年の貴族や、それぞれ立派な夫や妻のあるはずの男女が共にカーテンの裏に消えて行ったり、なかなかの爛れた会だ。
ルークもこう言った会は慣れている。何人かの令嬢と戯れて、それなりに楽しんで帰るほどには、社交界との相性は良かったのだ。
今夜の遊び相手になった令嬢が帰途についたらしい。
名前も思い出せないが、美しい娘だった。明日には他の男と同じ遊びをするのだろう。ルークも同じだ。
酔い覚ましに水を手にとって、ルークはバルコニーに風にあたりに出た。月の美しい夜だった。
そこでようやく左の袖口から感じるぼんやりとした暖かい魔力に気がついたのだ。
左の袖口の裏には、とても小さな、そして本当に目立たない所に縫い取りがしてあったのだ。
(あー、レイチェル・ジーンの悪戯だな。)
軽い気持ちで、酔いながらも、目を凝らして小さな縫い取りを観察した。
そういえば今日、その辺りに脱ぎ散らかしていた上着を、レイチェルが触っていたのを思い出した。小さいながらも見事な陣の縫い取りだ。
(なるほど吸収阻害か。。。毒からの守護祈祷の簡素版か。。あの短い時間で、俺の目を盗みながらこれだけの事ができるのか。。)
酒の吸収が、効果は弱いものの、阻害するだけの威力がある縫い取りだ。
酔いはするが、いつものように深酒にならないように、上手に威力が調節されていて、ルークは、その見事な術式にすっかり関心してしまった。
(。。?もう一つある。。)
右の袖口にも、何かがある事を感じた。
そっと袖口を返してみると、そこには、とても短い一文だけの安全の祈祷。
ルークは思わずこの、享楽的な晩餐会には似つかわしくない、優しい笑顔を思わず浮かべていた。
(馬鹿だな、あの娘。俺なんかの心配してやがる。)
小さい小さい、交通安全の祈祷文が一文。酔って足がもつれても、転ばないくらいの効果はある。
ふと、今日の遊び相手の娘の顔を思い出した。
美しい女だった。楽しい夜を過ごせた。ただそれだけだ。
今までの女達の全てがそうだったように。
そして今度はレイチェルの事を思った。
己の父が国の為に誘拐してきた、地味で美しくもない娘だ。
軟禁の身で、泣きもせず、卑屈にもならず、文句も言わず、何も要求せず。
ミツワの娘達の為にルークの目を盗んで、一生懸命髪飾りを作っていた事は、つい先日知った。
オレにまで。
何も言わなければ、気がつかないとでも思ったか、レイチェル・ジーン。バカにするなよ。お前がひっそり俺の体の心配しているしているなんか、俺にはお見通しだ。
だがな。
爛れた夜会に出席するオレの体の心配までして、お前の心配は誰がしてやるんだ。
その日から、ワインの澱のように、一つ、また一つ、ルークの心にレイチェルへの思いが降りていった。
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それが、始まりだと、太陽の騎士はつぶやいた。
いつ、心に振り続ける思いが、恋に変わったのかはもう検討もつかない。
気がつけばレイチェルへの気持ちで、雁字搦めになってどうしようもない所まで、きてしまった。
そう呟くと、ルークはその薄い唇を今度はゆっくり、確かめるようにレイチェルのそれに押し当てた。




